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自由からの逃走 3

或る日、訓練闘技場に現れたのは意外にもヴァレンタインだった。

いつものように教官の指導の下、訓練していればいつもと変わらない様子で突然やって来たのでフリストフォールは少しばかり驚いた。

ヴァレンタインの表情とわざわざこの場に足を運んだということは何か要件があるのだろうと思いはしたが、確信は得られない。

「やあ、訓練はどうだい。順調かな」

広大な訓練場にヴァレンタインの声が反響する。フリストフォールはヴァレンタインの白衣の白と壁の大理石の白が混ざって、そこに意識が引きつけられるのを感じた。雪花石膏(アラバスター)の冷たく硬い感覚が戻って来るまで、数秒ヴァレンタインの顔を見つめていた。ヴァレンタインが訝しげな顔をしていたので、はっと我に帰ったがその後も妙な感覚が残っていた。フリストフォールは普段居るはずのない場にヴァレンタインがいたせいだと己を納得させることにした。

「順調だ」

「そうだと思ったよ。だったらこれから更なるステップアップをしよう。強化訓練を始めるぞ」

フリストフォールはヒサノの言っていた言葉が出てきたので瞠目させたが、すぐに納得したような表情をした。ヒサノの言っていた通り、ヴァレンタインが前もって事を伝えないということを肌で感じたのでフリストフォール自身は納得するのと同時に失笑する。

「その反応、誰かから知らされていたな」

フリストフォールを見て、ヴァレンタインはへらっと笑う。

「このことを前もって聞かされていて正解だった。貴方は重要なことでも事前に知らせようとしないから、強化訓練のことを聞かされていなかった時の気分を考えると気が滅入るな」

「結果的に知らされていたのだから良かったじゃないか」

のらりくらりと躱すヴァレンタインにフリストフォールはもはや呆れることすらせず、溜め息をついた。特別悪いことだとも思っておらず反省する気もないのだろう。巧く言い包められたようでフリストフォールは気分が良くなかった。

「ソテルはマルム人と対峙するために如何なる事態にも臨機応変に動かなければならない。もちろん、戦闘の時もだ。鍛錬不足だったというのは言い訳にもならない。妖魅であるなら尚のことだ。ソテルに最も重要な素質は三つ。機動性、敏捷性、技巧性だ。

マルム人は人間よりも遥かに逃げ足が速い。その上動きも俊敏だ。追いつけなければ話にもならない。もし追いつけたとしても、討伐できるほどの技倆が無いのなら意味がない。この三つがどれほど重要かはこれで分かっただろう?」

「それは分かるが、その三つだけじゃないんだろう?他のものも含めて全てのことを均しく出来なければ意味はないのだろう」

「それはそうだが、この三つは鍛錬すれば上達が目に見えて分かる。そうすれば ソテルとしての質も格段に上がる。どれか一つだけ特化しているだけでも、じゅうぶん強みにもなるしな」

そう言いながらヴァレンタインは除に白衣の内ポケットから拳大の白い箱を取り出した。ヴァレンタインがその箱を前方に向けて何かを押すと、閃光が走った。その箱から照射された光が届いた場所に光彩の粒子が舞う。フリストフォールがそれを不思議に見ていると、無数に群がった粒子がみるみるうちに形を成していった。その形は人間を象っており、いつのまにか粒子の塊は完全な人間の姿と変貌していた。茶色の髪に錆色の瞳をしていて、身長も体格もほぼフリストフォールと同じほどの若い男だった。何の情も感じられない無機質な様相と、粒子から形成された存在であることからフリストフォールはこの男が只の人間ではないことが分かったが、ヴァレンタインがどういう目的でこれを行ったのかまでは察せられなかった。

「驚いたか?すごいだろう。どこからどう見ても普通の人間だ」

白い箱、もとい箱型照射装置を見せびらかすようにヴァレンタインはへらへら笑う。

「驚いたな。驚いたが、これは一体何なんだ?」

「これはホログラム(三次元光投影体)だよ。この小さい箱型装置の中に投影するデータと小型の発光体と反射板が内蔵されているんだが、発光体から光を出してそのデータに当てると、反射板によって反射された光が装置から照射されて立体物として現像される。だから彼は人間にしか見えないけど、単なる投影されたデータの実体でしかないのさ」

そう言いながらヴァレンタインは男のほうへ近寄り、その身体に触れた。映像であるはずの男の身体はもはや本物の人間と見紛うほどであり、それが”虚像”であることを忘れるものだった。

「触れられるのか」

「訓練用だからね。どうせ見た目を人間に似せるのなら、極限まで再現するべきだ」

現像されたデータでしかなかったとしても、男は人間と寸分違わない外見をしている。一見だけでは人間との違いを列挙することさえ難しいだろう。人の外見をしている人ならざる者を見抜くというのは、恐らく己が考えるより難儀なのだとフリストフォールは思った。

