【短編恋愛小説#46】コーヒーの味は変わった
「お客様、アイスコーヒー、おまちどうさまでした」
カウンターに置かれたグラスから、氷のキラキラした音が響く。
以前の私なら、ここでシロップを入れただろう。
彼が「甘いコーヒーは邪道だよ」と言うから、少しずつブラックに挑戦していた日々が、つい昨日のことのように思い出される。
でも今日は、迷わずブラックを選んだ。
あれから半年。
失恋して初めて気づいたことがある。
私は本当は、ブラックコーヒーが好きだったのかもしれない。
苦みの中に感じる微かな甘み。香りと共に広がる深い味わい。
それは、彼の趣味に合わせようとしていた時には、気づかなかった自分だけの楽しみ方。
人は失恋すると、何かを失うと思っていた。
でも実際は、思いがけない「発見」の連続だったように思う。
例えば、休日の使い方。
彼との待ち合わせ時間に合わせて慌ただしく過ごしていた朝が、今では至福のモーニングルーティンに変わった。
お気に入りのプレイリストを流しながらのストレッチ。
ベランダで育て始めたミニトマトの世話。
せかされることのない、自分だけの時間。
食事の好みだって、少しずつ変化している。
彼が苦手だった納豆を、最近また食べ始めた。
朝ごはんの玉子かけご飯に添えた納豆から、懐かしい故郷の味を思い出す。
そういえば、実家に帰る頻度も増えた。
両親との何気ない会話が、こんなにも心を癒してくれるものだったなんて。
仕事帰りの寄り道も、新しい発見の連続だ。
もう誰かに「今どこ?」とLINEを送る必要はない。
行きたい場所に、行きたいだけ居られる自由。
古本屋で見つけた一冊に、思わず夢中になって立ち読みしていると、店主さんが「よかったら、お茶でもどう?」と声をかけてくれた。
今では週一の読書会メンバーになっている。
カレンダーの予定欄も、少しずつ埋まってきた。
でも今度は、誰かとの約束だけじゃない。
「映画館で新作を観る」
「陶芸教室に通い始める」
「海辺まで自転車で行く」。
一人でも楽しめることを、こんなにたくさん持っていたことに、今さらながら気づかされる。
そうやって過ごす中で、ふと気づいた。
私は、少しずつ自分の「好き」を取り戻していたのだ。
いや、もしかしたら初めて見つけたのかもしれない。
誰かに合わせることも、時には必要だ。
でも、その中で自分を見失ってしまっては、本当の意味での関係は築けない。
それに気づかせてくれたという意味で、あの失恋は私にとって大切な転機だったのかもしれない。
カフェの窓から差し込む陽の光が、グラスの氷を透かして、テーブルの上にきらめく模様を描いている。
ふと、隣に座る女性が、たっぷりのシロップを入れながらコーヒーをかき混ぜている姿が目に入った。
その光景に、自然と笑みがこぼれる。
きっと彼女には彼女の、私には私の、完璧なコーヒーの味わい方がある。
それでいい。むしろ、それがいい。
グラスを持ち上げ、一口飲む。
今日のコーヒーも、おいしい。
この味が好きだと、心から思える自分が、そこにいた。