激動介護~人生半分引きこもり~10
姉と母に愚痴り、鼻を噛み、私はやっとあきらめた。
「区議が保健所に頼んでくれたから、それ待ちだね」
明日の入院は無理だが検査をすれば解決する。
夕方にわかっていた情報をやっと受けとめた。
私はまた失敗した。
大事なことを人任せにして安心し、がっかりしていた。
腰骨を折っても入院できず、救急車を呼んでも断られる。
『コロナじゃなかったらね』
どこもかしこも大変で、自分の身は自分で守るほかないのに。
(朝一でケアマネさんに電話して、デイサービスの再開を頼もう)
私はぼんやり考えた。
母は父をなだめていた。
入院は父には明日の朝話すつもりでいた。
ひどい話だが、この頃は父を静かにしておくことが最優先だった。
その父は私を呼んでいた。
側にいる母が車椅子に移してくれないからで、ベッドから身をのりだす顔は赤黒い。
「オムツ替えようか」
父のオムツを替えつつ熱を計り、姉にメールした。
〈三六、九度デイもだめだわ〉
母と私も計ると、ともに三六、七度だった。
『十五万なんて、とても無理』
『だよね』
あのとき、〈私と母〉と〈父〉が天秤にかかっていた。
私はうすうす気づいていて正直になれずに父をとった。
共倒れは目前だ。
いますぐ布団に入りたかった。
でも父は赤い顔で、ほうっておいたら明日の朝には冷たくなるかも。
私は途方に暮れて姉に電話した。
「朝まで様子を見ていいかな?」
「でも熱があるなら」
なにかしたほうがいいのでは?
言外の提案に私は逆上した。
(そんな体力ないよ‼)
口ではこういって電話を切った。
「そうだね」
同じ過ちを犯していたが、もう頭がまわらない。休むこともできなくて、私と母は再び堂々巡りをした。
「お母さん、どうする?」
「そういわれても」
「もう救急車を呼ぶ気力ないよ」
「そうねぇ」
「でも明日、お父さんになにかあったら」
「そうよねぇ」
救急車を呼ぶまで一時間かかった。
父は微熱で酸素飽和度は九七かそのあたりだったと思う。
私は救急隊員さんの様子から父の入院は厳しいと感じ、コロナを強調した。
「ショートステイで陽性者がいて私と母も普段より熱があって」
救急病院でPCR検査をしてもらえれば、陰性なら私立精神病院に、陰性ならコロナ病棟にいけるはず。
私は祈る気持ちで救急車に乗りこんだ。
母と狭い座席に並んで座り、父は目の前でストレッチャーに横たわる。
すぐ出発と思ったら、これから受け入れ先を探すという。
「がえろうよ」
父が私にいって私は痩せた父の手をさすった。
「お父さんは熱があるから、病院で診てもらおうね」
車はアパートの前に停まったままで、父はしばらくすると声をあげた。
「ぼういいよ‼ ぼういいがら‼」
「お父さん、大丈夫だよ。病院で診てもらおうね」
「いま一生懸命病院を探していますから。もうちょっと待っててね」
父につきそう救急隊員さんもなだめてくれた。
救急隊員は三名で、一人が父に付き添い、二人は外や運転席で電話をしていた。
真冬の真夜中に他人を働かせ、腰の悪い母は狭い車内で疲れ切っている。うまくいかなさと疲労に私はぼんやり正面の時計をながめた。
丸いアナログ時計で計器とともに壁にならんでいる。左足の脛が家から持ちこんだ車椅子のパイプに触れていて氷のようだ。
「ちょっとトイレにいってきていいですか?」
一時間後、冷えが限界にきた私は家にもどって腰にカイロを張り、車内で母の腰にも張った。
「ぼういいよ‼」
「お父さん、大丈夫だよ」
「いま探していますからね」
父は酸素マスクで規則正しく声をあげた。
さらに一時間後、母もトイレ休憩をした。
父の熱は下がり、酸素飽和度も平常になった。
「ぼういいよ‼」
「お父さん」
「いま探していますからね」
さらに一時間、私は冷たい足で時計をみた。
針が午前二時をまわると私は母にいった。
