激動介護~人生半分引きこもり~8
「ぶだれだ」
翌日、デイサービスに出かけるぞというタイミングで父がいった。
「叩かれたってこと?」
その通り。
父はふくれっ面でヤマザキという男性スタッフに頭をはたかれたと語った。
『お父さんは噓ばっかり。信じちゃだめ』
妻ならいうだろう。
母は仕事で、父の口癖は〈金輪際〉と〈一切〉だ。
私はデイサービスに電話をしてヤマザキ氏についてたずねた。
「ヤマザキ、ですか?」
ヤマザキ氏は存在しなかった。
私は事情を話し、女性スタッフは笑ってくれた。
「お父さん、いま電話したよ。ヤマザキさんはもういないって。乱暴だから首になっちゃったって。よかったねー」
そんな風にあしらった。
「お父さん、今日はどっちにする?」
父に道を選ばせ、帰って寝て、起きて姉に電話した。
「しょうがないの」
私たちは未来の話しをした。
介護タクシーやショートステイの予約、精神科の転院などで、いずれも未定だった。
「とにかく精神科に診てもらわないとね」
姉がいう。
そうしないと追い出される可能性があるらしい。
依然、ショートステイから連絡はなかったが、問い合わせはできずにいた。
父の退院以来、あらゆるところに泣きついては親切に断られ、おっくうになっていた。
レスパイト入院は最長二週間と決まっていて、ショートステイの部屋も空けば来月は父を帰宅させないでいけるはずだ。
月が替わればサービス費が支給され、父は三月もショートにステイができる。つまり、二ヶ月で老健に入所できればよかった。
「いけると思いますよ」
ケアマネさんが電話をくれた。
朝一に老健と話したそうで電話番号を教わる。電話をすると不穏状態の人のベッドは少ないが、まずは面接といわれて来週の月曜日に約束をした。
「今日はどうだった」
「よがっだ」
「お弁当は美味しかった?」
「おいじかった」
私は気づかないふりをした。
そのくせ父に出来ることをしなければと燃えていた。
「今日はお刺身にしない? 施設だと生ものは難しいかもしれないから」
私はパートと買い物帰りの母にいった。
「もう、お肉買っちゃったわよ。それより減額の手続きはどうするの?」
「後でやるって」
私は疲れていて興奮してもいた。
父が家にいると寝ていても緊張していたし、大声を上げられると離れていても呼吸が速くなった。
「あやぐ‼ あやぐ‼ あやぐ‼ あやぐ‼」
オムツ替えでは耳元で喚かれ頭がぎゅっと締まるよう。
それでも私にしては辛抱強く接していたが、夜のオムツ替えでとうとう怒鳴った。
「やってるでしょう‼ 私はちゃんとやってるの‼ オムツ替えてコーヒー淹れて、毎日ちゃんとやってるでしょう‼」
まずいと思っているのに止まらない。
「私は、ちゃんとやってるの‼」
吐きだすと冷めた。
「ごめん」
父はぼんやりしてしまい、私も虚ろになった。
「あやぐしてよ‼」
父はしばらくすると復活し、私はコーヒーを淹れた。でも料理番組を隣でみる気力はなかった。
「ぼら、ずごいよ‼ きれいだよ‼」
父がパイの飾り切りを指さす。
私は入院の支度と手配、補助の申請があった。
髪は梳かしてないし目は死んでる。
海外の料理番組もドラマも、去年父のために録ったもので、ワンシーズンあるので録画枠が一杯だし、新しい部屋着も肌着も買ってきた。
「ごめんね」
理不尽だ。
疲れ切った私はひらめいた。
(お洒落をして綺麗な姿で見送ろう‼)
雑巾みたいな娘と別れるより、小ぎれいなほうがいいはずだ。
興奮してふりかえると父が車椅子でぼんやりテレビを見ていた。
『一つだけ後悔しているのは、お前たちが小さいときに手をつながなかったこと。なんで、あんな、簡単なことをしなかったのか』
まったく私たちは親子だった。
『なんとかならないか』
父はいつも家族会議でつぶやいた。
『なんとかってなによ‼』
母はいつも問い詰めた。
借金返済の王道は
〈弁護士に依頼〉
〈借金を減額、整理〉
〈少しずつ返す〉
で、父は経験が豊富だが、自分からそうしてくれと頼むことはなかった。
父は母の貯金をあてにしていた。
母は少ない稼ぎをせっせと貯めていて、父ははっきりいわないことで、〈しょうがない〉と〈貯金〉を引き出そうとしていた。
父はそのやり方を日常でも採用し、私と母を怒らせた。
