【シリーズ小説】羊ヶ丘さんちのオオカミ怪人⑥
※血の表現有ります。
衣奈のため息とともに、オフィスビルの自動ドアが開いた。残業の疲れが、鉛のように身体を重くする。上司に押し付けられた厄介な仕事のせいで、予定時間を大幅に超過してしまった。
「早く家に帰りたい……」
溜息と共に口をついて出た言葉は、雨音にさらわれて消えていく。
空腹を満たし、温かいお風呂に浸かり、推しケモノグッズの並ぶ寝室で柔らかな布団に包まれたい。
しかし、目の前には容赦なく降り続く雨。一歩踏み出す勇気が湧かない。家に帰るまでの道のりは、まるで果てしない戦場のように思えた。
深いため息を漏らし、衣奈は傘をぎゅぅと握り締める。そして意を決し、雨の中へと飛び込んだ。
普段ならまだ人通りのある時間帯ではあるが、駅までの道は大雨のせいで閑散としていた。雨音に混じって聞こえるのは、自分の足音だけ。時々通り過ぎる車のタイヤ音が、静寂を打ち破る唯一の音だった。
衣奈は、駅を目指して黙々と歩いた。とにかく家に帰るということだけを考え、足を動かす。
「あ、しまった」
ふと、無意識に駅への近道である公園の中を歩いていることに気が付いた。定時の時には必ず通って帰るので、つい体がそちらの方へと向かってしまったようだ。
昼間は親子連れや会社員の憩いの場として賑わう公園だが、夜間は街灯の明かりがあるとはいえ、その仄暗さから一人で歩くのは心細い。
だから、この時間帯に衣奈が一人で公園を通って帰ることはなかった。あるとすれば、残業で帰りが一緒になった赤居をはじめとする同僚たちと通るくらいだ。
もう半分以上来てしまっていたので、衣奈は引き返すことなく、そのまま進むことにした。
「すごい雨……」
街灯の明かりが届かない暗闇で、木々の枝葉が雨風を受け激しく揺れている。その影は、まるで暗闇に潜む何かのように見えた。
「……ウルフガルム、どうしてるかな」
ショッピングモールでの再会から、もう2週間が経っていた。以来、衣奈の胸には、ウルフガルムへの想いが募るばかりだ。ウルフガルムのことをもっと知りたいという一心で情報のチェックは怠らないし、彼のことを考えない日は無かった。
「雨の日は、どうしてるんだろう」
今も、自分の心配よりもウルフガルムの心配である。
雨に濡れていないか。雨宿りは出来ているんだろうか。
例えば、こんなふうに人通りの少ない公園の遊具、とか。
そう考え、ちょうど前を通りかかった遊具の設置された広場に視線を移す。
いくつかある街灯の内のひとつに目が留まった。電球が切れそうなのか、チラチラと点滅している。
それが照らしているのは、コンクリート製のドーム型遊具だった。鈍いオレンジのペンキで塗られた小高い山には、クライミングができるように、握りこぶし大の石がいくつも埋め込まれていた。さらに中は空洞になっており、出入り口と小窓が数か所開いていた。子供たちが数人で秘密基地やままごとの家として遊ぶには、ちょうどいい大きさである。
「でも、ウルフガルムにはちょっと小さ――――」
そこまで言って、衣奈は口をつぐんだ。
こちらに向いてぽっかりと開いたドーム遊具の出入り口から、中の様子がぼんやりと見えた。
空洞の奥に、何かがいる。
それは黒い大きな影の塊だった。チラつく電灯に目がちかちかするのを堪えて見れば、それはフワフワとした漆黒の毛に覆われているのだと分かった。
ウルフガルムだ。
衣奈は直感した。
そして、さらに気が付いた。
地面に、引きずられたような跡があるのだ。その跡は、ドームの入り口へと続いている。
中のフワフワは、動く気配がない。
とてつもなく嫌な予感がして、衣奈は全身から血の気が引いていくのを感じた。
「――――ウルフガルムっっ!!」
次の瞬間、衣奈は傘を捨て、遊具に駆け寄っていた。
少しだけ頭を下げ、アーチ状の開口部に入る。思わず手で鼻を覆うほど、血の匂いが充満していた。奥の影はやはり動かない。雨音に交じって苦しそうな呼吸音が、ドームの中に響いていた。
