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幼なじみのみくちゃん ②

私たちを取り巻く環境は、特に子供には厳しかったと思う。出来ないことが多く肩身の狭い思いをすることが多かった。

宗教の話になってしまうのはいやだったけれど、仕方ない。

クリスチャンと言っても宗派が違えばどの程度聖書の教えを生活に当てはめるかで厳しさは変わってくると思う。私たちの宗派はアーミッシュに近いもので(あの隔離された空間をそのまま日本の普通社会に持ちこんだすごく無茶な感じ)教えに厳格だった。

ほぼすべての祝祭日を祝うことができずお誕生日、クリスマス、お正月がないのは当たり前で同級生と少し仲良くなったりして誕生日会かなんかに誘われても説明して断るのはきつかった。そのたびに向けられる好奇の目が辛い。

とにかく参加できない事が多すぎる。参加できないのでその度にぽつんと椅子に座っていなければならない。とにかく目立つ。あの時期にそういう視線にさらされるのは子供時代苦痛の極みだった。

みくちゃんも学校は違うところだったけれど同じように耐えていたんだろうなと思う。イベントの前は二人してどんよりしていたものだ。

放課後は同級生を避けるように図書館に通いたくさん本を借りたり、レンタルした映画を何本も見たりして過ごすことが多かった。週に三回もあるクリスチャンの集まりにはみくちゃんにも会えるのでそれだけはうれしいけれどとにかく眠くて、眠ったら怒られるので目をこすりながらなんとか座っている。みくちゃんもよく眠っていたなあ。

中学に入るともともとバランスを崩しやすかった母親の鬱病が悪化してしまい、兄のいじめによる不登校からの引きこもりも続いているのに父親はお手上げといった感じで飲みに出ていくようになってしまった。
最悪の雰囲気をなんとかしようと、母を喜ばせようと、わたしは家では明るく外では精一杯ボランティア活動に参加していた。

同じ時期みくちゃんの家庭事情も大きく揺れていたようで彼女は目に見えて荒れてしまった。学校の友達をどんどん作って変わっていくみくちゃん。いつの間にか髪型も服装も派手になり、クリスチャンとしていい子でいようとする私に反発するように冷たくなった。

それでもしばらくは遊んでくれていた。ほとんど私から誘っていたと思うけどこっそりカラオケに行ったりご飯を食べたり最後の方にはディズニーランドにも行ったと思う。つまらなそうにしている彼女の前で私は少しふざけたりしてみたが無関心と言った感じだし、なにしろずっとふてくされているものだから、一緒にいるとなんだか辛く感じるようになってしまった。

さみしいのと、なんだよという気持ちとなんだかわかるなあという気持ち。自分の家族のこと、宗教のこと、学校での孤立感色々な気持ちがぐちゃぐちゃになってしまって少しずつ彼女を楽しませようという気持ちに疲れてきた。

お互いがお互いを避け、自然と距離ができるうちに全然会わなくなった。

その後の彼女はオーストラリアに留学したとか彼氏と同棲してるとか別れてキャバ嬢になったとかいろんな話を母親同士の会話から耳にして知ることになる。

その度にあの楽しかった時が浮かび、笑い転げていた二人を思い出して寂しくなったものだった。遠くなってしまった彼女の幸せを願う一方でしばらくは大事な一部が欠けたみたいに寂しくて悲しかった。切り捨てられたような少し恨むような気持ちも整理出来ないまま鬱々と過ごしていたとも言える。

彼女は彼女の生活を過ごし、私は私で生活が嵐のように大荒れして、
そのうち彼女をほとんど思い出さなくなった。

つづく


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