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1985年の沖縄

1985年の沖縄
実は沖縄に初めて来たのは、日航ジャンボ機墜落事故の直後だったから1985年。昭和60年。ビートたけしのフライデー事件より前、3歳の頃だ。
500人以上が亡くなった大事故直後だったから、乗客も異常な緊張感だったと後に親に聞かされた。
それから父がいわゆる「沖縄病」に罹患したんだと思う。
毎年、夏は沖縄で過ごした。とくに八重山などの離島が中心だった。
父親がより美しい海を探す旅をしていて、それに家族で付き添っていると子供の頃は解釈していた。
もっとも美しかった記憶があるのは与那国島のウブドゥマイ浜だったと思う。今はもう遊泳禁止らしい。
滞在は夏休み1ヶ月以上に渡ったり、おぼろげだけれど、妹とふたりだけで与那国島のバイク屋さんに預けられた記憶もある。
内地では有名じゃなかった頃のりんけんバンドのライブを久米島のお祭りで見て、めちゃくちゃ好きになってテープを買って、東京でずっと聞いたり、石垣島の具志堅用高記念館の受付には具志堅さんの実のお父さんが座っていて驚いたこともある。黒島では新月の夜、何千匹ものオカヤドカリの産卵?に出くわしたこともあった。

まだ離島に行くとほぼNHKしか映らなかったし、
那覇でも頭の上に器用に洗濯カゴを乗せたおばあ様たちが歩いていた。
平和の礎もモノレールもなく、まだ首里城も観光地じゃなかった。
ガマ、いわゆる防空壕がわりになった洞窟には人骨があった。
那覇新都心は返還前だったし、
読谷には象の檻と言われる巨大な米軍施設があった。
うちの家族は、そういうものの存在に「申し訳なさ」を抱いていた気がした。

本土の人間としての「罪悪感」を子どもながらに感じていた。
「ポジショナリティ」それを概念として知ったのは、大人になってからだったけど、ぼんやりとした「罪悪感」は、すでに子どもの頃から肌で感じていたように思う。

もちろん年に一度の家族旅行を最大限に楽しむのだけれど、美しい海と空と文化を消費するだけの姿勢は、不誠実なのだと物心ついた頃には気づいていた。この島々の明るいところだけを消費して、ディズニーランドみたいに扱う人々の存在が嫌だった。
御嶽に鳥居を建てられ信仰を奪われ、方言札をかけられ言葉を奪われたこと。アメリカが爆弾の雨を降らせたこと、土地を奪ったままだということ。集団自決(集団強制死)では天皇の名の下に日本の軍人が赤ん坊まで殺したこと。
それ以前に琉球が独立した王国だったこと、貿易で栄えたこと、薩摩が侵攻したこと。反面、宮古、八重山などの離島には重い税を強いたこと、子どもながらに自然に受け止めていた。
まだ、人頭税石より小さい頃、それと背を比べる大袈裟少年の写真が実家にある。
沖縄島と八重山などの他の島々を一緒くたにしてはいけないことも、
子ども心に察していた。
釣りをしている琉大生のお兄さん達に遊んでもらって、ちょと前までドルだったんだよーと教えてもらったこともあった。
政治的なこととしてではなく、ごく当然の事実として、それらは少年期の心に刻まれていた。

小学校に上がっても、毎年夏を沖縄で過ごす日々は続いた。
夏休みの自由研究は毎年、沖縄の研究というか旅行記だった。
想えばそれは今やっていることとあまり変わらない。
ずっと沖縄が大好きな東京の子どもだった。
テレビで沖縄の話が出ると、自分のことのように興奮した。
安室ちゃんがデビューした時も、自分の親戚がデビューしたような気持ちになって応援した。
1995年の米兵による少女暴行事件の時も沖縄にいた。
ハチマキをまいて県民集会に集まる涙目の人々の姿をテレビ中継で見た。
あの暴行された少女は僕と同じ歳の小学生だった。
加害者が地位協定で裁かれないことをその時、知った。
あの頃感じた激しい罪悪感は今も変わらない。
心の奥に、ずっと悔しく、炎のように燃えている。
もしかしたら、今の自分の原動力かもしれない。

言うまでもなく、あの事件が、いわゆる「普天間基地の辺野古移設」
辺野古新基地建設の発端になっているのだ。
自分が巡り巡って今、沖縄にいるのは偶然のようで必然かもしれない。

深層心理に燃える炎が僕にそう決定させたのかもしれない。

幼少期の夏を過ごしただけで、第二の故郷というのは軽率かもしれないし、
(東京郊外育ちの僕にはそもそも故郷と呼べる場所がないのだ)
「ポジショナリティ」を「罪悪感」と言い換えることは間違いかもしれないけれど、
2016年に高江の森を自転車で駆け抜けた時に感じた匂いは、
子どもの頃に家族で感じた匂いと似ていて、とても懐かしかった。

自分を育んでくれたこの島々が、これ以上、壊されないでほしい。
変わっていくのはしかたがないことかもしれないけど、
この島々に暮らす人々の想い通りの姿であってほしい。
内地の人間だからこそ、そして、自分のアイデンティティに沖縄が大きく影響している一風変わった生育環境の人間だからこそ、
強くそう思う。

僕が沖縄の自己決定権のために加担するのは、自然の流れだと再確認した、
政治的であり、同時にすごく個人的なことなんだ。

※出版社の人に子どもの頃のことを書いてくれと言われて、結局沖縄のことばかり、自分と沖縄の3歳からの関係を思い出しました。
通信1746


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