父が被害者になって、こちらを操ろうとするたびに、父が自分だけ助かろうとしたことを思いだした。
父が変わったのはここ何年かのことだ。
仕事を辞め、足腰も悪くなり、世界が狭くなって残されたものに気づいたと想像する。
『それまでは、ぼんやり楽しかったな』
引っ越し前の夜のおしゃべりで父はいった。
(お父さんは発達障害かもしれぬ。私も)
私と父のへたくそさは病気としか思えなかった。
父はよく、アパートの外で歩行器に座って道行く人をながめたそうだ。
リハビリのお迎え時間は学校の登校と重なるので、子供たちをみられるのが嬉しいとも。その流れであの発言になった。
(いやいや手よりお金でしょ。借金借金‼)
私は頑張ってこらえた。
『ほんとだよねー』
姉に話すと呆れていた。
ろくでもない自分と付き合うのは骨が折れる。
私は自分を、父は家族を愛することで日々の負担を和らげようとしたのだろう。
だけど綺麗な後悔は胸にとどめるべきだと思う。
自分だけ気持ちよくなっているとばれるから。
私も〈化粧〉はやめて〈笑顔〉にした。
「お父さん、マキシム飲む?」
「お父さん、おはよー」
翌日、少し眠れた私は父の散髪をした。
バリカンは自分に使っているので慣れていたが、髭剃りは初めてで手こずった。父ははじめ満足そうだったが、手際の悪さに不機嫌になった。
「疲れちゃったか、ごめんね」
私は詫びた。
「そんなに気を使わなくていいのよ」
出勤前の母がいった。
私が父にふりまわされるのが辛いようだ。
「お父さんは、娘にまで苦労させて」
「まあ、もう少しだから頑張ろうよ」
しかし区役所は果てしなく遠く、私は包括センターに電話した。
地域包括支援センターは地域の高齢者の相談支援窓口で、職員の一人は〈担当者会議〉でわが家にきたこともある。
ケアプランが新しくなったり、介護認定が変わるときに行う会議で、ケアマネージャー、地域包括支援センターの職員、デイケアのスタッフ、福祉用具会社の担当者などがわが家に集い、父の体調をききとり、ケアプランを話し合った。
病院のカンファレンスでも思ったが、素人と会議をしようと考えた人は頭が良すぎると思う。
そうした人は赤の他人複数を前にメモをとり「よくわからないのですが」と疑問点を全部潰して正しい結論を導きだすのだろう。
私は大汗をかき、お腹をゴロゴロさせてトイレにいきたいとうわの空だ。
なにを説明されても『じゃあそれで』になり、借りた道具の変更も億劫になった。
事実、父が姉の家にいる間、電動バイクは返さなかった。
借り直すとまた会議が要るときいたからで、レンタル料一万円以上を無駄にした。
父が三カ月ぐらいで戻ると思った私の見込みが大甘なだけだけど。
このように、考えが足りない人間に複数名が説明しても右から左なのだ。彼らの時間を無駄にしないためにも、偉い人には心からお願いがあります。
お役所の手続は一括にしてください。
自宅介護が決まった時点でやることリストをください。
失敗する想定でサービスを紹介して
『ショートステイがないと死にますよ』
『認知症は夜勤ですよ』
『使用済みオムツはクソ重いですよ』
『下関連は一番楽な〈大変〉ですよ』
『親を捨てる罪悪感はきついですよ。だから家族で腹を割って話し合いましょう』
と教えてほしい。
要介護3以上は特養と老健のリストに有無をいわせずのせて。
病状をあまさず記録して、病院とケアマネと福祉用具屋と包括センターと区役所の福祉課と訪問診療とデイサービスとショートステイで共有し、電話のききとりだけでサービスを使わせてください。
家族の病状がだだ漏れでも、即助けてくれるならかまわないと思う人だけでいい。
バスに乗ってトイレに寄っただけなのに〈スカイツリーはいかがでしたか?〉ときいてくるスマホのように容赦なくつながってほしい。
でないと介護人だけでなく、現場の方々も苦労する。
そのようなことを、包括センターの職員さんに感情豊かに説明した。
「ショートステイは、もう少し、強く、勧めるべきでしたね……」
職員さんはいった。
午後、職員さんは減額認定証の書類を手にわが家をおとずれた。
「申請は、こちらの書類に記入して、通帳のコピーを区役所に提出すればいいです」
「父の通帳をコピーするんですか?」
