愛宕盛りの由来【岩手の伝説⑩】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
昔、秋田に三吉という超人的な大力(だいりき)の男がありました。
この三吉の大力にまつわる物語が、秋田、岩手、宮城に沢山残されて、今なお語り継がれていますが、ここに申し上げようとする「愛宕盛りの由来」もその一つで、我が胆沢町(現胆沢区)としては唯一のものでもあります。
三吉は後日「秋田三吉」の愛称で呼ばれることになりますが、その秋田三吉が北上川を渡って、山中の村々を訪ねている時、たまたま、我こそ日本一と自称する力持ちのいることを耳にしました。
はてな、俺が日本一のはずだがな、と秋田三吉は首をかしげました。
この辺に日本一がいてたまるかと、不思議に思うより、お株をさらわれるような憤懣を感じ、その人を訪ねてみました。
※御株を奪う・・・その人の得意とすることを別の人間がうまくやってのけること。
※憤懣・・・ふんまん。腹が立ってどうにも我慢できない気持ち。
なるほど会って見ると力はありそうです。
背もすごく高く筋肉も隆々としていました。
「君か、日本一の力持ちというのは。」
から始まって、その人と秋田三吉は喧嘩になってしまいました。
しかし口争いだけでは大力の証明にはなりませんので、実力でゆこうということになりました。
路傍の大石など二人の前には簡単なものでありました。
ゴム球のように飛んで、どこに行ったか行方知れずになってしまいました。
では、と言って秋田三吉は近くにある小山を力いっぱい押し倒して見せますと、その男は軽々と起こして元の山にしてしまいました。
二人は汗を流しながら力を競い合いましたが、決着はつきませんでした。
秋田三吉はいらいらしてきました。
「俺はここに西山から石を運んで、一夜にして駿河の富士山に似た山を仕上げて見せる。」
と豪語いたしました。
これには流石の男も目をむいて驚いてしまいました。
「できるなら、やってみろ。」
ということになりましたから、さあ大変です。
「明日の夜明けまで。」
と確認し合い、秋田三吉の山作り作業は始まりました。
何しろ奥羽山中から東磐井のど真ん中まで、距離にしたって大変です。
それに石を背負って富士山ができるまで往復するのですから、何万回、いや何億回歩くのか分かりません。
ですからその速さといったら話になりません。
それはそれは、目の前をシュッ、シュッと何か光線みたいなものが横切るだけだったのでした。
ハハァ、今秋田三吉が石を背負って行ったのかと、目の前をシュッと横切る光線みたいなものを感じてそう思っていると、またすぐ西に向って光線みたいなシュッを感じるのです。
即ち秋田三吉が石を置いて帰ってきたのです。
その速度が、東の空が明るくなり始めると一層速くなってきました。
やがて、東山の端から出た太陽が胆沢平原を照らし始めました。
「夜が明けた。」
と秋田三吉はそう叫びながら立ち止まって、背負っていた石塊を投げ出しました。
競争は終わったのです。
投げ出した石塊によって、そこに一つの盛りができあがりました。
愛宕神社の傍にある石盛りは即ちそれだといいます。
さて、東磐井に秋田三吉が富士山に真似て作ったという山はどれでしょうか。
室根山、そうそれだといわれています。
※写真は実際の愛宕盛り。