【短編恋愛小説#42】十七歳の習作
水たまりに映る空が、濁っている。
「もう帰ろう」 春の雨は冷たい。
それなのに、私は動けなかった。
世界には、言葉にならない瞬間がある。
想いが消える音。心が割れる感触。
そして、終わりが始まる時間。
「好きな人がいるの」
ただそれだけの言葉なのに、なぜこんなにも重いのだろう。
遠くで誰かが傘を閉じる音がした。
カサ、という乾いた音。
私の中で、何かが途切れる音に似ていた。
「ねぇ」 親友の声が、雨音に紛れる。
「今日は、泣いていいよ」
首を横に振る。
泣いたら、この痛みが本物になる気がした。
まだ、現実にしたくなかった。
教室の机に彫った文字。
消しゴムの貸し借り。
掃除当番の交換。
下校時の寄り道。
そんな些細なことが、全て意味を持っていた気がした。
でも今は、ただの思い出。
誰のものでもない、透明な記憶。
「先生、この問題が...」
「ここ、教えて」
保健室の前で、後輩たちが話している。
私も昔、よく質問していた。本当は、話がしたかっただけなのに。
「バカだね、私」
つぶやく声が、自分のものとは思えない。
「違うよ」
友人の言葉が、心に染みる。
「好きになるって、勇気のいることだよ」
空が、少しだけ明るくなってきた。
雨は、まだ降っている。
「このままでいたい」
「うん」
「でも、帰らなきゃ」
「そうだね」
立ち上がる時、足がふらついた。
まるで、長い夢から覚めたような。
そうか、これが現実なんだ。
「お腹、すかない?」
「え?」
「たい焼き、食べに行こう」
「...今?」
「うん、今」
思わず、笑みがこぼれる。
なんて単純なんだろう。
悲しいのに、お腹は減るんだ。
たい焼きの暖かさが、手のひらに伝わる。
何も言わない友人と、ゆっくり歩く。
雨は、もう止んでいた。
明日も、学校は始まる。
きっと、胸は痛む。
でも、たい焼きは甘い。
水たまりに映る空が、少しずつ透明になっていく。
これが、十七歳の終わり方。
そして、また誰かの始まり。
私は、ただそれを見つめていた。
言葉にならない想いを、心の中でそっとなぞりながら。