「ねえ、お母さん」
「そうねぇ」
私と母は救急隊員に礼をいい、父を家のベッドにもどしてもらった。
父に野菜ジュースを飲ませてオムツを替えて、午前三時に布団に入った。
妙な匂いがした。
工事現場とかコンクリを連想したが掛け布団でもないようだ。
疲れすぎていて頭が冴えていた。
うとうとすると声がした。
「おあよ―――――‼ おあよ―――――‼おあよ―――――‼」
翌朝、父の熱は三六度前半で、大人しくて食欲もなかった。
私は父に味噌汁や野菜ジュースを飲ませてから自分も布団で横になった。私と母は三五度台にもどっていて、疲労困憊だが風邪っぽさはなかった。
早くに区議から電話があり、父のPCR検査が受けられるようになった。ほどなく保健所から電話があり、今日の午前に駅前の総合病院で検査となった。
昨日の今日で検査となり、私は気をとりもどした。
姉に電話すると、すでに私立病院の相談員と話していた。
「陰性結果がわかるものなら簡単なプリントアウトでもいいんだって。ただ、いきなり入院対応はできないから早くても明日の午後になるそうだけど、明日は私たちの都合が悪くて」
「私が介護タクシーで連れてくよ。お父さんを預けられるなら、どうってことないもの」
一人で県をまたぐ移動は数えるほどだが、父と離れられるなら平気だった。その前に、まず駅前までいかねばならない。
『熱も酸素量も平常になりましたので』
救急隊員の言葉と三十軒の病院に断られたのを〈安全〉と解釈し、家族で普通のタクシーに乗りこんだ。
検査はあっという間で、待合スペースで父が鼻の穴を探られて終了した。結果は夕方にでるようで、私はこたつにおさまりながら義兄の休みを待とうと考えた。
午後三時前、病院から電話がきて私は姉にメールした。
〈陽性だった〉
私と母もしばらくしてだるくなった。
疲労のだるさとは桁がちがうが、不安を感じる間もなく保健所は連絡をくれた。
父は明日の朝、西部の精神病院に入院が決まり、私と母はその午後に検査となった。
「魔法みたい」
知恵と努力とお金だった。
回復期のコロナ患者をほかの病院へ割りふる区の政策で待機患者が減っていた。
父はどのみち施設にいく。
私の心配は母に移った。
腰椎骨折から回復したのにコロナとは。
私は母も失うのかも。
だるい。
翌朝、私はマスクで父の世話をした。
父はとろみをつけた野菜ジュースをストローで吸えなくなっていて、注ぎ口付きの軽量カップで飲ませた。
一口に時間がかかり飲ませる私が疲れてしまい、父の胸元は野菜ジュースにまみれた。
吸い飲みは買い忘れ、使い捨てエプロンはなくなった。
タオルをかける頭もない。
着替えより先にオムツを替えようと思い、父の胸元にティッシュを山ほどつっこんでジュースの冷たさをふせいだ。
パッドは少し濡れていた。
飲む量が少ないからでないのだ。
(クソ)
たぶん私は微笑んだ。
「あのね。お父さんはこれから病院にいくの」
そう。
父はかすかに反応した。
「じゃあ着替えようか」
私は下半身の着替えをして、父をベッドに座らせジュースまみれの上衣を脱がせた。
新しい肌着は昨日のためにとっておいたものだ。
だるくて気を使えず、袖に腕が引っかかった。
「いだっ」
「ごめん!」
「ぼういい‼」
「ごめんねごめんね」
「ぼういい‼ ぼういいよ‼」
何度も詫びたが、父は私の手をはらいのけベッドにもどろうとした。
「しょうがないでしょ‼」
父が驚いた顔でこちらをみた。
「私だってだるいの‼ 病気なの‼ お父さんみたいに寝てたいよ‼ でもできないでしょ‼ ちょっとは協力してよ‼」
(またか)
頭の隅で舌打ちするが顔は泣いていて、父は大人しくなった。
私は父を着替えさせた。
車椅子にのせるのは大変だった。
荷物は薬と保険証だけでいい。
「ごめんね。もうすぐ迎えが来るからね」