「まだ名前をつけていないんだが、何にしようか。何ならきみがつけるか?」

「いや、名前はいいから早く訓練を始めたいのだが」

「セドリック、ピーター、オリバー…あ、ジェイコブなんてどうだ?理性的で良い名前だろう」

フリストフォールの言葉を無視して勝手に名前を考え始めるヴァレンタインに、フリストフォールだけではなく教官までもがフリストフォールと同じ顔をしていた。毎度のことなので、驚くわけも困惑するわけもなく、いつものことかと呆れるだけだ。

「じゃあ早速、訓練を始めようか」

ヴァレンタインは切り替えと言わんばかりに手を叩く。男――もといヴァレンタインの一存で命名された”ジェイコブ”――は相変わらず顔色一つ変えず只ヴァレンタインの方へ向いているだけだった。呼吸をしているのかさえ怪しいほど、静かで彼の周りだけ時間という概念が朽ちているようだった。

「きみたちには一対一の手合いを行ってもらう。制限時間の五分以内で一本取った方が勝ちだ。武器は訓練用の剣のみ。反則技は、まぁ特になし。相手を殺さない限り大丈夫だ」

「おい、そこはせめて”怪我をさせない”程度にするべきなんじゃないのか」

「ジェイコブはホログラムで、きみは妖魅。たいていのことで死んだりはしないさ。疑問をぶつける前に己の頑丈さに感謝するほうが良いよ」

ヴァレンタインの煽りとも受け取れる言葉にも愛想を尽かし、これ以上の言葉の応酬を諦めて訓練に入ることにした。返事をしたら敗北した気分になりそうだからだった。

フリストフォールはヴァレンタインが言った”五分間”という一つの言葉に引っかかりを感じた。今までの訓練で行ってきた教官との手合いでは一回三分ほどで行っていた。すぐに決着がつくので、五分など一回の手合いとしては長い、しかもたった一本をとるためだけにそんな時間に設定する必要はあるのかと疑問に思うのだ。しかしこれもヴァレンタインには何か考えがあるのだろうと思ったし、逐一口を挟むより手合いを始めるほうが良いと判断したのでフリストフォールはその思惑を顔にすら出さずに黙っていた。

ヴァレンタインの指示で教官が位置についたのを見て、フリストフォールとジェイコブは銘々間合いを取った。フリストフォールは少し離れたところに屹立しているジェイコブを見据えた。錆色の鋭い瞳がフリストフォールを捉える。視線が合ったその一瞬で体が縛り付けられたかのように”重く”なったのを感じた。ジェイコブの周囲だけではない、訓練場すべての空気が彼によって作り替えられたようだった。

空気に飲み込まれそうになって、フリストフォールは咄嗟にその気概を振り払った。流されているようでは駄目だと、そう己に言い聞かせて剣を構えた。飲み込まれるくらいなら飲みこんでやれと、左足で地面を踏みしめ、思いきり空気を吸い込んだ。

「———始め!」

その一声と同時にフリストフォールが駆け出した途端、眼前に一閃が過った。それが何なのかと考える暇もなく気配が”背後に”移動したことに気づいた。それを認知したその瞬間すでに目の前に”ジェイコブの姿はなく”、其処にあるのは虚空のみだった。フリストフォールが慌てて体勢を立て直そうとした時、一閃がフリストフォールの頚筋を捉えた。

金属ががなり立てるように交じり合う。寸前のところで切っ先を防ぐことができたが、未だ鼓膜に残る鋭い音と、腕に伝わる衝撃で筋肉が軋む感覚が残っていた。そして、次に訪れる攻撃を迎える暇もなく先刻の衝撃で跳ね返されたジェイコブは針のように一定の体幹で体を支えた。

――その瞬間のことはまるでコマ送りのようにゆっくりで、なお且つ鮮明に脳髄に焼きついた。ジェイコブは軽やかな動作で一回転すると重心を低くし、瞬時に前方に飛び出した。フリストフォールは傀儡(マリオネット)のようだと思った。糸で操られているように緩慢なのに、驚くほど俊敏だ。再び耳許で鋭いが玲瓏にはほど遠い音がすると、フリストフォールの頚筋にはジェイコブの剣先が触れそうになっていた。