「そうです。コピーでいいです」
「私が、もってゆく?」
「いえ、私が。依頼書がいるかどうか、ちょっとわかりませんが、それも調べて、必要なら」
やりますよ。
と語尾を濁した。
(よかったー)
「なんかすみません。これどうぞ」
私は豆乳のミニパックを手渡した。
「これはどうも。それでは明後日、書類を持っていきますので」
手続きは片付き、私は公園を歩いた。
「寒くない?」
「だい」
夕食はお刺身と煮物だ。
「もっど」
以前は興味なかったのに、父は退院してから炊き立てご飯を喜んだ。私はにこにこしながら一口ずつ熱いご飯をよそった。
「デザートはモンブランだよー」
ケーキ屋に買いにゆく暇はないのでコンビニで買った。
「おいじい」
満足そうに食べる父は、くすんだ顔色で声が枯れている。
(病院で治療してもらえる。家にいるよりいい)
現実逃避は大の得意だ。
「あのね、お父さんは明日、入院するの」
迷って、寝る時間に話した。
施設に入ってもらおうと思う。
ともいった。
それから姉に電話して、父とビデオ電話で話してもらった。私も姉も泣いていて母も鼻をすすっていた。父はぼんやりしていた。
「大丈夫。大丈夫」
私は夜中、掛け布団をなでた。
「大丈夫。大丈夫」
「さあいこう」
翌朝の九時、三人で家をでた。
介護タクシーは道路に待っていて、十五分ほどで到着した。
受付は母がする。
「ばだ?」
父はもう焦れていた。
抗体検査では大人しく、結果待ちの一時間はひどかった。
「ばだなの⁉ きいでごいよ‼」
待機所はエレベーターホールの脇で、父はおかまいなしに声をあげた。
すぐ側がなにかの検査室で、検査を受ける人々がエレベーターで登場しては帰ってゆき、順番をとばされたと思ったらしい。
「あれは別の検査の人」
「私たちはまだまだよ」
なだめるとはじめのうちは通じたが二十分もするとお手上げで、私は車椅子を押して人気のない廊下をいったりきたりした。
それもすぐに飽きてしまい、父は大きな声で私に命じた。
「あやぐしろよ‼ あやぐ‼ きいでごいよ‼」
「わかった、ちょっと待ってて」
医師にきいてくるふりをして廊下に消えたり、車椅子ごと一階にもどり、またエレベーターで上がってきたりもした。検査の人と病院関係者の見世物になったことで私の感傷は消えた。
「お風呂とトイレもついてるよー」
病室は角部屋だった。
大きな窓が二面にありサンルームのようだ。
病棟の医師にはこれまでと同じように父の薬をお願いし、精神科の受診も相談した。
「では高齢者医療センターの予約をとりましょうか?」
はじめて聞いたが、そこは認知症の総合センターらしかった。
(どんどん大事になるなあ)
思いながら、お願いした。
その後は相談員の方と話し合い、書類に記入した。
「あのう、できれば大部屋か安い個室に移りたいんですが」
「不穏状態とお聞きしていますので、まず個室で様子を見て、大丈夫なようなら大部屋になります」
うるさいから預けるのに大部屋を頼むなどずうずうしいと思うが、あのときはお金の心配ばかりしていた。
部屋にもどると父は入院着でベッドにいた。
「がえろうよ」
心細そうにいわれて涙がうかんだ。
「お父さんは病気だから、ここでよくならないと」
いまでも正解がわからない。
そこへスタッフさんが昼食のお粥を持ってきた。
「お父さん、もういくわね」
母がいい、私も手を振った。
「お父さん、じゃあね」
病院を出ると空が広かった。
駅まで歩く体が軽い。
家の静かさに驚いた。
生きてる。
夜はゆっくり眠れた。
翌日、包括センターからは電話もなかった。
「まあいいわ。区役所と病院にいってくる」
私は一晩でサイクリング気分になっていて、のんびりお昼ご飯を食べながら母にいった。
完全休暇のつもりで入院着などはレンタルしていたが、看護師さんから靴下があるといいといわれていた。
私はいまのうちに布団も洗っておこうと考えた。
冷蔵庫のチラシの出番だ。
お役所なので書類や身分証が要るかもしれぬので、まず高齢者福祉課に電話した。
「それは一月まででして」
洗濯サービスは終了していた。
(ならチラシに書いてくれ)
乾燥だけならできるらしいが遠慮した。
私は靴下をかごに入れ、自転車で区役所に向かった。