私は優しい声でいい、父はぼんやりうなずいた。
父の坊主頭をなでてから毛糸の帽子をかぶせ、ライトダウンを着た肩や背中をさする。
いまのを挽回したかったが、おなじくらいどうでもよかった。
電話が鳴った。
迎えの車がアパートに到着した。
私は父に靴を履かせ、足を車椅子の足置きにのせた。
「じゃあ、いこうか」
アパートの廊下で待つと、すぐにジャンパー姿の男性が空の車椅子を押してきた。
私は近寄らないよう挨拶をした。
男性は防護服を手にたずねた。
「これ着てもいいですか? 下のエレベーターホールに人が集まっていましたけど」
「いいです、着てください!」
父の感染はメールでご近所に伝えていた。
「せーの」
私は父を迎えの車椅子に移し、ライトダウンの肩をなでた。
「お父さん、じゃあね」
たぶんそんな風だったと思う。
私は車椅子と防護服の後ろ姿を見送った。
「お父さん、いったよ」
家にもどり寝ている母に告げた。
「ありがとう。もう寝て」
「そうだね」
私は父の部屋の窓をあけ、大きなゴミ袋に使用済みオムツやごみ箱の中身を放りこんだ。
(失敗した。失敗した。失敗した)
泣きながら、いらなくなったものを捨ててゆく。
シーツの下に敷いたペットシーツ、トイレ用のごみ袋のシート、ジュースで汚れたシャツと肌着とくたびれた靴下。
綺麗なものは紙袋に入っていた。
手と顔を洗ってパジャマに着替え、布団に入った。
(終わった)
私の中で父は片付いた。
この先は姉が担当する。
昼は母が蕎麦を煮た。
だるくて匂いがしないが美味しかった。
母は私より元気だったが、食後に追いついたようで検査にタクシーでいきたいといった。
『背の高いタクシーとしか』
昨日、保健所から、父の検査で乗ったタクシー会社をきかれていた。
これ以上ウイルスを振りまけぬ。
私はコロナ用のタクシーを探した。
民間救急車しかないようで何社かに電話すると同じことをいわれた。
「うちは高いですよ」
「おいくらですか?」
六万と十万だった。
私と母は人を避けながら自転車をこいだ。
昨日のように裏口のインターホンに名前を告げて待つと、タクシーが次々やってきて検査予約の人々をおろした。
《駐車場の白い小屋の一番にいってください》
インターホンは昨日とちがうことをいった。
駐車場にはユニットハウスが二棟あり、引き戸をあけるとまた引き戸だ。一人ずつ入り、防護服の看護師さんに長い綿棒で鼻の穴を探られる。
医師の診察はタブレット越しだ。
「不眠症で睡眠薬を飲んでいて、子供の頃にマイコプラズマ肺炎で入院しました。子宮筋腫で子宮をとっていて、母もおなじ手術をしています」
親子入院へアピールした。
家にもどるとチャイムが鳴った。
現金書留の配達でポストに入れてもらう。
姉夫婦のお見舞いで、私たちはありがたく受けとった。
夜は出前にした。
母の希望で寿司にした。
私の誕生日に頼んだ店は休みだった。
(よかった。だるいのに高いお寿司はもったいない)
私は出前サイトのアプリをダウンロードした。
出前に縁がないのでちょっと楽しい。
初回は大きな値引きがあり、一番安い握りのセットにした。
《そこに置いてください》
インターホンにいってドアを開ける。
お寿司は四角い紙の桶に入っていた。
ネタは元気がなさそうで、食べるとご飯が冷たかった。
(市販のお寿司は冷蔵庫に入っているんだ)
勉強になった。
お寿司は残った。
さて。
私はお茶を飲み干すとなにげなくいった。
「お母さん、私、小説家になりたいんだ」
母は顔をあげた。
「小説を書いてるの。新人賞なんかに応募して、一昨年に最終に残ったけどダメだった。それでやっぱり小説家になりたいなあって、ときどき応募してる。まあ難しいけど、元気になったらパートも視野に入れつつ、そっちも頑張りたいなあって」
「そう、頑張ってね。ちょっと寝るから」
母はだるそうに横になった。
