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機長デビュー

 先日、若い機長とすれ違った。あまりよく知らない機長で、軽く会釈をしてすれ違った。その後、彼は僕の後ろにいた副操縦士と楽しく談笑してた。大仰な身振り手振りで副操縦士と話す彼は、人懐っこい田舎のヤンキーに見えた。
 
「あれ、誰?他から移ってきた人?よく知らない機長だけど」
「Sさんですよ、先日機長になった」
「ああ、あの人」
 うっすらと思い出した。

 彼とは何回か乗ったことはあるはずだ。特に印象はなかった。うるさいわけでも、おとなしいわけでもなく、操縦も可もなく不可もなく。少し機長に気を使いすぎる傾向はあったかな。もうちょっとのびのびフライトをしても良いのでは、と思ったくらいだ。少なくとも、あんな感じではなかった。髪の毛がパーマになっていた。元からすこしかけていたが、パーマが激しくなっていた。髪の毛も茶髪になっていた。ふーん、そういう髪型にしたかったんだ。おとなしそうに見えたんだけどな。何より話し方が変わっていた。少しオーバーなアクションで快活に笑う感じが、のびのびして見えた。
 機長になった瞬間に変わる人がいる。「機長デビュー」と言う言葉が、副操縦士の間では存在するようだ。それくらい、機長になって雰囲気がガラッと変わる人がいる。
 確かに副操縦士の時は、誰もがとにかくおとなしくしていた。機長や会社に目をつけられたくない、と思っているからだ。ちょっと派手だと、「あいつは遊んでいる」とか噂が流されてしまうかもしれない。それで機長になれなかったら最悪だ。だから、おとなしい、真面目そうな容姿にしておく。髪の毛は真面目な印象になるようにして、しゃべり方もあまりフランクになりすぎないように心がける。CAともそれなりに事務的に相手をするだけ。あまりCAと仲良くすると女好きな機長に目をつけられるかもしれないなんて思ってしまう。
 カバンもそう。昔は辞書のようなマニュアルを入れるために大きいフライトバックだったが、辞書がIpadにかわりそんなに大きなサイズは必要なくなった。それで会社は新しいフライトバックを作った。それがダサい、使いにくい。最初はその新しいフライトバックの使用が強制だったけど、あまりの使いにくさに強制されなくなって今では機長は誰も使わない。けれども、副操縦士は会社指定のものを使わないといけない気持ちになる。そのカバンを使わないと、『会社に反抗的』って思われるかもしれない。だから、使いにくい鞄を無理して使っている。
 本当は、髪の毛が派手だって、CAとヘラヘラ話したって、自分でカバンを用意したって良い。そんなことで機長になれないなんてことはない。人間的に問題があればもちろんダメだが、少なくとも外見は関係ない。CAと恋愛したって全く構わない。機長にとって副操縦士の評価は出来る奴か出来ない奴か、だけだ。
 でも、副操縦士はそうは考えない。特に機長昇格が近づいてくると、常に誰かに見られている気持ちになる。いや、実際にその通りで毎回のフライトを機長が見ている。楽しいはずのフライトが、試験のような重たいものになる。だから、いろんなところで保守的になってしまう。
 機長になって、その枷が一気になくなる。フライトが自由になる。もちろん責任が増えてストレスが増える部分もあるが、やりがいを感じて楽しくなる。それに加えて髪型は自由になり、CAにも気楽に話しかけることができる。これらはすごい開放感だ。
 
 散々他人の話をしたので、僕の機長デビューの話である。僕は使いにくいフライトバックが嫌だった。だから機長になると、ウキウキしながら妻を連れてデパートに走った。
 
 妻「やっぱり事務系のカバンの方が使いやすいかな」
 俺「あははは〜そう思う。IPad入れて〜ヘッドセットも入れて〜あとお菓子とかも入れたいな。お腹空くから〜」
 妻「大きさはこれくらいあれば良い?」
 俺「あは?十分だね、お菓子も入るし〜」
 妻「これはどう?小分けがたくさんあって使いやすそうね」
 俺「あははは、そうだね!ここに入れておけば、お菓子も取りやすい!」
 妻「ちゃんと考えろ!お菓子はどれにでも入るんだよ!」
 機長になった喜びに満ち溢れてバカになっている
 
 それでも、ちゃんと考えてフライトバックを買った。ちょうど良い、過不足ない大きさ。必要な一式が入り、ちょっとした上着を入れるスペースもある。満足している。
 そして一番取りやすいところにお菓子が入っている。

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