つながってゆく日常に愛をこめて。
「はやくおおきくなりたい!」 ジェイムズ・スティーブンソン/作 川本三郎/訳 佑学社
若い頃、歳をとることは何かを失い続けることだというイメージが強く、恐れを感じていました。
歳をとることも悪くはないな…と思い始めたのは、子どもを持った頃からです。
理由は複数ありますが、そのひとつに「子どもにむかしの話をしてあげられるようになった」ということがあります。
「お母さんが子どもの頃はね」とか「お父さんの学生時代は…」なんていう話に、目を輝かせて一心に耳を傾けてくれる子どもの存在は、昔がたりの出来る老人のイメージをポジティブなものに変えてくれました。
子どもの満ち足りた瞳を見ながら昔がたりをしていると、「日々、子どもに語れる年月が厚みを増していること」に感謝の気持ちすら芽生えました。
顔じゅうに深いシワ皺を刻んだ私の祖母にさえ、輝くようなムスメ時代があったのだということは、意識してみなければ思い至ることもできません。
ましてや、生命の春を謳歌している年齢の子どもたちには、そんなこと頭の片隅にもありはしないでしょう。
でも、一旦意識してみると、いままで知っていると思っていた身近な人が、一転して違った人物に見えてくるから不思議です。
わたしは、むかし話を自分からどんどん語る、ちょっと図々しいくらいの大人で良いのだと思うようになりました。
だって、きっと子どもたちは面白がるもの。
さて内容です。
この絵本は、おじいちゃんが孫を肩車して、今まさに散歩にでようとしている後ろ姿から始まります。
始めのページは、自分のことを「おじいちゃん」と読んでいた主人公ですが、次のページでは「ぼく」という一人称になって、物語はあらたに幕を開けるのです。
おじいちゃんの肩車の上で、淡々としたおじいちゃんの子ども時代の日常を聞くことの幸せ。
もう、これは親子で読んでも、親子別々の感動がそれぞれの深さと速度で胸に迫ってくると思います。
だって、「孫」だった経験は、誰もが持っているものだからね。
そして、この絵本の不思議は、まだあるのです。
読み進めるうちに、いつしか「ぼく」=「おじいちゃん」という命題はかき消えてしまって、読者は、次第にリアルな「ぼく」に心を添わせいくことになります。
「ぼく」に、どんどん入っちゃっていくわけです。
そして、ラストで…じわっと、きます。
この「じわっ」は、「そうだった、〈ぼく〉は 〈おじいちゃん〉なのだった」という気づきのあとでやってくる、あたたかくもセツナイ感動の高まりです。
ええい…!とにかく、読んでみてほしい!
ほんとにすばらしいから。
自分という「命」の後ろには、両親がいて、その後ろには祖父母がいる。そして、その後ろには…と、いのちは連綿と続いている。そして、自分の前にも、ね。
自分とつながっているそんな人たちも、一夜にして理性的でモノのわかった大人になったわけではなく、迷いに迷った子ども時代、混沌とした青春時代を経てきたのだ。
「だから、安心していいんだよ」と…そこらへんまでを、たった見開き15~6ページで言い尽くしてしまうスティーブンソンは、やっぱりたいしたものです。
この簡潔さ、この奥深さ、だから絵本はやめられません。
なお、この絵本を始めとするスティーブンソンの作品には、「おじいちゃんのハーモニカ」や「ベッドのまわりはおばけがいっぱい」など、とにかく一級品が多いのだけれど、出版元の佑学社はだいぶ前に業務を停止してしまい、今のところこれらの絵本は手に入りにくくなっています(古書店などでみつけられればメッケもの!)。
どこかで復刊してくれるとうれしいんだけどなあ・・・。
今回は画像が手に入らなかったけれど、復刊への願いも込めて、熱く語らせていただきました。
図書館などには入っているかと思うので、探してみてくださいね。