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卒業・できごと・手紙
卒業した。6年間の時を過ごした学校を。もうこの学校には、僕のために設けられた席はない。なのに僕は、なお毎日のように学校に通い続けている。どの教室の、どの部屋の、どの椅子に座ったって、あいまいな浮遊感を抱いたままでいるしかない。だから僕は、廊下の壁の隅っこにバッグを放り出したまま、当て所なく校内をフラフラし続けてばかりだ。(数週間前まではこんなにフラフラしていたことはあっただろうか)
僕は、思えばここ1年間、“青春”というよくわかんない存在が嫌だった。理由は、自分の中で明確だ。去年の3月頃から6月にかけての休校期間の時間が、2ヶ月の空白が惜しくなってしまうからだった。去年や数年前の煌びやかで楽しかった日々と、今年を比較して、憂鬱になってしまうから。もっとよくできたんじゃないか、という思いが無数に生まれてきてしまう。
日々の≪できごと≫は、過ぎ去っていく毎日を、それぞれ違った存在にさせる。(≪できごと≫とは、会話だとか、イベントとか。くっきりと過ごした時間?)だけど≪できごと≫は、いろんなきっかけが重なり、“僕”と“僕じゃない誰か”が関わった時に起こる、磁場のようなものであることに気づいた。≪できごと≫が起こるには、かなりのカロリーが必要だ。「他の人はみんな楽しそうだから」と、まるでなにかから追い立てられるように、他人や≪できごと≫に関わるのが嫌で、しょうがなかった。しかし僕は、今年も、数え切れないほど多くの人と関わったし、毎日起こるいろんな≪できごと≫の担い手に、なんだかんだ自然と、なることができたようだった。なんなら、高校三年生の1年間が、中高6年間の中で一番楽しかったかもしれない。
数週間前の卒業式のあと、僕はたくさんの人から声をかけられたり、手紙をもらったりした。僕は、今、合計12通ほどもらった手紙を抱えながら、中学校を卒業した三年前の僕自身を思い出す。僕の通った学校は、中高一貫校だった。
あの時の僕も、たくさんの手紙をもらって、喜んでいた。特に、大好きでしかたなかった先輩たちからもらった手紙は、何度も繰り返し読んでいた。「るかのおかげで…」「信頼してた」「これから辛いこといっぱいあると思うけど…」。手紙をもらって、すぐに読んで染みてくる言葉もあれば、数年越しでじわじわと伝わってくる言葉もある。
僕が一番部活で憧れていたF先輩からの手紙には、僕との思い出話がそっけなく書いてあって、その頃僕が好きだった子の名前と共に、追記もされていた。「○○ちゃんゲットだぜ!」、と。そういえば、そういう先輩だった。いつも雑ないじり方をしてきて、酒ばっかり飲んで、女癖も悪かった。手紙にはやっぱり、書いた人の匂いが染みつく。でも、部活では誰よりもかっこいい踊りをしていて、色んな人と関わっていて、何気に後輩想いで、僕は「こんな人になりたい/なりたくない」という矛盾した憧れ方をしていた。中高6年間、僕は、F先輩に対する幻想(この人みたくならなくちゃいけないのでは、みたいな)に取り憑かれていた気もするが、高校三年生になってやっと取り払うことができたような気がする。
手紙をもらってしばらく経ち、なにもできない気がしてしょうがない日、とにかく辛い日に、この手紙たちを読んで、僕は生き延びていた。手紙を書いた本人と直接会っているわけではないけど、手紙の言葉を介して、その人からそっと肩に手を置かれた気持ちになった。字の輪郭を見、意味を読み取り、言葉を噛み締めることで、僕と関わってくれた人の体温を感じ取っていた。その時、僕は僕自身の体温をも確認している。その度に、「これで、いいのかな?」という言葉が、ふわりとした涙と共に、頭の中で反響した。
そして、今、僕の手元にある手紙もそういう存在になるのだと改めて思う。ここ最近は、手紙にすがりたくなるほど辛い日が特に無い。けど、実際、もらった手紙の全部を読み通して、「るかのおかげで」「るかはすごい」という言葉に触れるたびに、あたたかい心地がした。僕は、毎日、いろんな人から声をかけられることで生きられていたし、誰かに声をかけることで生きようと思えたのだった。
そういえば僕も、何人かの人たちに手紙を書いて渡したのだった。誰かが、僕の書いた手紙や言葉を読んで、僕自身が経験したように、肩にそっと手を置かれた気持ちになるようなことはあるんだろうか。
いつの日かくるどん底の日に、涙が溢れてしょうがない日に、僕らによりそってくれる手紙たち。直接発語され、僕に投げかけられた無数の言葉たち。視線。肌。音。光。影。
どんなに小さい、どんなに間接的な、微粒子のような関わりも、抱きしめながら今日という日を明かしたい。そして、両手で掴んだ櫓で、これからを漕ぎ続けたい。ひとときは誰かに漕いでもらう時があろうとも、後に残した水脈だけは見失わないようにしたいと、思う。そのときはすぐにでも、自分自身で漕げるように。
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