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飯盛山から城を見る。〜会津若松①
それは、前回の山形旅(山形、ぐるり⑤)終盤のキャプションに端を発する。
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米沢駅で牛くんに別れを告げ、15:40発のつばさ号に乗った。
そこまでは真実だ。
牛くんも別れを惜しんでくれた。 ←え?
だがしかし、「帰路についたのだった」の部分。
すまんが、これはウソだ。
記事を書いたのが年末だったので、きりがよいところで区切ったまでのこと。
実際には帰路にはつかず、郡山駅で途中下車して会津若松駅へと向かったのである。
什(じゅう)の掟からあいづっこ宣言へ
山形旅が終われば、東北から中部へと旅の舞台が移る。
範囲も広いし、それはそれで集中しなければならないだろう。
そうなると、おいそれと東北エリアに足を運ぶわけにはいかなくなるわけだが、それでもどうしても、雪が降る前に見ておきたい場所があったのだ。
会津(福島県)だ。
福島には相馬野馬追を見るという目的で、南相馬市を中心に旅をした。
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伝統の継承だけでは語り尽くせない相馬のサムライ魂を見た
県民性ということでいえば、「質実剛健」という言葉がもっともふさわしいのは福島県民ではないかと思っている。
相馬野馬追をみても、相馬藩士のサムライ魂が息づいていることを確認できた。
そして、会津には会津藩の伝統がある。
「ならぬことはならぬものです」で知られる什(じゅう)の掟。
現代においても「あいづっこ宣言」として子供たちに受け継がれているという。
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「やってはならぬ やらねばならぬ」に強い意志を感じる
また、戊辰戦争の陰でうら若きいのちを散らした白虎隊の悲劇も忘れてはならない。
1泊2日とあってはたいしたこともできないが、せめて悲劇の舞台である飯盛山に登って自刃した十九隊士をしのぼうではないか。
というのが今回の会津プチ旅行の主旨である。
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さすがに疲れたので、この日は買い物だけして駅前の宿で爆睡した
会津総鎮守・伊佐須美神社
翌朝、只見線に乗って会津高田駅へ。
まずは会津総鎮守・伊佐須美神社にご挨拶だ。
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左右に誰か祀られているぞ
伊佐須美神社の祭神は、イザナギ&イザナミ神と大毘古命&建沼河別命の4神。
大毘古(おおひこ)命と建沼河別(たけぬなかわわけ)命は父子にして四道将軍である。
『古事記』では、崇神天皇が諸国平定のために北陸、東海、西道、丹波にそれぞれ四人の将軍を派遣したと伝えられている。
このうち、高志道(北陸-日本海ルート)を進んだのが大毘古(彦)命で、建沼河別命は東の方十二道(東海道ルート)を進み、両者が行き会った場所が相津(会津)として地名のもととなった。
例によって日本書紀ではまた違ったことが書かれているので、ここでは会津の地名発祥説話に合わせて整理して記しておいた。
伊佐須美神社では、この4神を伊佐須美大神または伊佐須美明神と総称している。
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稲荷山古墳出土鉄剣の銘文「意富比垝」とする説もある
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なんとなくこちらのほうが若そうだから息子にしたけど違ってたらごめん(笑)
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2008年10月の不審火により本殿や神楽殿などが全焼し、再建計画中とのこと
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なぜこの場所に?
