短編小説:「日課表・1」
お昼ご飯の食器を食洗器に入れて、ふとソファーに座る夫を見た。
三人掛けのソファーなのに、猫のダイが猫の標準サイズよりも大きな体でソファーに寝そべっているせいで、夫はソファーの端っこに膝を閉じて小さくなって座っている。
夫は、本に夢中になっていて無表情のままで本に視線を落としているから、それが面白い本なのかどうなのか、全く私には分からない。
夫は、「本は紙の本がいい」と言って、紙の本を愛読しているけど、昔に比べて本屋さんが少なくなって、一番近くの本屋さんがJRの駅前にしかなくなってしまった。だからと言って、ネットで取り寄せて買うのは味気ないそうで、実際に本屋さんに行って、沢山の本の中から選ぶのが楽しいそうだ。
いつも不思議に思うのは、ダイは、私と娘がリビングに居ない時だけ、夫の近くに居ること。
夫の事は嫌いじゃないみたいだけど、夫に抱っこされるのを凄く嫌がる。
私と娘の膝には甘えて乗ってくるのに、夫の膝には乗らない。
だけど、夫の近くに居る時は、前足とか後ろ足とか、時には尻尾だけ、夫に必ず触れている。
今も、夫から少し離れて寝そべっているのに、右の前足の肉球だけ、夫の太ももの脇に触れている。
夫も、それが当たり前みたいで、ダイのことは気にしないで、本に集中している。
(私も休憩しよう)
ソファーの、夫とは反対側の端に座ろうと思って、ソファーに近づいたら、ダイが起きて上体を起こして、私をじっと見た。そして、私がソファーの端に座ると、ダイは立ち上がって、私の膝の上に乗って来て、大きな体を丸めて、小さく「クーッ」と言った。私はダイを優しく撫でた。
夫は、そのダイの様子に視線を向けて、私の膝にダイが乗ると、少し寂しそうな顔をしてから、私に微笑んだ。
丁度、そのタイミングで、娘がリビングに来て、
「ねえ、ママ。4年生の授業の予定を一緒に決めてくれない?先生が、ホゴシャと一緒に決めてくださいって言っていたから」
と言って、さっきまでダイが寝ていたソファーの真ん中に座って、学校用のタブレット端末を私に見せた。
(ああ、私の苦手な分野だわ。夫に見て貰おう)
「ママは、こういうのが苦手だから、パパも一緒に考えて貰おうね」
と夫に責任を押し付けてた。
夫は、嫌がることなく、それどころか興味津々な様子で、
「どれどれ?」
と言ってタブレット端末を覗き込んだ。
娘は、私に見せていたタブレット端末を夫の方に向けた。
夫は、タブレット端末の画面の内容を見ると、
「なんだか、昔の教習所の学科教習の予約を取る画面に似ているね」
と言って、内容を理解しようとして、画面を食い入るように観察している。
夫が、タブレット端末の画面に触れようとしたところ、娘が、
「ああ、国語は『1』の方にするの」
と言って、タブレット画面の中に表示されているボタンの1つを押した。
すると、時間割の表の中で、『国語1』と書かれた複数のボタンが一斉に色が濃くなった。
夫は、それを見て、
「へぇ~!」
と感心した。
夫が時間割に興味津々になっている様子を、娘は面白そうに見ていた。
娘が、思い出したように言った。
「そうだ。私ね。ムギちゃんと同じ時間割にするのね。そうするとね。土曜日は学校に行って、水曜日と日曜日がお休みになるんだけど。いいよね?ママも水曜日は、お仕事お休みでしょ?」
娘が上目遣いで私の顔を見て、私が了承することを期待しているけど。
そうすると、水曜日の私だけの時間が無くなってしまうのね。
銀行や区役所に行くのも、娘と一緒に行かなくちゃいけなくなるし。お昼寝も出来なくなっちゃうのか。それは、ちょっと嫌だな。
「いいんじゃない?」
と夫が言った。
更に、
「元々、土曜日は、僕が家事をしていて、家事をする事に関しては変わらないし。水曜日は市場の仲卸も休みだから、仕事も他の曜日に比べると量が少ないから、月曜日とか金曜日よりも気兼ねなく有給申請しやすいし。僕が時々、水曜日に有休を取って、平日に家族で出掛けるのもいいね。平日なら遊園地とか、ショッピングモールもすいているし。凄くいいと思うよ」
と珍しく興奮気味に言った。
娘は嬉しそうな顔で夫を見ている。娘に見られている事も嬉しいのか、夫は嬉しそうだった。夫よ。
そこまで夫に言われてしまうと、三人家族の多数決で、ほぼ決定してしまったじゃないの。
「そうね。水曜日に、家族で出掛けられるのはいいかもね」
と私は折れる事にした。
さようなら。私だけの時間。
その後は、私は気分が下がって、何も考えられなくなって、娘と夫が、楽しそうにタブレット端末を操作して時間割を作っていくのを、ダイを撫でながら見ていた。そうしたら、あっという間に完成したみたいで、娘は、
「ありがとう」
と言って、自分の部屋に戻っていった。
夫が、
「いやぁ。僕たちの頃とは、全く違うんだね。土曜日の授業も、『半ドン』じゃなくて、午後も授業があるんだね」