雷のように光る街灯だけでは心もとなく、衣奈はカバンからスマホを取り出しライトを点灯させた。足元から地面を這わせるように光を動かしていく。顔の部分に直接当てないよう注意しながら、影へとライトを向けた。
「っっ!!」
思わず息を呑んだ。
そこに居たのは、やはりウルフガルムだった。しかし、明かりを向けても反応が無い。コンクリートの壁にもたれかかるように横たわり、ぐったりとしている。
衣奈は、ウルフガルムの近くに駆け寄った。
「ウルフガルム……ウルフガルムっ!!」
震える声で彼の名を呼びかけるが、ウルフガルムは反応しない。依然として意識を失ったまま、息を微かに吐いているだけだった。
スマホのライトで彼の身体を照らしてみる。漆黒の毛並みは雨に濡れて重く、あちこちに傷が刻まれていた。両手の鋭い爪は何本か折れ、胸元には深々と刺されたような傷口が赤く光っていた。
どうしよう。
衣奈の頭に、その五文字だけが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
ウルフガルムが死んでしまう。
助けなければ。
衣奈は咄嗟にスマートフォンの画面を切り替え、救急の番号を打ち込んだ。
しかし、通話ボタンを押そうとして、手が止まる。
「ダメ……だよね」
わずかに残っていた冷静さが、ウルフガルムが悪の組織の怪人であることを思い出させた。
彼は星明町の人々からフレドルカを奪い、気絶させる事件を起こし、人々を恐怖させている。そんな彼を、果たして助けてくれるだろうか。
衣奈には、ウルフガルムが医療機関ではなく、研究機関に回される可能性の方が高いと感じられた。
救急車を呼べば、ウルフガルムは人間社会に捕らえられるかもしれない。そうなれば、もう二度と会えなくなってしまう。
しかし、このまま放置すれば、彼は確実に死んでしまう。
やっと出会えた憧れの存在を、絶対に失いたくない。
絶対に、助けたい。
「あ、」
突然、衣奈の脳裡が星の瞬きのように光った。
「フレドルカ……!!」
衣奈は、先日ウルフガルムの情報を集めるために見ていたニュースサイトを思い出した。
星明町に豊富に存在するフレドルカという精神エネルギー。悪の組織はそのフレドルカを怪人たちに集めるさせることで、強大な力を持とうとしているのではないか、と専門家が記事をまとめていた。
その専門家は、フレドルカについても説明していた。
怪人にとってフレドルカは、食事や休息よりも効率的に体力回復や力の増強ができる特別なエネルギーであるということを。
もしかしたら、フレドルカを与えれば、ウルフガルムの傷を癒すことができるのではないか。
衣奈は、こくりと唾を飲み込んだ。
与え方など、衣奈は知らない。
それでも、その可能性に賭けるしかないと思った。
「やってみるしかない、よね」
衣奈は決意すると、スマートフォンをカバンにしまい、未だぐったりしているウルフガルムの目の前に膝をついた。
右手で優しく彼の頬の毛並みを撫でる。暗がりで衣奈の手を濡らしたのが雨なのか血なのかは分からない。
「ウルフガルム、お願い。私からフレドルカを受け取って」
両腕を伸ばし、脇腹へそろりと差し込む。
そして、ちょうど大きなテディベアにするように、傷だらけの漆黒の体に自分の体を寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
広い胸に顔を押し付ける。むせかえりそうな血の匂いがした。
何かが流れ出ていく感覚も、無くなっていく感覚もない。
それでも、衣奈はウルフガルムを助けたいと願った。
普通とはかけ離れてしまうことよりも、周囲の人々から理解を得られないことよりも、社会のルールから外れてしまうことよりも、目の前の運命の相手を失いたくない気持ちの方がずっとずっと強かった。
「お願い……!!」
目を瞑り。強く、強く願う。
ぷつり、と糸が切れたかのように、衣奈は意識を失った。