その40 傍観者効果
知人が煙草をやめたとのこと、なんとも貴重な友人を失ったくらいのショッキングな「事件」でしたが、話を聴くとそれもやむを得ないかなと思います。曰く、地下鉄のプラットフォームで激しく咳き込み苦しんでいた時、誰一人として声をかけてくれる人がいなかったと嘆いていました。咳が止まらないのであれば煙草はやめた方がよいでしょう。まあ、それに限らず煙草は必要性を問われると正直、私も答えを持ち合わせてはいないのですが。
さて、この嘆きについては心理学ではその分野の研究もなされていますので紹介したいと思います。
傍観者効果
それは「人の援助行動はその人を取り囲む他者が多いほど抑制される」(傍観者効果.Latane & Darley.1970)という、人の心の機微についての研究です。
そのきっかけは、1964年に住宅街で起きた暴行殺人事件でした。その被害者は30分以上にわたって暴行を受け死に至りましたが、近隣の住宅に住む38名の住人は、その悲鳴を聴いても窓やカーテンを開けることはあっても、助けることも通報することもなかったそうです。
その研究では傍観者となり得る要因を3つ挙げています。一つは「責任の分散」で自分以外の人が傍観者として居合わせていれば「責任は他の人にもあるはずだ」と感じてしまうことです。傍観者が大勢いればその分だけ自分に対する非難は少なくなると考えてしまいます。
二つ目は、「評価懸念」です。援助行動に限らず、他者が存在する空間では、自分の行動が他者にどのように映るか気にしながら行動します。先走った行動がその場の暗黙の社会規範を破る可能性を考えてしまうのです。(人を助けることが社会的規範を破るとは私には考えにくいのですが。)。
三つ目は「集合的無知」です。判断がつきにくい事態に遭遇した時に自分の判断を決めるために周りの人がどのように動くかを見てしますわけです。しかし、周りの人も同様に判断の基準を周囲に求めることも少なからずあるわけですから、結果的に誰も行動しないということになってしまいます。これを客観的に表すとあたかも臨場する人々が考える力を失ってしまったように見えるので「集合的無知」という言葉になっています。
これを援助に至るためのプロセスとして構造的に捉えると、第一段階として「事象の認知」、第二段階「緊急性の認知」、第三段階「責任性の評価」(自身の個人的責任の度合を決定する)、第四段階「援助の方法の決定」、第五段階「援助の実行」(評価懸念が生じたりコストやリスクを考えてしまったり、実行に至るまでには判断のプロセスが存在します。)となります。それぞれの段階で「Yes」となれば次の段階に移行しますが、「No」であれば援助しない、あるいはできないという結果になります。
AED訓練
私たちの心の動きにこのような特性があるとするなら、これに対応する方法もお知らせする必要があるでしょう。私が町内会だったか、会社の労働者安全衛生法関連の講習だったかAEDの使用訓練を受けたときにこのような理論背景を知らずに、対応行動を習っていました。記憶の中だけですがその流れを下記してみます。
歩道を歩いているときに倒れている人を発見
周囲、上空の安全を確認
倒れている人に声掛けをして意識レベル、呼吸、脈拍を確認
必要に応じて周囲の人の中から、指名して「あなたは、119番に連絡してください。」別の人に「あなたはAEDを探してきてください。」と指示する。
この後は、救急車が到着するまで心臓マッサージ、AEDによる微細同除去、人工呼吸で蘇生を試みます。
皆さんも気づかれたと思います。援助者から「○○をしてください」と指名された段階で皆さん自身が傍観者から援助者になります。「責任の分散」は解除されて責任は発生する一方で、援助者から指示されたことで責任を回避していると考えます。「評価懸念」も同様に社会的規範の解釈は既に援助者が行っているので考える必要がなくなり同時に「集合的無知」からも解放されます。
(その前にこの先行している援助者が先ほど申し上げた5段階もクリアしているのですが。)
自助
さて次に皆さんご自身に援助が必要な当事者だった場合はどうすればよいかです。
第一、第二段階の「認知」をクリアするためには、周囲の人に自ら自分の状況と緊急性を伝える必要がありそうです。これも自分自身に意識があればということになります。「助けてください」「救急車を」と助けを求めれば、第三段階から第五段階まで一気にクリアすることが出来ます。
件の知人の心情までは推し量れませんが、援助行動の構造をご理解いただければ少しは気が晴れるのではないかと思いました。
参考資料:森津太子. OUJ『社会・集団・家族心理学』.放送大学教育振興会.2020.
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