健康と平穏のご時世は、なんの代償の上で成り立っているのか 〜『「正常さ」という病い」』を読んだ途中での備忘録〜


タイトルに記載の書籍はこちら

一般人が並べられる言葉の中で出来る、この書籍に関するざっくりとした解説は、たまーに耳にしたり様々なところで目にする

”精神科に受診する必要性は、心身共に健康状態を損なってしまった人物より、本当のところ、そうさせてしまった人物のほうにある”

という言説が、なぜそうなるのか?という理由と、詳細説明が書かれてるもの、といえばいいだろうか。

わかりやすい例を挙げるとするなら、
学校でいじめ問題が発生した場合に、教室からの隔離措置を取るとするならば、被害児童ではなく加害児童に適応させよ
というものを想像すると、この本に対するイメージを落とし込みやすくするかもしれない。

まだこの書籍自体を半分も読めていない状態なので、
「なにを勝手なことを言ってるんだ」
という印象を持たせてしまうことにもつながるかもしれないが、現段階で感じた印象としては、著者のアルノ・グリューンは

表面上、上っ面の「健康、平穏」に人々を押し込め、そう思い込ませ圧力をかけることは、なんの進展も得られないどころか、全人類が後年になって多大なる代償を払う羽目に必ずなるため、そのような行い、思想を持つ事にはなんの意味も持たない

ということを主張しているのではないか、という具合である。

自分がそもそもこの本を手にしたのは、こちらの
『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体 (みき いちたろう著)』
を読んだ際に、参考文献として挙げられていたからである。

自分自身、ADHD(注意欠陥多動性障害)と双極性障害の診断を受けて、定期的な通院と社会資源を活用しながら生活を送っている。

昔から、それはそれは手のかかる子どもであったし(偏食がすごい、水が苦手で川にも近づけないしお風呂も入れられない)、親、先生たちには、大層気苦労をかけてきたな、と今になって思うこともある。

ただ、幼少期から積み重なった周囲からの
「手のかかる子ども、融通が利かない、我の強い面倒な人」
という評価から形成された
「何をしても迷惑をかけてしまう、自分の意見や行動は扱いづらい面倒なもの」
という自己イメージは、生活の様々なところでストッパーとして作用し、取捨選択、生殺与奪の権をいつの間にやら投げ捨てた私の人生は、これまでずっと
私の形をした、都合の良さ万歳!コスパ最強人間ドール
としての史跡しか残されていない。

そして、今のADHD及び双極性障害に関する通院と社会資源で生かされているのみでは、コスパ最強人間ドールからの脱却は容易ではなく、ちょっと抜け出したとしても、なにかの拍子に人権を人権とも認知できないままにあっさりと手放すことになりかねない。

なぜなら、これまでの史跡に残されているのは
「コスパ最強人間ドール」
の自分のみで、参考文献がそれしかないからである。

だから、「コスパ最強人間ドール」がこの世にどのようにして産み落とされ、どのような悪影響を自他に及ぼすか、このことを記されている参考文献を外界へ探す旅に、私はただいま出ている次第だ。

そして、この「コスパ最強人間ドール」の製造が、いかに「病的」な状態であるか、これを一冊の本で解説しているのがこの『「正常さ」という病い』である。

その行動、状況が世間的にどれだけ称賛されているとしても、この書籍では「病的」なものとして捉える必要性を訴え、真の「健康、平穏」というものがなんたるか、を、訴えかけている。

単なるライフハック、小手先のテクニックでは、その瞬間のみ社会的に通用するかもしれないが、その状態では育むことが不可能な「愛着」が、後から誰の手にも負えないような形をして暴走するかもしれない。
その暴走による被害は、果たして対岸の火事なのかというと、そんなことはある訳がない。
人間が社会的な生物である以上、愛着形成の責務も、愛着形成が手に負えなかった時の後始末の責務も、何人も平等に全うする必要性がある、と自分は感じてる。

「正常さ、正しさ」の担保なしでは自分で立って歩くこともままならない人たちが、今日どれだけの数いるのだろう。
もっと言えば、「自分が持っている正しさを、何度も疑い洗練する」ことに時間を、人生を費やせる人は、今日どれだけの数いるのだろう。

この書籍自体も、地域の図書館から借りようとした結果、自分の住む自治体には所蔵されておらず、都立図書館から回送されて初めて借りることができた。

これは自分の体感でしかないことを前提に記すが、こと
「発達障害」や「精神障害」の人とどう関われば良いか、
或いは、
その当事者たちはどのように動けば食いっぱぐれないで社会に溶け込めるか、
という類の、まるで書き手が「殉教者」であり、読み手もその殉教者から教えを請うかのような書籍は、比較的公共の場でも見つけやすく、ネット上を検索してもすぐに提示してくれるので、「お困りごと」に対するAnswerは、まあまあのヒット率を叩き出す。

ただし、これが愛着形成を担う側の自問を促す書籍になると、忽然と公共の場で手に入れにくくなるし、ネット上では、そもそもそんなこと考える暇も余裕もない、と言わんばかりに、先程のAnswerしか流れず、むしろ自問の共有をはばかろうとする空気感すら漂わせる。

自問と自己の洗練を、どこかですることも誰かに共有することも、誰かと分かち合うために生まれたSNSの発展とは裏腹に縮小傾向にあると感じざるを得ない。

ただし、
「上っ面な社会的通用の片道切符を持つだけでは、自分にも他人にもよい影響を与えることは不可能だ」
と警鐘を鳴らす人らが現れ、、今日声を挙げ本にまとめている流れを感じる。

Answerの迷人を目の当たりにして、自己の再建、或いは負の連鎖を断ち切ろうと動いている、密かな戦士たちが増えている流れも感じる。
フィリッパ・ペリー著「子どもとの関係が変わる 自分の親に読んでほしかった本」が各書店、ネット通販でベストセラーを獲得し、何冊も積み重ねられて販売しているのを目の当たりにして、そのように感じたのだ。

「殉教者」という立場で得られる権威と利益の上で踊る今生よりも、誰に嘲られるとしても自問自答を繰り返す「小さな哲学者」として生きる今生を選び、かつての「コスパ最強人間ドール」からの脱却を目論もう、という決意を記し、締めとする。


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