タナトスの誘惑

うつ病の私は「死にたい」と言う気持ちは
感情なのか病気なのかずっと考えていた。
死にたくてオーバードーズしたり飛び降りたり
何度も自殺未遂をした。
でも死ねなかった。

いつからか、
鬱を自分の一部と捉えるようになった。
「死にたい私」を大切にしたい。
死にたがっていれば曲を作ることが出来る。
そうしてできた私の「死の側面」は
次第に私の心の中を支配していった。
「貴方は鬱に依存している。」と
言われたこともあった。

じゃあ、この「死にたい」は何?
感情?病気?それとも私自身?
ずっと考えていた。
感情でもあり、病気でもあるのではないかと
そう思っていた。

しかし先日それをパートナーに言ったら
「衝動ですね」
と返された。
衝動?死にたいが?本当に?
ピンと来なかった。
この死にたいが衝動だとしたら
私が書いた今までの曲はなんだったのだろう。
私が苦しんできたのはなんだったんだろう。
そうモヤモヤした。
しかしパートナーは続けてこう言った。
「死にたいと言う気持ちをタナトスとして擬人化するといいです。タナトスの誘導に乗ってはいけない。」と。

そこで今まで死にたいと思う自分のことを
大切に思っていることを話した。
そしたら、
「貴方は鬱を寛解したくないのですか?」
と返された。
あぁ、前に言われた鬱に依存していると同じだ。

何故死にたい私を大切にしたいかは、
それもひとつの自分だからである。
死にたいという感情は
なかなか他の人には芽生えない。
私だけの、特別なもの。
そして何より美しいもの。
そう思っていたからである。
だから死にたがりの曲を沢山作った。
作って作って、何度も苦しんだ。
結局私は何がしたかったのだろう。

20歳になるまでに死にたかった。
そうしたらズルズル引きずって22歳になった。
自分が生きているのが気持ちが悪い感覚がする。
これも全部タナトスの誘惑だったのではないか。
だからってなんでもないんだけどさ。

タナトスを擬人化出来たら、
そこに境界線をつくることが出来る。
この人はこういってるけれど私はそうは思わないな
とか、この人のここが良いなと思ったりとか。
境界線によって
良いと思った事だけを吸収することが出来る。
だからパートナーはタナトスを擬人化しろと言ったのだ。

擬人化したタナトスは美しくて、
眩しいものだった。
まるでそちらには行けないような、
でも手を差し出されたら逃れられないような。
タナトスの誘惑だ。そう思った。

結局私は死にたいし死ねないし
でも、やりたいことや夢は沢山ある。
矛盾していて自分でも笑ってしまう。
強いて言えば、タナトスの誘惑によって
大切なものを失うことがないようにしたい。
大切な人を傷つけることがないようにしたい。
そんなところだろうか。

「私はタナトスの誘惑には負けない」
そう言い切れる程今は強くない。
いつかほどけてちぎれてしまいそうな糸のように。
それでもタナトスの誘惑を
無視できるようになりたい。

まずは死にたい私を大切にせず捨てるところから
始めようか。

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