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3.11後に新聞で見つけた大船渡のおばちゃんの名前

「これ、大船渡のおばちゃんじゃない?」

新聞を指差して、家族でその名前を確認しました。

3.11の震災後に、ずっと気になっていたのが、おばちゃんの安否。父の伯母のため、2011年当時、御年80歳後半~90歳前半だったかな。

おばちゃんとの思い出は、小学生にさかのぼる。

父の実家である岩手県釜石市へお盆に帰るのが、わが家の習わしであった。
その当時、すでに祖父母は他界していたけど、年に1回は誰も住んでいない釜石の実家に帰っていたのだ。

その道中で必ず寄っていたのが、大船渡のおばちゃんの家。

おばちゃん家の手前で寄る、リアス式海岸の展望台。入り組んだ断崖絶壁に、波が打ちつけているところを覗き込む。やけに濃紺の海。吸い込まれそうで怖かった。鮮明な記憶。


いつも深夜に栃木を出発するから、大船渡に到着するのは早朝だった。それにも関わらず、朝からご馳走を作って笑顔で出迎えてくれた。

記憶の彼方に、色とりどりの手作りゼリーが食卓を彩ったのを覚えている。

そして、3.11では大船渡も釜石も甚大な被害を受けていて、言葉も出なかった。遊びに行った海水浴場も、釜石の家近くの川も、すべて津波に襲われた。

テレビ越しに大船渡の津波を知って、大船渡のおばちゃんの安否について、積極的な発言を家族全員が控えていた。

そんなときに毎日見ていたのが、新聞にあった3.11の訃報欄。

そこで、見かけたおばちゃんの名前。

高齢になってフラダンスを始めたと、精力的に過ごしていたのに……

みんな悔しくて無言だった。


時は流れて2011年秋。

とある荷物が届く。
旬のサンマが入った白い発泡スチロールの箱。
いつも、秋に届く贈り物。
発送元は大船渡のおばちゃん宅。

きっと、生前に手配してくれていたんだ。。。

なんとも切ない気持ちでいると、大船渡のおばちゃん宅から電話が!!!!

恐る恐る母が電話をとると、おばちゃんの声。

全員の頭にハテナマークが浮かんだのは、自然なことだったろう。だって、新聞の名前は?

母が急いで父に代わると、

「おばちゃん!化けて出たんか?」
と、おどけて父が言う。

新聞で名前を見たと伝えると、同じ集落の同姓同名の方が被害にあったと教えてくれた。

そんなわけで、おばちゃんの安否を半年後に知ることになりました。

それでも、震災の被害はひどかったようです。
同姓同名の方にご冥福を申し上げます。

生きてるって、本当にありがたい。
日常を過ごせるって奇跡なんだ。
毎年思う3.11
きっと一生心に残る、東日本大震災。

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冨田裕子(おーつー)
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