萩尾望都の「秋の旅」
大泉ネタも尽きてきたようなので、萩尾作品に対するいくつかの疑問をぶちまけたいと思います
まずは「秋の旅」、萩尾さんの初期作品の中でも評価がとても高いものですが、かなり突っ込みどころの多い作品です。7歳で両親が離婚し、母親に引き取られた少年が父親に会いに行くという話ですが、この父親がちょっと……
14か15歳の息子の顔を見ても誰だかわからないどころか、娘のルイーゼ(再婚相手の連れ子)のボーイフレンドだと勘違い
この時点で私が主人公だったら、私の顔を見てわからないのだろうか?たとえ顔は成長して昔の面影がなくとも、同じくらいの年の少年を見たら、真っ先に思うのは置いてきた息子のことじゃないのか?と激しく失望しただろうと思います
しかし主人公ヨハンはこんな酷い対応をされても、父親のことを
とめっちゃくちゃ高く評価してるんですよ
この父親は小説を書いていて、その小説を読んだヨハンは
と思ったのがその理由らしいです
両親の離婚時、ヨハンは7歳ですが、その下にも二人の弟がいて、なんと合計三人も幼い息子がいたんですよ。妻に押し付けたのか、強引に妻が引き取ったのかそこはわかりませんが、妻はノイローゼで入院してて、三人の息子たちは妻の身内のアガーテおばさんという人がめんどうをみてて、現在は三人とも同じ寄宿学校に入っているとのこと
こんな状況で、こんな父親が現実にいたら、父親の義務を放棄していると非難轟轟だと思うのですが、当時はそれも許される時代だったのでしょうか?どこがどう「大きな人」なのかさっぱり理解できません、小説上でどんな素晴らしいことを言っているのか知りませんが、よくいる「口だけは大きいけど実際にやってることは……」というタイプの典型としか思えません
せめて息子は三人ではなく主人公一人という設定にすれば、まだマシだったと思うのですが、息子を三人にしなけりゃいけない理由が萩尾さんにはあったのでしょう。一人より三人の幼い息子たちのほうが、主人公の記憶の中にある「幸せな家庭」の度合がより高まるからなのかわかりませんが、そんなことより、置いてきた息子を三人ではなく一人にする方が父親のクズ度合いが少しは減ってストーリー全体として望ましいように思えるのですが……
そうした一方で、この作品が当時絶賛されたという理由もなんとなくわかるんです、だって表現力が凄いですから、もうその一点で他のすべてはどうでもよくなる圧倒的パワーがあったんだろうなって思います
いろんなことを無視できさえすれば、最後の列車での父親との別れのシーンなんて、このうえなく「雰囲気」が素晴らしく、感動的
まさに「表現」に全振りしたようなマンガです。こんなひどい設定でこんな強引なストーリーをマンガにして、なおかつ高い評価を受けることができるなんて、萩尾さん以外に誰もいないのでは
しかし、それにしてももう少し父親の設定をどうにか出来なかったものなんでしょうかね?クライマックスの「別れ」さえ描ければその他の細かい(細かいとも思えないですが)部分はどうでも良かったのでしょうか?
やはり萩尾さんは普通の人とはちょっとものの感じ方が異なる人だと思ってしまいます
(追記)
「秋の旅」について、知人が面白いことを言ってました
以下は私が5ちゃんねるの大泉スレで書いたレスです。もちろん知人は冗談のつもりで言ってます
知人もちょっと似たようなことを言ってたな
現実は精神を病んだ母と、幼い息子三人を置き去りにして何の関心も示してこない冷酷な父親
息子たちは誰にも望まれず?三人とも寄宿舎へ
でも、そんな現実を直視したくないから、過去へ逃げる
冷静に考えたら、小説では偉そうなこと言ってるくせに、実行は伴わないクズ父なのに
そんな風に考えたら自分が壊れてしまう
だから、父親の欠点は一切みずに、自分の選んだ美しい部分だけで父親像を妄想で作り上げる
最後のラストシーン、父親との別れもそう
父親に会って、一時間ほど二人でお茶でも飲んで話し合おうなんて展開になったら
自分が描いてきた、嘘で塗り固められた父親像ががらがらと崩れていくことを無意識にわかっているから
自分を守るために、列車に乗って逃げる(大正解)
そして主人公はますます過去のおぼろげな記憶(鮮明な記憶ではそれはそれで困る)に逃げる
良く出来たストーリーだってさ
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