「お母様のコピーも必要ですね」
(またか)
介護保険課の窓口で自分を呪った。
減額の条件が、夫婦で預貯金二千万円以内なら母の分もそりゃいるのだ。
お布団のついでにきけばよかった。
ほっとしたことに郵送でいいという。
「あと昨日、父が入院したのですが、個室料が高額で、なにか、補助が、あったらなーと」
年を取るメリットは図々しくなれることだ。
「二階の国保年金課で相談してください」
窓口をはしごする体力はなかった。
レスパイト病院は総合病院で、母は二十五年ほど前に子宮筋腫の手術を、私も数年前に乳がん検診をうけていた。
父が入院したのは地域包括ケア病棟で、公式ホームページによると、レスパイトや回復期で自宅療養が難しい患者用の病棟だった。
「面会は三十分以内でお願いします」
受付で注意をうけてエレベーターに。
開いた途端声がした。
「おか―――さん⁉ おか―――さん⁉」
(うわあ)
エレベーターホールの前はナースステーションで、父の病室へはぐるっと廊下をまわるというのに響いていた。
「おか―――さん⁉ おか―――さん⁉」
ちょっとティッシュもってきてー。
みたいな声で私は帰りたくなった。
廊下を進むと父は車椅子で戸口にいた。
「おかあさんは?」
なんか腹立つ。
父は足で漕いできたらしい。
「わかったから、なか入って」
私は父を高価な個室にもどした。
部屋はカーテンが引かれ、壁に裸のマットレスが立てかけてある。
長椅子の上にはおなじみの染みつき洗濯物のビニール袋があり、父が普通の様子でいった。
「おかあさんは? もう帰りたいんだけど」
「休んでる。仕事終わると疲れちゃうから」
私は背を向け、靴下袋をベッドテーブルに置いた。
父は明るい、すっきりした顔をしていた。
昨日までの赤黒い肌や目の座った様子はどこにもない。
しかし股間はベビーカーのようにベルトで留められていた。
(うわあ)
「コーヒー飲む?」
私は途中で買ったコーヒーのボトルをみせた。
父は病室を嫌がり、私たちは待合スペースにいった。
腰が痛いというのでベルトをほどいて一度立たせ、コーヒーを飲ませる。
薬の時間で看護師さんがやってきた。
父の様子をきくと、やはり落ちつかず母を呼んでいたという。
「うるさいですよね。すみません」
「ご家族はほんとうに厳しいでしょうね。私たちも力になりたいと思っていますが」
看護師さんは、病室は回復期のコロナ患者で一杯だと語った。
「コロナの患者さんがいるんですか?」
正直驚いた。
このときは知らなかったが、区はコロナの前線病院の負担を減らすため、回復期の患者を区内の病院に転院させていた。
症状は落ちついたけど体力がない患者たちで、多くが老人だという。
コロナウイルスの感染力は、発症から一週間から十日でなくなると考えられていたが、引き受ける病院には一千万円の補助金がおりた。
看護師さんは窓の外を見渡した。
「この辺りの病院は、どこも引き受けているので忙しいと思います」
『コロナじゃなかったらね』
私は心配していたわりに無事なので、あまり考えないようにしていたがこうして影響を受けていた。
目の前には前線の銃後を守る兵士がいて、私は背をのばしつつ、お安い部屋への変更をお願いした。
「空きがでたらになりますね」
「ねえ」
さっきから、立ち話の私のバッグを父が引っぱっていた。
「ねえ、帰ろうよ」
子供のようだ。「そういわないで」いいかけて気がついた。
「お父さん、治ってる‼」
父の言葉はもどっていた。
興奮しているのは私だけで、父は不思議そうだし看護師さんは気にしてない。
(そういうものか)
私は父を病室に送った。
「写真撮っていい? お母さんとお姉ちゃんにみせるから」
血色のいい顔をスマホにおさめ、ぎこちなく微笑んだ。
「じゃあ、また来るね」
(くるんじゃなかった)
重たい足でペダルを漕いだ。
衣食足りて礼節を知るというけれど、そこそこ元気になると常識が主張してきて苦しくなる。
私はスカイツリーを目指しながら、脳内会話で出口を探した。
(介護をしたくない。だって働く時間がなくなるもの)
でも私は十年以上無職じゃない。
(だから働こうとしている。耳鳴りで難しいけど、いずれはちゃんとしたい)
介護はちゃんとしてないの?