(まあいいか)
実は小説家を目指している。
引きこもりのあいだは小説ばかり読んでいて、妄想で現実逃避をしていた。いわば想像で生きてきたわけで、元気になるうちに、これで活きたいと思うようになった。
汗にお腹、人間関係、体力不眠。
私が外で働くには問題が多すぎた。
家の中なら、ほとんどの力を仕事にまわせる。
なにより書きたい。
ならこれで食べられないか。
というわけで、ノートパソコンで小説を書いてインターネットで応募できる賞に投稿していた。
作品はファンタジーがほとんどで、赤いマントの少女が旅をしたり、カッコいい剣士が子供にふりまわされたり、人類が虫に変身するお話しだ。
もう四年ぐらい投稿しているが一次審査を通ったのは一度だけ。
一昨年の暮れに赤マントものが最終選考に残り、十作の内の上位半分に入れば出版となった。
正月中どきどきして落選した。
四六時中ノートパソコンを叩いているので母もそれとなくは知っていたと思う。
でも小説家はなるのが難しく、なっても一握りしか生活できない職業だ。当たっても外れかもしれない宝くじに当たりたいなど、無職の中年がいえるわけない。
しかし万が一のことがある。
運の悪さに自信がある私は、自分の大切なことを打ち明けておいた。
だるくて気にされてなかったが、これはこれでいい。
夕方、電話が鳴った。
病院からで私たちは陽性だった。
つづいて保健所から二人とも入院の方向で調整といわれる。
ほっとした。
入院支度をしていると電話が鳴った。
「遅くにすみません」
午後の九時、お仕事中の人はいった。
入院先は都立病院でお迎えは明日の午後一時。
売店は使えないがインターネットの注文はできる。
お水をもっていくといい。
などと聞く。
「ありがとうござます」
私は父の立場になった。
翌日の昼前、民間救急車はアパートの前に止まった。
私と母はダウンコートにバックを掛けて、キャスター付きの旅行鞄を手に乗りこんだ。
車内は暑いくらいで、二種類の車椅子にストレッチャーと酸素ボンベが積んである。
建国記念日で病院はひっそりしていた。コロナ病棟は五階で、私はナースステーションから最も遠い大部屋だ。
六人用だが真ん中のベッドを片づけて四人部屋になっていた。
私のベッドは廊下側でほかに人はいなかった。
入院書類と体温計、体調のチェックシートとペンを渡される。
入院着に着替えて熱を測ると三十六、四度。
ほどなく防護服の医師がやってきて診察となった。
「呼吸音もキレイで軽症‼」
きっぱりいわれて安堵する。
〈私も軽症だって。ベッドは窓際。ほかに一人いる〉
隣部屋の母からメールで会話。
私はコップに注いだ水道水を飲みつつたずねた。
〈お水はどうする?〉
〈買って〉
夕食は午後六時だ。
鯖味噌と肉じゃがに白菜の和え物でご飯が多い。
添えられた名前入りのカードには
【一般食常菜】【ご飯180グラム】とある。
あっさりして美味しい。
ほっとして十分とかからず食べ終わる。
静か。
マスクをつけ、空のお膳を手に廊下に出るとしん。
配膳ワゴンはナースステーションの側にあり、ほとんど手をつけてない、お粥とスープのお膳があった。
ぴ、ぴ、ぴ。
病院ドラマで聞く音が。
「あのう」
午後七時の検温で看護師さんにたずねた。
「軽症から急変って多いですか?」
「多いですねー」
翌朝、体温は三十七度だった。
せき、鼻水はなく、だるい。
疲労ダウンと症状はおなじだが倦怠感はコロナが上で、あなごと鰻ぐらいの差があった。
〈ゆっくり休んで〉
コロナを知らせた人々からはこんな返信がきたが、耳鳴りとエアコンがうるさくて眠れない。
《朝の検温をはじめます。体温を計ってお待ちください》
検温と食事の時間になると放送がある。
私は体温を計り、チェックシートに記入してマスクをした。
「おはようございます」
