【短編恋愛小説#48】あの電車の窓から
終電間際の山手線、内回り。
新宿駅のホームに佇んでいる。
この一年間、週に三回は必ず乗っていた電車。
彼の住む街まで会いに行くため、私は決まってこの時間の電車に乗っていた。
今夜は違う。誰にも会いに行かない。ただ、乗りたくなっただけ。
電車が到着し、いつもの座席に座る。
窓の外を流れていく夜景が、まるで万華鏡のように煌めいている。
ふと、この景色を見ながら胸を躍らせていた日々が、懐かしく思い出される。
スマートフォンの画面には、もう彼からのメッセージは届かない。
代わりに、夜の街並みが窓ガラスに映り込む私の顔を照らしている。
以前の私なら、この時間、きっと彼に「今、電車に乗ったよ」とLINEを送っていただろう。
電車は駅と駅の間を、淡々と走り続ける。
かつては遠く感じた距離が、今は心地よい小旅行になっている。
渋谷を過ぎ、原宿を通り過ぎる頃、気づいたことがある。
この車窓からの景色は、いつも美しかったのに、あの頃の私は、ただ早く着きたいという思いで急いでいた。
目の前を通り過ぎる光の帯。
高層ビルの窓から漏れる明かり。
行き交う人々の影。
それぞれが、誰かの物語を紡いでいる。
恋をする人、別れを告げる人、新しい一歩を踏み出す人。
この街は、数えきれない物語で溢れている。
代々木駅を過ぎた辺りで、隣に座っていた女性が電話を取る。
「ごめんね、今日は遅くなっちゃって」
という言葉が耳に入る。
懐かしい台詞だ。私も同じように電話をしていた。
でも今は、誰にも謝る必要のない自由な時間が、この電車の中にはある。
電車は目白、池袋と進んでいく。
窓に映る自分の横顔が、少し違って見える。それは悲しみに暮れた顔でもなければ、強がった表情でもない。
ただ、静かに前を向いている。
山手線は、人々の日常を乗せて走り続ける。
別れを経験した人も、新しい出会いに胸を躍らせる人も、みんなこの同じレールの上を進んでいく。
私だけじゃない。誰もが、それぞれの物語を抱えている。
大塚駅に差し掛かる頃、ふと思い出す。
彼と最後に会った日も、この電車に乗っていた。あの時は涙で景色が滲んで、何も見えなかった。
でも今夜は違う。窓の外の世界が、これまで以上に鮮やかに見える。
電車は巣鴨、駒込と北上していく。夜空に浮かぶ月が、時々建物の間から顔を覗かせる。
以前の私なら、誰かと共有したくなる景色だった。
でも今は、この瞬間を自分だけのものとして、静かに味わっている。
田端駅で、向かいの席に座っていたサラリーマンが降りていく。
彼が置いていった週刊誌が、電車の揺れで少しずつページをめくっているように見える。
西日暮里、日暮里と通過する頃には、車内の乗客も少なくなってきた。
かつては寂しく感じた空席も、今は心地よい余白のように感じられる。
上野駅に到着する頃、スマートフォンの画面に映る時刻は、もう日付が変わろうとしている。一周まであと少し。
でも急ぐ必要はない。この電車は、いつだって同じように走り続けている。
秋葉原の駅を過ぎた辺りで、バッグの中から一冊の本を取り出す。
これまで読まずにいた本。彼と別れてから、少しずつ読み進めている。ページの向こうに広がる物語は、私だけの冒険だ。
東京駅に差し掛かる頃、気づく。この一時間の車窓の旅は、もしかしたら私の心の軌跡そのものだったのかもしれない。
悲しみも、慰めも、希望も、全てこの円を描く線路の上にあった。
有楽町を過ぎ、新橋へ。もうすぐ一周の終わり。
でも終わりは、いつだって新しい始まりでもある。
山手線は、今日も誰かの物語を載せて走り続ける。
そして私は、自分だけの新しいページを、ゆっくりとめくっていこうと思う。
窓に映る私は、確かに笑っていた。