(親を大事にするのは素晴らしい。でもそれで子供が困るのは自然の法則に反すると思う。なんか大げさだけど、〈正しい選択〉とは、まず自分が生きられるかだと思う)
私は親のお金で生きてるけど。
(お父さんは倒産確実の零細企業で就職は賢明ではない)
金持ちならいいわけ?
(いい。将来が保障されているなら、介護でも無職でも好きにすればいい)
介護はしたくないんだって。
(してる場合じゃない。わが家は先細りなんだから、私がはやく稼がないと)
でも体調が。
そこではっとした。
まともに眠れないのに介護なんてできるわけない‼
青空が、世界はいきなり輝いた。
(ごめん、お父さん‼ 私、介護しない‼)
必要は発明の母だ。
私は理由をひねりだし、晴れ晴れと帰宅した。
家は静かで母は横になっていた。
私はこたつで首尾を語った。
「エレベーターが開いた途端に『おか―さん‼』だよ」
(私を大事に思ってくれる人を失くしてしまった)
そういうことは話せなかった。
(私とお父さんはお母さんに寄りかかりすぎだ。もういいかげん独立しないと)
などと思っていた。
(お父さんは施設、私は仕事でお母さんの負担を減らす)
理論武装は完璧だ。
この三十年、さまざまな病院や民間療法に通ったが、効かないか門前払いだった。
『あなたは治らないと思います』
初診料二万円の病院でとどめを刺された。
受付が、私の問診票を鼻で笑うような病院で合わせてショックを受けた。
それでも手ぶらで帰れないと大学病院のしおりをもらい、翌日捨てた。
耳鳴りがなかったら私はまだ家にいただろう。
毒を毒で制した感じで外に出て、お腹と汗も多少ましになったが疲れるとひどいことになる。ときどき筋トレをはじめても不眠でなし崩しになっていた。
(耳鳴りがなあ)
私はとても元気な病人で、父を介護している場合じゃなかった。
(とにかく眠らないと。もう少し体力をつけて、働く)
なじみの場所に着地した。
〈私は私の問題に対処する〉
〈介護は家族で考える〉
整理がついてさっぱりしたが、そもそもの父が丸投げで生きてきた。
『マグロ船に乗って借金を返す』
『米軍基地で一日二万円で死体を洗う』
私が子供の頃、父は母に新しい仕事の相談をした。
船は家に給料が入らず、姑と子供と残される母が反対し、基地は父が断ったようだ。
タクシーを運転しながら死者を清め、借金を返す根性は父になく、家は売られて年金も手放しかけた。
母に子供と帰れる実家はなく、借金返済後の少ない給料でもないよりましと父を守った。
「お父さんも幸せだよね。子育てに貢献するどころか邪魔ばかりしておいて、ちゃっかり私たちに心配されている。お母さんの担当者は三人で、私はゼロだよ」
私は母にぼやいた。
「そう。お父さんはこんなにしてもらう権利ないの。野垂れ死にしてもおかしくない人なんだから、あんたもあんまり心配しないの」
母は『おがーさん』にほとほとまいっていた。
長年、十三歳も年上の夫にしがみつかれて最後にこれで、娘まで泣かせているのが我慢ならないようだった。
そういう母に、最新の『おかーさん』を伝えた私はデリカシーの欠片もなかったが、自分には別で、病院の父を母や姉と共有した。
「言葉も治ったし、やっぱり病院がいいんだよ!」
私はしゃべりつづけた。
「お父さんは施設に入れるんでしょう? もういいのよ」
母が布団から起きあがった。
「なんで私が入れてるの?」
私の中でなにかが溢れた。
『そしたらなにかの答えがでるよ』
『私もお父さんもなにかしら納得すると思う』
『だめなら自然とわかるでしょ』
私は母や姉、父が答えをくれるのを待っていた。
『大変だと思うな』では足りない。
『施設も考えた方がいい』がほしかった。
それには私の仕事がいるので彼らはいえなかったのだろう。
私の無職は家族を縛り、私は潰れそうになっていた。
「お父さんは夫でしょう? 自分で選んだ人でしょう? 疲れてるのは知ってるよ! だから私が介護したんじゃない! でも私に決めさせるのはひどいでしょ⁉ 夫でしょ! 家族でしょ! 親なんだから、そこはやってよ! 命令してくれたら、やるから!