看護師さんは制服の上から防護服を着ていた。白いヘアキャップとウエストで絞るガウンで不謹慎だがかわいい。
それは私たちから身を守るためなので、私は息がとばぬようにたずねた。
「アビガンはいらないですか?」
「ないですねー」
アビガン必要なし。
安心した私は母にメールした。
〈おはよう。体調はどう?〉
〈頭が痛くて、カロナールもらった〉
お昼前に先生の診察があった。
「なにか、ご質問はありますか?」
私は母のことやこの先の見通しなどをたずねた。
母は私とおなじく軽症で、目安は一瞬間から十日だという。
目安を外れたらどうなるかはいわなかった。
〈コロナ 経過〉
スマホでググると、苦しそうに咳をする若者と酸素マスクで横たわる老人のイラストがでてきた。
温泉地では満員のバスに揺られたし、イルミネーションでは美味しいお蕎麦屋さんに入った。
(お父さんを引き取らなければ)
私はベッドで何度も考えた。
(私立精神病院に電話して検査のことをきいていたら? レスパイトを最後までしていたら? 隣区の精神病院にお父さんをつれていっていたら? 最初からショートステイを頼んでいたら?)
答えはなく、欝々とスマホをながめた。
区のホームページによると令和三年二月の段階で区民の陽性者は約千人だ。
うち三人がわが家だ。
二十万人もいるのに。
(私、小説家になれないかも)
スマホが鳴った。
ケアマネさんからで、ショートステイに新しい陽性者はでておらず、デイサービスは父の世話をしたスタッフ二名が陽性で、よく父の隣にいた利用者は陰性だった。
「デイサービスは休業中で陽性者二人は自宅待機です」
ケアマネさんがいう。
タクシーの運転手さんもどうなったか。
私は電話を切って目を閉じた。
うるさくて寝苦しく、寝返りが多い。
「いたっ」
ベッドも狭い。
翌日、水が届いた。
配達は警備室が受けとりエレベーターで病棟に送り、病棟の看護師さんが宛名の人に届けるという。
「患者さん同士で分けるのは禁止ですけど」
いいつつ、看護師さんは私と母にペットボトルの水を十二本ずつ配ってくれた。
贅沢はもう一つあって入院着もレンタルした。
治療に専念するためだが、予想以上に暇なのと体調もだるいだけなので洗濯もできたと思う。
ランドリーは洗面所の脇で、乾燥までして一回三百円。
入院のときに渡される磁気カードで支払う。
レンタルだと入院着とバスタオルとフェイスタオルのセットで四百円だ。
私はLサイズで、初日に『足りなくなったらいってください』と四着ぐらい渡された。
予備に替えたらウエストがきつい。
もう一着もだ。
「ゴムが伸びているのがあるんです。下だけLLにしますか?」
看護師さんはLLのズボンを五本ぐらいもってきた。
「手が足りなくて」
ないのは病床ではなく人員らしい。
履き替えると胴はゆるいがズボンが長く、腰ひもをきっちり結ばないと裾を引きずる。それでトイレのたびに紐をきつく結び、ベッドでゆるめる羽目になった。
ダイエットの必要を思い知らされるのは別のときにして欲しかった。
食事は普通に美味しかった。
食事カードにはカロリーも載っていて計算すると一日およそ千八百カロリーだ。
回復には栄養と、食欲はないが毎回ほぼ完食していた。
主食は大抵ご飯でたまにパンもでた。
おかずは味が薄いので塩気と油分が欲しくなる。
『ばぐどなるどのほうが』
ハンバーガーとポテトは塩と脂ということで、私は父を許した。
今日の夕食は鶏肉のグリルで、ご飯にのせて丼にした。
美味しい。
寂しい。
あっという間だ。
洗面所で歯をみがいていると母が歯ブラシを手にやってきた。
「どう?」
「かわんない」
ちょっとした会話にほっとする。
消灯は午後九時。
十一時頃にとろとろしてきた。
いい気分で体が揺れているみたい。
「え?」
私はとび起きた。
(地震‼)と思う片隅で(どうせいつもの震度三)
