【短編恋愛小説#43】染み跡の在り処
机の上で、青いインクが零れている。
「ごめん、拭くの手伝おうか」
「ううん、大丈夫」
彼の声に、思わず顔を上げる。
そうか、まだ普通に話せるんだ。
知らない誰かみたいに、優しく。
「岡田くん、今日の部活は?」
クラスの誰かが声をかける。
「水泳部、地区大会の練習」
ああ、彼の背中から水の匂いを思い出す。
去年の文化祭、一緒にポスターを描いた時も、こんな匂いがした。
インクの染みは、消えない。
木目に沿って、じわじわと広がっていく。
まるで、私の中の青みたいに。
「転校、決まったの?」
由香が、そっと声をかけてくる。
「うん」
嘘をついた。
本当は、私から願い出たんだ。
おばあちゃんの家なら、受け入れてくれると知っていたから。
「岡田くん、知ってた?」
「え?」
「この前話したよ。水泳部の後輩の子と」
そう。彼の後輩。
一年生で、既に県大会の記録を持つ女の子。
プールサイドで二人が笑い合う姿を見た日から、私はインクを零すようになった。
「青、きれいだね」
彼が、机の染みを指さす。
「藍色って言うんだよ」
最後の会話が、こんな他愛ないものだった。
春の陽気の中、私は段ボールを集めている。
教科書。ノート。文房具。
でも、いくら集めても、足りないものがある。
夕暮れの教室。
明日から、新しい机が運び込まれるらしい。
私の染み跡は、誰かに消されてしまうのかな。
「これ」
帰り際、由香が小さな瓶をくれた。
「私のお気に入りのインク」
「でも...」
「新しい場所でも、あなたらしく」
その夜、日記を開く。
インクが零れて、ページが青く染まる。
それは、去年の文化祭の空の色。 彼とポスターを描いた日の色。
プールの底に揺れる、水の色。
誰かを好きになるって、 自分の中に新しい色を作ることなのかもしれない。
その色は消えない。 でも、それでいい。
新しい制服のポケットで、インクの瓶が温かい。
それは、友達の想いの重さに似ていた。
「行ってきます」 玄関を出る時、振り返る。
ここにも、私の青は残っている。
電車が、桜並木を走っていく。
窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。
でも不思議と、もう切なくない。
私は私の青で、 また新しい染みを作ればいい。
それは記憶であり、成長であり、 そしてきっと、次の物語の始まり。
新しい学校で、 また誰かの色に、出会うかもしれない。
だから今は、この青を、 もう少し深く、 もう少し優しく。
春の風が、制服の襟を揺らす。
私たちは誰もが、 誰かの色に染まり、 誰かを染めていく。
机の上の染みは、きっともう消されている。
でも、私の中の青は、 まだここにある。
それだけで、十分なんだ。
作者解説:「染み跡の在り処」に込めた想いについて
この作品で私が描きたかった本質は、「存在の痕跡」と「記憶の色」についてです。
人は誰もが、自分が確かにここに「在った」という証を残したいと願います。主人公が机にインクを零すのは、その無意識の表れでした。特に失恋という経験は、自分の存在が否定されたような錯覚を引き起こします。だからこそ、より強く「私は確かにここに在った」という証を求めるのです。
しかし、本当の存在証明は物理的な痕跡ではありません。誰かの心に残る「色」なのです。主人公の青は、最初は切ない失恋の色でした。でも、それは次第に伝統となり、誰かの新しい物語の一部となっていきます。そして最後には、彼女自身の中で穏やかな記憶の色へと変化していきます。
インクの染みは消えても、心に染み込んだ色は消えません。それが、この物語が伝えたかった本質です。私たちは誰もが、自分だけの色を持って生きているのです。そして、その色は必ず誰かの心に、新しい物語として生き続けていくのです。