「川の流れのように」を歌ってた40代の父を、40代の私が許そうと思う
私はYouTubeで、ピアノの弾き語りを見るのが好きだ。
駅や商業施設に設置されているピアノに、凄腕の方が来て演奏する動画。
見るとなんとも感動してしまう。
きっと音楽の素養がないから、余計に憧れるのだろう。そして、ピアノの音色が心を揺さぶるので、たまに聞きたくなるのだ。
今日も、オススメにあったピアノの動画が目に入り、再生した。
それは埼玉県所沢駅に設置されているピアノにて、美空ひばりさんのメドレーを演奏するものだった。
父は美空ひばりさんが好きで、よく熱唱していた。当時、私は小学生低学年。父は44~45歳だったろうか。
昭和後期から平成初期にかけて「昭和の歌謡祭」なるものがよく放映されていた。
美空ひばりさんが画面に映ると、父は一緒になって高らかに歌いのけた。いつの間にか私も自然と歌詞を覚えて、一緒に口ずさんだ覚えがある。
時は変わって、2015年6月。
父が脳卒中となり、世界が突然一変。
自宅の脱衣場で倒れて、意識不明のまま救急車で搬送。その後、開頭手術をして、一命をとりとめたものの、1か月後にリハビリ病棟へ転院しても父の意識は混濁したままだった。そこで、歌の力を借りた。
私たち家族もすがるような気持ちで、試せることは何でも試そうと行動したのだ。
父の耳元に、美空ひばりさんや井上陽水さん、小椋桂さんなど、父が好きな昭和の大スターの歌を流した。
元気になってほしい一心で。
途中から意識を取り戻し、自力で歩けるようになったけど、脳に障がいをおい、父はできないことが増えた。
結局、半年経って退院。
父が久しぶりに家の敷居をまたいだのは、12月の寒い日だった。
そんな不安な半年間を、歌の力で励まされていたのは、私たち家族だったのかもしれない。
そして今日、久しぶりに聞いた「川の流れのように」
歌詞が勝手に脳内再生される。
この歌を聞いて、入院していたときよりも高らかに歌っていた頃の父を思い出した。
当時、父はまだ企業に勤めていた。
高卒だったので、係長止まり。
上昇志向のある父は、現状を不満に思い、イライラが募っていたようだ。
しかし、不平不満から発動したのは責任感だった。残業代が出ないのに、夜遅くまで働いていたと、母は後年話していた。
「自分がいないと、この会社は回らない」
そんなことをよく話していたらしい。
当時は、終身雇用が当たり前。
転職なんて、ありえない時代。
だから、まだ小さい3人の子どものために、粉骨砕身働いてくれたのだろう。
そんな自分を歌に投影していたのだろうか。
結局、父は企業を辞めて、独立をした。
しかし、そこから歯車が狂い出した。
うまくいかないことだらけで、騙されてお金がなくなり、仕事がなくて困窮を極めたわが家。お金がなかったことで、惨めな思いもたくさんして、父を何度も恨んだ。
でも今は、父の人生を肯定できるし、心底よかったねと言える。
「お父さん、自分の進みたい道を選べてよかったね」と。
自分も地方自治体を辞めてフリーランスになったから、親近感を持てているのだ。
ずっとわだかまっていた父への想い。
25年の時を経て、父を許そうと思う。
あの頃の自分を慰めて「大変だったね」「よく乗り越えたね」と労おう。後生大事にしていた恨み辛み。もう私には必要ない。
お金のない生活を、経験させてくれてありがとうと、天に返そう。
父が個人事業主として奮闘したから、私も同じ道を選んだのかもしれない。
ふと、そんな想いがよぎる。
美空ひばりさんの「川の流れのように」を聞いたら、父に対する胸のつかえがゆっくりと流れていった。
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