(じゃないよ‼)
サンダルつっかけ隣の病室にとびこんだ。
「お母さんこっち、窓が割れたらあぶない!」
私は母をせきたて廊下へ出た。
ゆらーんゆらーんと揺れているのに人の気配がしない。
いやナースステーションの方で足音が。
《地震です。落ち着いて、安全な場所に移動してください》
放送が流れたが廊下にいるのは私と母だけだ。
トイレや歯みがきで見かけた人々は、パイプベッドで揺られているのだ。平気だと思っているのか、動く気がしないほど悪いのか。
病院の被害はなかったようで私たちも部屋にもどった。
落ちつかず、私ははじめてテレビをつけた。
結局スマホにしたが、年末に投稿した賞の一次審査の発表を思いだし、公式サイトに見にいった。
私の名前はなかった。
翌朝は三十六、二度だった。
だるい。
昨夜はベッドで泣きぬれた。
その賞には四作も投稿していて、どれかは二次にと期待していて母にも話した手前、この結果はつらすぎた。
(自信あったのに全部落ちたどうしよう才能ないもうだめだ)
落ちこんでいたし。
(なんで私を落とすのよ間違ってるわどうしてよ)
怒ってもいた。
偏見だけど、小説家は〈謙虚ないい人〉だけではつとまらないと思う。
小説とは、一人でポチポチ何万字もキーボードを叩いたり、もっとすごいと手で書くわけで、なにがしかの執念や欲望がなければ飽きると思う。
執念と欲望だけでも足りなくて、私はしゅんと朝食を食べた。
歯ブラシとコップを手に洗面所にいくと母がいた。
「お父さん、肺炎だってね」
(知りたくなかった)
母は姉から、姉は西部の精神病院からきいたという。
私は父の容態を誰にも聞かなかった。
脳梗塞以来、父の心配をしつづけたので入院中はごめんだった。
「もしもし」
部屋にもどると電話した。
姉によると、父は熱もなく苦しんでもいないという。
(ハッピーハイポキシアだ)
新型肺炎は低酸素状態でも呼吸が苦しくならないのが特徴で、海外では幸せな低酸素症〈happy hypoxia〉と呼ばれていた。
「お父さんは家にいたときから肺炎だったのかもね」
私はいい。
「入院したんだから、病院にまかせておけばいいの」
姉はくりかえした。
(それでいいのか)
私はやたらに自分の気持ちをのせてしまうが役に立ったことはない。
いつでも私を助けたのは自分や他人の〈行動〉で、思いやりすら言葉や笑顔の行動だった。
父を心配しても父も私もよくならない。
この苦しみは無駄なのだ。
私はすっきりして西の方角に祈った。
(お父さんがよくなりますように)
お昼は焼きそばでがっかりした。
初の麺類なのに食欲ゼロ。
すっきりしたのは一瞬で、午前中、悶々としていた。
だるいし暇なのに耳鳴りであまり眠れない。
テレビとスマホは飽きるしお金もかかり、不必要に出歩くのも禁止。
食事は貴重な娯楽なのに楽しむ気持ちが消えていた。
(気分の力は大きいなあ)
私は胡坐で焼きそばを咀嚼した。
だるいのでこの姿勢が楽なのだ。
夜は煮豆や焼き魚で醤油が欲しい。
(海苔と七味も)
ネットで買うほどの意欲はない。
主食も、看護師さんに頼めばパンや麺にできるようだが億劫だ。
してみると売店はちょうどいい。
ぷらっと歩いて商品をながめ、選んでお金を払うだけ。
出かけるというのは強力な消費行動だとあらためて思う。
入院七日目の朝、母にメールを送る。
〈お母さん、おはようございます
具合はどう? 私は体が楽になった〉
〈わたしも〉
母の返事にほっとした。
医師の診察は午前中で、スピーカー越しのききとりだ。
体調を答えるとこういわれた。
《退院はできそうですか?》
回復の証明のようで嬉しい。
母娘でコロナなので、もう少しよくなっておきたい。
私は壁のマイクに答えた。
「まだちょっと不安です」
隣の部屋では母が同じような会話をしていた。
