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なぜ、ベートーヴェンはユダを登場させなかったのか?!
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ベートーヴェンの若いころの曲に《オリーブ山のキリスト》がある。
かなりマイナーな曲で、コンサートでもめったに取り上げらることがないようだし、自分も最近まで聴いたことがなかった。
しかし、ベートーヴェンの生前はかなりの大ヒットだったらしく、何回も繰り返し上演されていたらしい。
大崎滋生氏の『ベートーヴェン像 再構築』の中でこの曲について歌詞の和訳をつけてくわしく紹介されていたので少し丁寧に聴いてみた。
この曲が歌っている場面は、イエス・キリストがローマ兵に捕らえられるまさにその場面。12人の弟子の一人のユダが裏切ってローマ兵を連れてきて、イエスを逮捕させたまさにその場面。
しかし、ベートーヴェンのこの曲には、実はユダが出てこない。
これはなぜなのか?
たとえばバッハの《マタイ受難曲》や《ヨハネ受難曲》ではユダがイエスを裏切ってローマ兵に引き渡すシーンは丁寧に描かれる。特に《マタイ受難曲》では、その後、ユダがイエスを売り渡したことを後悔し最後は自殺してしまうところまでバッハは描いている。
なのに、同じ場面を描いているベートーヴェンのこの曲にはユダが全く出てこない。なぜなんだろうか?
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で、いろいろ考えて、以下、今のところの自分なりの仮説 ↓
・曲の構成から考えると、上に書いたような劇的な場面をテーマにしている曲の割には、実際の出来事の展開は曲の後半に限られていて、前半は延々とイエスの苦しみの独白、それを見守って励ます天使セラフィム、その二人のかけあいが続く。人類を救済するために我が身を神の前に投げ出そうとするイエスの内面的な葛藤、苦悩が強調される。それは悟りをひらいた救世主の視座ではなく、ある意味非常に人間的なもがき方として描かれる。
ベートーヴェンが本当に描きたかったのはイエスが逮捕される劇的な場面ではなくこちら、つまり、イエスが苦しみ葛藤する姿だったんではないかと思う。
・では、なぜ彼はイエスの内面的な葛藤をテーマにしたのか?
この曲が作曲されて上映されたのは1803年4月。
実はその半年前の1802年の10月にベートーヴェンは自殺を考え、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き残している。難聴がすすみ、人とのコミュニケーションが絶たれていくことへの絶望感から自殺しようと思ったものの、そんな彼を思いとどめたのは「芸術」だったらしい。
芸術に奉仕することに自分の生きる意味をやっと見いだせたベートーヴェンにとって、オリーブ山で神に身を委ねることで死への恐怖を克服したイエスの祈り、苦悩が我が事のように感じることができたんじゃないかと思う。
だからこそ、遺書を書いたわずか半年後に作曲されたこの曲で、まさに自分の実感としてイエスの内面的な葛藤をテーマにして作曲したんじゃないかと思う。
・そうしたイエスの葛藤と決意にとって、ユダの存在はどれだけの意味があったのか。ユダに裏切られたからイエスは殺されたのではない、ユダの裏切りはイエスが予言し予想していたことでもあり、出来事としてのきっかけにすぎない。
だとすると、イエスの苦悩をある意味“追体験”したベートーヴェンにとっては、この曲でユダを登場させる必要性も必然性もなかったと言える。ユダを登場させていたら、かえって自分がいちばん描きたいと思っているイエスのありのままの姿を結果的にぼやかすことになるんじゃないか、と。
だからユダは出さなかった。
これがとりあえずの現時点での自分なりの結論。
以下、この曲にまつわるいくつか。
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もし、上に書いたようにベートーヴェンが自殺をも考えるような苦悩、それを乗り越える決意と一体としてキリストの受難の苦しみをとらえていた、ということが正しいとすると、それはベートーヴェンの宗教観そのものにかかわることだと思う。
ベートーヴェンの宗教、神へのとらえかた、宗教観の変化、発展の過程を追う上で、「オリーブ山のキリスト」から「ミサ曲ハ長調」、「ミサ・ソレムニス」と「交響曲第9番」への流れをふまえることが不可欠になると思われる。
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ベートーヴェンはこの『オリーブ山のキリスト』を1803年の演奏会で披露しているが、この演奏会を企画したのは、モーツァルトの最晩年の大傑作の『魔笛』の脚本を書いて自身もパパゲーノ役で大当たりしたシカネーダーだった(映画『アマデウス』でも印象的に出てくる)。会場もシカネーダーが総責任者だった劇場。
ちなみに『魔笛』が上演されたのは1791年でたかだか12年前のこと。時期的にはかなり近い。
そんなことを念頭に置きながら聴くと、「なんか『魔笛』っぽいな」と思うところがいたるところにある。
天使セラフィムの最初の登場のアリアはまるで『魔笛』の「夜の女王」の最初のアリアのようだし、イエスとセラフィムの二重唱はパパゲーノとパミーナの有名な二重唱のようだし、至るところでフルート(つまり「魔笛」そのもの)も大活躍するし…そんなのをたくさん発見する。
↑ 「オリーブ山のキリスト」から。
天使セラフィムのレチタティーヴォとアリア。
↑ モーツァルト《魔笛》から。夜の女王の最初のアリア。
シカネーダーを仲介人としたモーツァルトとベートーヴェンのつながり、影響というのも可能性としてあるんじゃないかと思った。
そんな話は読んだことも聞いたこともないが。
しかし、この『オリーブ山のキリスト』をめぐっても、シカネーダーがベートーヴェンに「もっと『魔笛』っぽくしようよ、そのほうが客は喜ぶ」とアドバイスをしたんじゃないか、とか、妄想を膨らませるととても楽しい(笑)
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もう一つ、この曲が日本ではほとんどマイナーな理由の一つは曲名にあると思う。
上にも書いたようにこの曲はキリストがユダヤ人の圧力やユダの裏切りもあってローマの兵隊につかまるという劇的な場面を扱ったオラトリオであって、そういう場面自体はバッハの《マタイ受難曲》や《ヨハネ受難曲》でも出てくる。いわば、ベートーヴェン流の《受難曲》とも言える曲なのだが、それなのにこんなに知られていないのか。
キリスト教についてよく知らない自分は、「そもそも”オリーブ山”ってなんじゃ?」というところから始まった(笑)
一時代前には、さらに分からない邦題=『橄欖山のキリスト』『かんらん山のキリスト』とも呼ばれていたらしい。日本人のどれだけの人が「かんらん山」と聞いて分かるのか?「橄欖」という漢字がそもそも読める人がどれだけいるのか?(苦笑)
『運命』しかり『田園』しかり、『マタイ受難曲』しかり、曲名って大事だ。逆に言えばイメージが全く浮かばないタイトルが付けられていてもそれは逆効果。
ぜひあたらしい邦訳をつけてほしいものだ。
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「ユダ」という存在そのものについても本を読んだりして少し文章をまとめたのだが、それはまたいずれ。