フリストフォールはどうにか必死に剣で防ごうとするが、今この拮抗している状態からほんの少しでも力量差が生まれれば、勝敗はもう火を見るよりも明らかだった。両腕とも悲鳴を上げ、耳鳴りと脂汗が止まらない。途轍もない圧をかけられているこの剣から逃れるのは今の己には到底無理だと、フリストフォールは逼迫した状況の中で思考がいやに冷え切っていくのを感じた。フリストフォールは眼前にあるヤコブの瞳を盗み見る。先刻までは冷めたような錆色が熱を持って違う色に変化しているように見えた。その瞳はあまりにも犀利で、断乎としてお前をこの剣で馘首してやるという気概で満ちていた。気のせいだと言ってしまえばそれまでだが、感情の無いはずのこの”塑像”は今たしかに見せかけの殺意を滲ませていた。

しかし、フリストフォールは勝機はまだ完全に喪っていないと確信していた。この塑像が狙っている場所はすでに分かっている。かなり押されている状況ではあるものの、どうにかして隙を突いてこの剣をどかしてやれば、そこから一気に畳みかけることは可能だと考える。一瞬だ。一瞬の判断が雌雄を決す。一片の隙もないこの塑像にも何か必ず隙が生まれるはずだと、だからその隙を作る一撃を与えなければならないとフリストフォールは熱の上がった脳で思惟する。その一撃を与えるタイミングは見誤ってはいけない。速く、確実に突くには適する時を待たなければいけない。これで勝利へ近づくことができると、静かにほくそ笑んだ瞬間、その時はすぐに来た。ジェイコブの筋肉が動くのを感じた。腕をわずかに緩めたことに気づいたその瞬間に、フリストフォールは両腕に力を込めた。すでに玄関間近だったがそれも構わず前腕を駆動して、二本の剣を振り上げるとフリストフォールはすぐに己の剣を引き抜いて、照準を合わせた。狙うところは何処でもよかった。どうせ当たるならどこでも良いと、腕を伸ばした時、再び気配が動いたのを感じ取った。体勢を崩したジェイコブが片足で重心を支え、瞬く間に飛び出した。そんな無茶な動きをすれば体に負担がかかるのではないかという考えなど無視していとも容易くその肢体を操った。

フリストフォールの脳が危険信号を出したその時に視界の端で見えたのは鋭い錆色だった。

「あっ…まっ、う”あ”ぁ”っ!?」

がんっ、とヤコブの足がフリストフォールの足首の上を捉えた。ジェイコブがフリストフォールに与えた痛恨の一撃は見事に脛に炸裂したのだった。

その攻撃をまともに喰らったフリストフォールは初めて味わう激痛に顔面を歪め、その場に倒れ込んだ。

「勝負あり、だな」

ヤコブの足許で蹲り痛みに悶え苦しんでいる”敗者”に、その上でただ恬然としている唖の”勝者”にヴァレンタインと教官は目を見合わせて笑った。

「私たちから見れば勝敗はさもありなん、という感じだったがなかなか面白い物を見せてもらったよ」

愉快気に笑いながら近づいてくる憎たらしい傍観者に、フリストフォールは蹲りながら顔だけ動かして睨みつけた。

「やぁ、大丈夫かい?通常の人間より痛覚を感じにくい妖魅のきみでもそんなに痛がっているということは、ジェイコブが喰らわせたローキックは相当の威力だったようだね。いやぁ、まったく恐ろしいな。想像するのも恐ろしいよ」

想像するも何も目の前にそれを喰らった者がいるというのに何を言うか、と言いたげにフリストフォールはなお痛みの引かない足をひきずりながら上体を起こす。

「…まぁ、ずいぶんと優秀なホログラムを開発したもんだな」

「ああ!自分でもそう思うよ!そう言ってもらえると感激の至りだね」

皮肉のつもりで言った言葉はヴァレンタインにはまったく効かずフリストフォールは肩を落とした。もうこの男には何も言うまいと口を噤むのだった。

「それにしてもどうだったか、ジェイコブとの手合いは。自分の実力不足を身に沁みて感じられただろう?」

ヴァレンタインの言葉に頭が痛くなったがその通りだとフリストフォールは思う。想像以上の俊敏さと判断力、臨機応変な対処能力などすべてにおいてフリストフォールの上をいっていた。隙を突いて一本取ってやろうという思惑はジェイコブには筒抜けだった上、予測していた狙いどころも外れて思いもよらない場所(しかもがら空きだった)を当てられるとは考えていなかったせいで醜態を晒すこととなった。ジェイコブから見ればフリストフォールはいくら身体能力に優れていようが、技術は嬰児同然だ。この剣士は、あまりにも玄妙で怜悧だとそう確信した。

「まぁ、でも修練相手としてはこれ以上ない相手だろう。きみを陶冶させ、真の力を引き出してくれるにちがいないよ」

そう言ってヴァレンタインはフリストフォールの肩に手を載せた。顔は笑っているが、真意は読み取れない。

「あくまでも焦らずに、気長に鍛えるんだ」

その言葉で隣にいる錆色がわずかに光を孕んで揺らめいた。


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