私は家事をしたいほどには元気ではなく、スマホでネットスーパーや酸素濃度計をチェックした。
不思議なもので意識が未来に向いた途端、この状態がしんどくなった。
衣食住すべてが管理され、食べて寝てトイレにいくだけの生活はほとんどが税金だ。
〈コロナ〉は現在、国が全力を挙げてとりくむ〈大変〉で、そのぶん他の〈大変〉はあとまわしになっている。
母も父も割を食ったが父の感染が判明した途端、私たちは保護された。
魔法のようななめらかさは税金を納め、夜や休日まで働き、じっと我慢する人々で成り立っている。
私は彼らに守られていた。
ありがたいと思う。
だけど、私はそちらにいきたいのだ。
綺麗な道や公園の木々、夜の電話や立派な病院を支える側に。
小説で。
私はサイドテーブルのミニノートに手をのばした。
入院してから体温や食事、目に着いたことを書きこんでいた。
介護をしながら、これは使えると思っていた。
題名は。
(激動、介護)
私はこういう鬼なのだ。
「お世話になりました」
二日後、私と母は廊下で看護師さんに頭を下げた。
ダウンコートにななめ掛けのバックでキャスターバッグを引いてゆく。
ナースステーションの反対側にまわると、つきあたりに仮設の扉があった。
脇に消毒液をならべたテーブルがあり、防護服の看護師さんが私たちの手やバッグを消毒してくれた。
「お世話になりました」
壁の向こうはエレベーターホールだ。
正面と右手に廊下がのびていて、それぞれの廊下の両脇に病室とナースステーションらしき部屋がみえる。
入院中はなんとなく、コロナ病棟は五階全部だと思っていたが、実はこの階の三分の一なのだ。
私は不思議な気持ちでホールを歩き、エレベーターに乗りこんだ。
ちんと開くと世界にいた。
高い天井の広いロビーは人で一杯だ。
『手洗いうがいを気をつければ、普通に暮らしていいですよ』
退院にあたりPCR検査はなく、私は医師にいわれていた。
それでも人混みは気後れして、私たちは人をよけながら出口をめざした。ガラスの自動ドアが開き、ひんやりした空気に身をさらす。
いい天気だった。
タクシーで家に帰り、ざっと掃除機をかけて横になる。
ネットスーパーの食材で夕飯にして家の風呂に入り洗濯をした。
疲れたけどほっとした。
どこか興奮してもいて、寝たり起きたりしていたら午前一時になってしまった。
(もう寝ないと)
布団に入るとスマホが鳴った。
〈西部病院〉
画面の文字に理解した。
担当医は院長先生で父に私の声をきかせてくれるという。
「お父さん、大丈夫? 元気になって、また皆でモンブランを食べようね」
私はそんなことをいったと思う。
「待ってるから」
本当で嘘だ。
「ありがとうね」
たしかそうもいった。
「守ってくれてありがとう」
といえたかは覚えていない。
うーうーという返事らしき声がした。
母とも代わり、それから姉に電話してもらうよう院長に頼み、一晩中、父が死ぬのを待った。
翌日、午後二時をすぎても連絡はなく、私は母にいった。
「お花見にいかない?」
自転車で川を渡ると公園の河津桜は八分咲きで、遊具のほうから子供たちの声がする。
徹夜の頭に世界はまぶしく、夕食の支度をする気力はない。
「なにか買っていこうよ」
ショッピングセンターの総菜屋は行列でスーパーに入った。
「お寿司にしようか」
母がいい、私は悩んで一番安いパックを選んだ。
ショルダーバッグから音がした。
(そうか)
清算は母にまかせた。
電話は姉で泣いていた。
(お父さんが死んだ。お父さんが死んだ)
私も泣きながら自転車をこいだ。
空は青くてカゴにはお寿司が入っていた。
道路は空っぽで歩道をマスクの家族連れが歩いている。
こういう景色を、今も昔もいろんな人が見たのだろう。
二日後、火葬は西部の葬儀社によっておこなわれた。
私と母は家にいて、姉夫婦がお骨を引き取りにいってくれた。