と言った。
私は、
「え?『半ドン』って何?土曜日の給食が少ない丼(どんぶり)だったの?」
と訊いた。
夫は、一瞬、驚いた顔をした。そして、少し笑ってから説明してくれた。
「『半ドン』というのは、昭和時代から平成時代の初期頃まで、役所や、多くの会社や、学校が、土曜日も普通にやっていてね。だけどね、土曜日だけは、午前中、半日だけだったんだよ。僕が高校生の時に、週休二日制が始まって、土曜日も一日お休みになったのは、嬉しかったな。だけど、土曜日の午後の解放感も、今思えば、楽しかったけど。それに、これは、僕もテレビか何かで見ただけなんだけど、ずっと昔に、正午を知らせるのに、大砲を「ドン!」と鳴らしていたらしくて。それで、土曜日の半分の業務と大砲の「ドン!」で、『半ドン』って呼んでいたって聞いたことがあるよ。まあ、本当のところは、僕は実際に経験していないし、子供だったから、よく分からないけど」
私は、
「ふ~ん」
と言って、考えていた。
(そうだった。私と夫は同じ干支で。ひと回り、12歳の年の差があった。普段から、ずっと年上だなとは思っているけど、改めて12歳差だと思うと、私と夫が色々と違うのは当たり前なんだな。まあ、だからこそ、面白いなぁと思うところが沢山あるし)
私は思わず、昔と比べて皺が深くなった夫の顔をマジマジと見てしまった。
「ママは、いくつの時に週休二日制になったか、覚えてる?」
と夫が訊いたので、
「はじめから週休二日制だったよ」
と反射的に答えた。
夫は、普段からトボケタ顔なのに、口を開けたまま固まってしまって、更にトボケタ顔をして、ポカンとした。
(夫も、年の差を感じたかな?なんか、凄くショックを受けてる感じ?)
夫は暫く、そのままの表情で、じっとして動かなかった。
ダイが寝ているところが、熱くなってきた。私はダイの様子を見て、ダイの頭を撫でた。ダイは微動だにしなかった。
夫が気を持ち直して、
「しかしまぁ、教科担任制も良いよね。しかも、土日も学校に行くのを選べるのもいいね。だってショッピングモールとか遊園地とか、サービス業の多くが、土日が書き入れ時で、働いている人も沢山いるんだから。役所の窓口も何年か後には、土日も開くしね。行政に定休日がある方が、おかしかったよね。だけどまぁ、子供たちが自分自身で時間割を作るのは大変なんだけど」
と矢継ぎ早に言った。
何か少し引っ掛かって、
「だけど、同じクラスなのに、違う授業を受けたりとかするでしょう?せっかく同じクラスになったのにバラバラなのは、私は、少し寂しい気もするのね」
と言った。
それを聞いて、夫はハッとした表情になった。
そして、夫の考えを教えてくれた。
「僕はさ。小学校とか中学校とか。・・・。凄く苦手な同級生がいてね。まあちょっと、こういう言い方は嫌なんだけど。虐めてくる奴がいたんだよ。僕は何もしていないし、寧ろ関わりたくないから近づきもしなかったのに。そいつの方から、切っ掛けも分からないんだけど、いつも嫌がらせをしに近づいてきて。嫌な事を言ってきたり、僕が本を読んでいるのに、僕の机の上に座ってきたりして、面白がっていたんだよね。だから、そいつと同じクラスになったら、その年は1年間ずっと嫌な気持ちで学校で過ごしていたんだよね。だから、教科担任制で、同じクラスでも別々の授業を受けられるのは、僕は良い仕組みだと考えているんだよ。今だって、僕みたいに、苦手な同級生がいる子供は存在していると思うんだ」
夫が子供の時に虐められていたことを初めて知った。夫自身が、子供の時も今現在も、誰かを虐める側ではないとは思っていたけれど、虐められていたとはなと思い、少し子供の頃の夫が可哀そうに思えた。
夫は話し続けた。
「それにね。教師に対しても、相性ってあると思うんだよ。僕が小学生の時は、1人の教師が全ての教科を教えていて、朝から夕方まで、ずっと一緒だったでしょ?だから、苦手な先生だったりすると、苦しい事もあると思うんだよ。生徒も子供とはいえ、立派な人格を持つ人間だし、先生だって、ただの人間だから、相性の良い悪いっていうのは、あると思うんだよね。だから、教科担任制だと、子供が関わる教師の人数が多くなる分、その中で相性の良い先生を見つけることも出来て、何か学校の困りごとなどを安心して相談できるチャンスも出来るのかなと思うよ」
夫の話が長くなりそうな予感がしてきて、思わずテキトウに、
「ふ~ん」
と声を出してしまった。
夫の話は、更に続いた。