至徳2(1383)年、玄翁和尚により那須で砕かれた殺生石は、全国三か所の「高田」と名の付く土地に飛来したとされ、その一つが会津の高田(現・会津美里町)であると伝えられます。
玉藻前という美しい女性に化けていた九尾の狐(妖狐)が正体を見破られ、その姿を石に変えても毒ガスを発して人々のいのちを奪い続けたために殺生石と呼ばれて怖れられた。
石に封印されて叩き割られると各地に飛んでいったなんて話は天津甕星などにもみられるけど、玉藻前ほどになると新潟やら広島やら大分なんて説もあってスケールが大きい。
美作国高田(現・岡山県真庭市勝山)、越後国高田(現・新潟県上越市)、安芸国高田(現・広島県安芸高田市)、豊後国高田(現・大分県豊後高田市)、会津高田(現・福島県会津美里町)のいずれか
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いったい高田に何があるのだろうか
白虎隊に会いに来たのにとんでもない謎に遭遇してしまった。
それと、もう一つ。天海大僧正だ。
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天海大僧正については、山形旅の出羽神社三神合祭殿の末社(天侑社)でも部分的に触れた。
徳川家康を東照大権現に祀り上げた聖地ビルダーでもある。
その天海が、会津美里町で生まれたとされているのだ。
どこまでたどれるかわからないけど、行ってみるか。
天海大僧正生誕の地
会津美里町は伊佐須美神社から800mほど離れた場所にある。
会津高田駅前を通る県道401号沿いの商店街に、その名も「天海大僧正生誕の地前」という名のバス停がある。
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うーん、いまいち逆光だな。
こんなときは俺の天海大僧正フォルダーからとっておきの写真をお見せしよう。
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後に朝廷より慈眼大師の名を与えられた天海の墓は輪王寺にほど近い慈眼堂として建てられている
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あらゆる天海像の中でも最高傑作ではないだろうか
表情も精緻で今にも語り出しそうな風情である
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生誕の地については諸説あったが、両親の墓が会津美里町にあったことが決め手となった
他にも史跡はいくつもあるようだが、残念ながら時間切れだ。
天海についてはこつこつ調べているので、いずれまとめるときに再調査に来ることにしよう。
座頭市の墓
飯盛山をめざす途中で立ち寄った場所なので順番は前後するが、ここも気になっていた。
地元・千葉県の史跡巡りを続ける中で、『天保水滸伝』の中では悪役として登場する大親分・飯岡助五郎の客人として座頭市が世話になっていたことを知った。
座頭市は子母澤寛『座頭市物語』に登場する盲目の侠客で、モデルとなった人物は現在の旭市の神社のすぐそばに居を構えていたというのだ。
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飯岡助五郎は縄張り争いを続けていた笹川繁蔵を殺害するが、そのやりかたに異を唱えた座頭市(のモデル)は杯を返して飯岡のもとを去る。
その後、母の郷里である現在の福島県磐梯町をめざしたという説が有力で、他の侠客から命を狙われていたという説もある。
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座頭市の墓が建てられたのは昭和に入ってからとのこと
映画やTVシリーズの影響もあるのだろう
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78歳没とある
笹川繁蔵が飯岡に闇討ちされたのが弘化4(1847年)7月。
阿部常衛門が没した嘉永二年は1849年。
常衛門が飯岡と袂を分かってから会津にたどり着いた後も少しの間は生きていたことになるが、享年から逆算すると飯岡の客人となっていたのは70歳代ということになり、いくらなんでも盲目の70歳代の侠客(しかも居合の達人)というのは無理がありはしないだろうか。
飯岡という地名が残るほどの網元の大親分でもある助五郎のもとにはさまざまな侠客や博徒が身を寄せていたことは間違いない。
その中には盲目の按摩師もいただろうし、居合の達人もいただろう。
こうした複数の人物やエピソードから座頭市像が生まれ、子母澤寛(現地の古老から聞き取りを行った)に伝わったのではないだろうか。
『天保水滸伝』も謡曲の名調子もあって史実とは異なる部分がクローズアップされすぎているところもあるが、現地には伝説が色濃く伝えられていており、ただの博徒たちの縄張り争いにはとどまらない魅力がある。
その謎の一つが遠く離れた会津で解明できるとは思いもしなかった。
よーし、これで心置きなく飯盛山に登れるぞ。
白虎隊、最期の地をめざすのだ。
[次回、会津若松編ラスト 飯盛山から城は見えたのか?]