父は通常営業の後で荼毘に付されたそうで、夕方姉たちが到着すると小部屋の祭壇に例の箱があったという。
葬儀はせず、納骨はコロナがおちついてからにした。
「暑くなる前にできたらいいよねえ。そうだ。お葬式がわりにリモートでモンブラン食べない? あそこのイタリアンローストといっしょに」
私はこたつで母に新しい〈スカイツリー〉を語った。
「腰がよくなってからね。肩も痛くてしょうがないのよ」
母は二月いっぱいパートを休んだ。
二人とも終始軽症だったが匂いは遠く、疲れやすい。
食欲はあった。
母は塩と脂に飢えていて昨日は刺身にトンカツだ。
「肺炎の人に洋食やケーキはないよね」
「だってパン焼くっていうから、なにしていいかわからなくて」
「ご飯も食べなくなったからパンならいいかなって。ハンバーガーも完食したし。あそこには負けたけど」
私たちは笑って泣いて食べた。
電話もした。
ケアマネさんによるとデイサービスは再開し、陽性だったスタッフも復帰したという。
デイサービスや騒がせたあちこちにお礼をいうと。
「もっとできたらよかったんですが」
などといわれ、〈壁〉や〈扉〉が人になった。
人は仕組み以上のことはできないし、するべきでもないのだろう。
でも私のようにへたくそな人間もいるので、失敗を想定した仕組みがあればいいなと思う。
介護ならオンラインで情報を共有して、介護者が手続きに追われないですむように。
と思ったら、すでに国はマイナンバーと健康保険を一本化する計画を進めていた。
マイナンバーに健康保険を紐づけするもので、今春から実施の予定が秋に延期になっていた。
将来的にはマイナンバーでいろいろなことができるのだろう。
私が考えることはすでに誰かが考えているのだ。
誕生日はしなかったが私は四十九歳になった。
暇になっても不眠は続き、鼻も利かないし息切れがするが、山ほどある手続きはもうすぐ終わる。
世帯主が死ぬと大変だ。
わが家の主は母になり、私は母の扶養に入った。
体力づくりに散歩もした。
染井吉野はもうすぐ開く。
私は橋のたもとで病院を指さした。
「信じられる? 二カ月前はあそこにいたんだよ」
父はお別れに帰宅したと思っている。
もうちょっと穏当にしてほしかったが、やりきった感はある。
ありすぎて思いだしたくない。
それで父の部屋も放っておいたが、天気のいい日に片付けをした。
シーツやカバーを洗濯し、いらなくなったものを大きなごみ袋に放りこむ。
ベッドの下でケーキ店の紙袋をみつけた。
私立精神病院の入院セットだ。
中身はレジ袋が二つで、五組の肌着と靴下だった。
コロナで持ち物は最小限となっていて、私は悩んでエコバッグではなく紙袋に入れた。
病院スタッフにわかりやすいよう、紙袋とレジ袋にマジックで父の名前を大きく書いた。
入院前日の夕方だった。
私は紙袋を破って捨てた。
押入れの衣装ケースの服もほうりこむ。
レジ袋の肌着は四組で、一組は父に着せていた。
そのときはもう肺炎になっていて私は怒鳴ってみじめにさせた。
新しい肌着も穴の空いたライトダウンも見知らぬ誰かが始末していた。
片付けが終わるとスマホが鳴った。
姉だった。
「お父さんの写真を額にして送ったから」
正直、まだ父の顔は見たくなかった。
届いた額は白いA5サイズで父は海を見ていた。
青いライトダウンに白っぽいハンチング帽をかぶり、手すりに寄りかかっている。
空が水色で海が青。
白い手すりが写真を斜めに貫いている。
いい写真だった。
『お前たちが無事なら、お父さんはどうだっていいんだから』
晩年、父はくりかえした。
人は変化の天才だ。
私は父にしたあらゆるヘマを傷にしないですんだ。
高い入院費に頭を悩ませることも、恐ろしい声に怯えることもない。
それを後ろめたく思わなくてもいい。
父は最後に私を守った。