工夫の余地を残さない思考停止の便利な世界
生活を便利にしたくて人類はいろんなものを使いこなしてきた歴史があります。
それが例えばランプだったり電気だったり。自転車だったり自動車だったり。
おそらく全ての道具が、もっと便利に楽になりたいという思いから工夫や発見の末に開発されたのでしょう。
人類が道具を作って便利に使ってきた歴史の流れの中で「工夫の余地」はどんな小さなことでも何かに結びつく可能性がありました。
例えば器。木をくり抜いて器を作っていた時は、おそらく中に液体を入れたら染み出していたかもしれません。
それに漆を塗ることを発見して抜群に耐久性が上がったり、木を使うのではなくてプラスチックで形成して器の形を作れば液体が漏れないばかりか洗うことでも劣化が遅くなったはずです。
なんでもそうなんです。
洋服の素材だって、形を作るためのタッグの入れ方だって、工夫の余地から生まれたもの。
遊びもそうでした。
新しい遊びを思いつきます。もっとこうした方が面白くなるからとルールが出来て、それが良いとか悪いとかでルールも淘汰されて、良い収まりどころで片が付くのです。
おそらく麻雀やトランプゲームもそうだったのでしょう。
工夫の余地があるところから、新しい発想が生まれ、喜びが生まれた。そんな風に想像がつきます。
ところがある時点から工夫の余地のない世界が始まりました。
工夫の余地のない世界とは、どうしてそうなっているのかわからないけれど、便利だから使っているだけのものです。
そこに工夫の余地はあまりありません。
たとえばコンピューターゲームがそれでした。
既に出来上がったものを買って遊ぶだけ。そこには工夫の余地がありません
。
そして、そのゲームが何故そうなっているのかもわからないままに遊ぶのです。以前それをあまり不思議に思わなかったのですが、今考えてみると、ちょっとおかしいな、と思うのです。
トランプのババ抜きなら、全員にほぼ同じ枚数のカードがランダムに配られて、それを同じ数のカードが来て揃ったら捨てていく、原理原則がわかりやすいし、どうなっているのかも目の前で分かるわけです。
工夫の余地があるとすれば、相手の表情を読むとか、捨てられてたカードから、今何が残っているのかを想像することができました。
しかし大人が知恵の限りを尽くして作って完成させたビデオゲームには、制作者の意図通り攻略していきクリアするといったこと以外に工夫の余地もありませんし、中がどうなっているのかもわかりません。
そう、どうなっているのか分からないものには工夫云々が通用しないのです。
私たちはある時点からそれに慣れてしまいました。
生まれた時から正体の分からないものを与えられて工夫の余地がない世界で生きていたらどうなるのでしょう。
たぶん「いろんなことがつまらない。新しい気づきがなくてつまらない。だから何かを知ることに喜びも感じないし、生きてるのも意味がわからない」
そんな感覚に陥ることでしょう。
私もパソコンがどうなっているか正直わかりませんし、インターネットもAIも分からないで使っています。車もそうです。でも、幼いころに工夫の余地のある世界を生きて、新しく何かを覚えることに喜びを感じました。そういう経験は今や貴重なのではないか。そんな風に感じるのです。
時間は巻き戻せないし、今の小さな子供たちのいる世界をどうしたらいいのかも正直わかりません。
でも与えることを制限することや、少し不便な経験をすることで何か工夫する余地のある世界を垣間見ることができるのではないか、そんなふうに思えます。
例えば持ち物を制限してキャンプをしてみるとか、自分で全て調べて限定された材料で何かを作ってみるとか、そんな経験がひょっとしたら新しい発見や工夫に繋がって、気づきや知ることへの欲求につながるかもしれません。