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tam-chan’s ″随想録″その4:『“いもうと” とのこと ①』

「しまった。得意先に腕時計を忘れてきたよ」

 出張帰りに泊まった妹の家から出勤しようとした僕は、腕時計のないことに初めて気がついた。

 僕は腕時計を一つしか持っていない。
 次にその得意先へ出張するのは何ヶ月か先である。

 「その間、腕時計なしかよ」

 嘆いていると、妹が奥の部屋から一組のきれいな腕時計を持ってきた。

 「これは私とあのひととの “ペア・ウオッチ” よ。

 まだ仲が良かったころに 彼に買ってもらったたの」

 妹の手の中で、大小二つの時計が仲良く時を刻んでいる。

 「旦那さんはこれを持って行かなかったんだね」

 「ええ、あのひとの品物は今でも部屋にたくさん残っているわ」

 「捨てられないのかい」

 「…そうね。未練だね」

 妹は涙ぐみはじめた。
 慰めてやろうにも、もう電車の時刻が迫っている。

 「その腕時計は大切にしようよ。

 僕は借りられない。

 このまま仲良く置いといてあげよう」

 そう言うと、妹は涙目で僕を見上げて微笑んだ。

「ありがとう。ごめんなさい…」

 ただ女心のいじらしさを思う。
 時は過ぎ行くものだ。
 人の心も変わってしまう。

 再び一緒に仕舞われたペア・ウオッチ。

 その腕時計たちが今後も刻んでゆく時とは、いったい何なのだろう。

 律義な時計たちだからこそ続けることのできる、動く愛の記憶なのか。

 歩道へ出ると、初夏の陽射が目に染みた。
 季節も正確に時を刻んでいる。

 その青空を背景に、窓からちぎれるほどに手を振る妹へ軽く手を上げて、僕は駅へ急ぐ人の列へと合流していった。

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