なんで、私が、お父さんを捨ててるの‼」
『最近のお父さんはいい感じ。これくらいなら楽なんだけど』
十年前、母はいった。
中学卒業と同時に上京して就職し、七十過ぎても働いていた。
ここ数年は仕事から帰るとこたつで横になるようになり、腰椎骨折で布団になった。
夫は定期的にやらかすし、娘はいつでも家にいて自分の意見を押しつける。
母は疲れはて、なにかを決めたり断ったりする気力をなくした。
母や姉のような人は感情より行動で、施設を決めたのが私だとか、そんなことは気にしていないのだろう。
でもいいだしっぺの私は質素なお粥の昼食や車椅子のベルトにまいってしまった。
あれは父より私を守るもので拒否権はないように思える。
まともに生きていたら『帰ろうよ』に対処できるのだろうか。
『わかった。お父さんは施設に入れるから、手続きをしてくれる?』
爆発の後、母はいい、私は寝込んだ。
いつもの疲労ダウンで月曜日には復調したが、万一のことを考えて老健の面接は断った。
電話はぱたりと静まった。
ショートステイに認知症センターの予約、精神科の入院、安い個室など、人様に頼んだ結果はなしのつぶてで私の気力も萎えていた。
「老健にいってきた」
姉は地元の老健で担当者と話したという。
入所には、父の健康診断と認知症の薬に、同居家族の体温の記録が必要で、費用は月に二十一万円。
「最初は個室で様子をみるからで、大部屋に移れたら安くなる」
面談の感触がよかったらしく姉の声ははずんでいた。
私も興奮しながら枯れ葉の道を懐かしんだ。
老健の入所会議は月一で、次の会議までに申し込めば検討対象になるという。私は気になることをたずねた。
「そっちの老健から、こっちの特養って入れるの?」
「東京には返さない」
姉はきっぱりいった。
「特養に入っても通院やなんだで忙しいから、悪いけど無理だと思うんだ。私も二人を心配してるより、自分のペースでやるほうが楽だし。お父さんは私がみるよ」
姉も次のステージへ進んだ。
申しわけないとかは嘘っぽく、私はぼんやりやりすごした。
介護保険の利用者が入院や介護施設へ入所する場合、先方へ、ケアマネージャーの情報提供が必要だ。
私はケアマネさんに連絡し、他県の老健の担当者への電話と申込書の記入を頼んだ。
申込書は姉がわが家に郵送する。
ショートステイにも電話をすると予約は三十日からとれていた。
購入したポータブルトイレもやってきた。
訪問診療所に頼んだ精神病院は未定。
レスパイト病院の高齢者医療センター受診は四月といわれてあきらめた。
安い個室は空きがなく私は姉に電話した。
「そういうわけで、三十日からショートステイに移ることにした。もう、お父さんは家に帰さない」
姉によると、老健には医師が常駐していて、入所中に精神科の受診は難しいが処方箋があれば薬をだしてくれるという。
入所の条件は三つだ。
〈父の健康診断〉
〈精神科の受診〉
〈家族の検温〉
私は姉に請け負った。
「健康診断と精神科の受診はまかせて」
あてはなかった。
健康診断は、レスパイト病院は無理そうで訪問診療は〈訪問〉なので自宅にいないと診てもらえないという。
医療と福祉は複雑だ。
私はグーグルマップで近所の精神科を探し、とある内科の医院に目をとめた。
院長は脳卒中や認知症が専門で、脳神経内科や物忘れ外来があった。
「近いし、ここでよくない?」
姉に相談してから内科医院に電話で事情を話した。
予約制ではないので診察はいつでもいいが、かかりつけ医の紹介状が欲しいといわれる。
混んでいれば待つがすぐいけるのはいい。
レスパイト病院を退院し、その足で内科医院を受診してショートステイに入所なら、日を分けるより介護タクシー代も安くすむ。
私は訪問診療に紹介状を頼み、レスパイト病院の相談員さんに退院の連絡と、ついでに退院当日の受診も伝えた。
「それは困ります」
相談員さんはきっぱりいった。
理由はいわなかったが退院当日に別の病院にかかるのはまずいらしい。
保険はほんとに複雑だ。
しかしこちらも入院費を考えると介護タクシーを二回たのむのは避けたい。姉の相談するとこういわれた。
「私たちが連れていくよ。仕事の休みにいくから二月になると思う」
「でも大変だよ。入院するときだってすっごく騒いで」
「診察が必要なら連れていくだけ。お義父さんだってレビー小体の専門病院に連れていったもの」
〈普通〉の人はこうやって生きるのだなあと思った。
「それで治ったの?」
「なんにも効かなかった」