「それに、教科担任制にすることによって、クラス担任というか『進路・生活指導担任』っていうのが出来て、受け持ちの生徒の生活指導や進路指導を集中して行えるようになったから。一人の教員が、授業も、進路指導も、学校行事も。って、全てを背負い込むことがなくなったことで、教員の負担も軽減されて、その分、学校教育の質が上がったって言うじゃない?それを考えると、それまでの教員の人達の大変さは、とんでもないよね?それに、土日も学校をやることによって、教師もバラバラに休みを取るようになったから、教員自身の子供の行事に参加しやすくなったって言うじゃない?なんか、もっと早く、そういうことが出来なかったのかなって思うよね。少し前まで、教員の精神的な病とか、病気による休職とか退職とかが、社会問題になっていたしね」
私は、
「そうだね」
と合いの手を入れた。
夫の話は止まらない。夫よ。
「それに、学校でも数年後から導入されるけど。『適性適合検査制度』は、僕は本当にいいと思っているんだよ。だけどね。反対している人も沢山いるんだよね」
私も『適性適合検査制度』について思うところがあったので、私が何か意見を言ったら、夫の話が長くなるのに、思わず言葉にしてしまった。
「そうなの。私も『適性適合検査制度』はいいと思うの。それを『差別だ』とか、『差別の温床だ』とか言って反対しているでしょう?それって、差別される側の人を馬鹿にして差別する人達の方が、オカシイのに。学校だと、『適性適合学習』って言って、その子供に合った学習方法で勉強を教えるようになるのね。だから、教科書を読んだだけで理解できる子は、タブレットとかで、どんどん一人で学習していって、海外みたいに飛び級が当たり前になっていく可能性があるんだって。その他の子は、今迄みたいに先生が教えてくれて。そうじゃなくて、発達障害とか学習障害とかの特性がある子には、それにあった教材や授業の仕方で対応するようになるのね。今までって、授業に参加してただけで、実際には身に付いていない子だっていたわけでしょ。『適性適合学習』だと、本当に学習することが出来ると思うのね」
我ながら、夫に負けないくらいの熱弁をふるってしまった。ちょっと、恥ずかしくなった。
すると、突然、夫が、
「大好き!ママと結婚出来て、僕は幸せ者だ!」
と言った。
私は、びっくりして、夫の顔を見ていたけれど、恥ずかしくなって、思わず視線を逸らしてしまった。
この場にいるのが恥ずかしくて、席を外す理由を考えた。
(そうだ、ローリエをこないだ使い切ったんだった。そうだ、晩御飯、ミートソースにしよう)ローリエを買いに行くことにして、出かける事を思いついた。
私は、ダイをソファーに置いて、買い物の準備を始めた。
「ああ、晩御飯にミートソースを作るのに、ローリエを切らしていたから、ちょっと買ってくるね」
と、ちょっと言い訳っぽく言ってしまった。
夫が、
「一緒に行こうか?天使ちゃんにも声を掛けてこようか?」
と言った。
(いやいやいや。そうじゃない)
夫よ。
今は、あなたと一緒に居る事が恥ずかしいから、私は出掛けるのよ。それなのに、一緒に来てどうするの?
因みに、『天使ちゃん』と言うのは、家の中での娘の呼び名で、娘がもっと小さかったときは『エンジェル』と呼んでいた。
「大丈夫。ローリエだけだから。留守番してて」
と言って、夫の申し出にやんわりとお断りを入れた。
家を出て、歩きながら、さっきの夫との会話を思い出していた。
(恥ずかしかった~。あの人って、急に、ああいう事を平気で言う人だった。地味な日本人の典型みたいな見た目なのに、急にフランス人かって、アムールな人になるのよね。本当にびっくりした)
ふと、街路樹を見ると、八重桜が満開で綺麗だった。
なんだか、とても清々しい気分になった。
スーパーマーケットに着くと、入ってすぐのところに、今日の特売品である野菜が山積みになっていた。見ると、玉ねぎが10個くらい入っている大袋が298円とあった。そのとなりにはジャガイモの大袋もある。
「安い・・・」
私は、小さな声が出た。
だけど、ローリエだけを買うつもりで家を出てきたので、いつもの丈夫なエコバッグを持ってきていなかった。
(どうしよう。買い物袋を買うしかないか・・・)と思い、どうせ買い物袋を購入するなら、他にお買い得品があったら買ってしまおうと考えて、玉ねぎとじゃがいもの大袋を1つずつカゴに入れたカートを押しながら、ローリエの売り場に向かった。その間に、オリーブオイルの大瓶と、みりん、はちみつの大瓶がお買い得商品になっているのを見つけてしまった。
流石に、これを1人で全て持って帰るのは無理。(そうだ、パパを呼び出そう!)と考えて、夫に電話を掛けた。
電話を掛けると、夫は意外と直ぐに出てくれた。
「ああ。パパ?スーパーの途中の道でね、八重桜が満開で綺麗なの。天使ちゃんも誘って、一緒にお花見しない?出てこられる?」
と言うと、夫は嬉しそうな声で、
「そうなんだね。分かった。これから仕度させて、直ぐに行くよ」
と言うので、(やった!荷物を持って貰える!)と思って、嬉しくなった。
「じゃあ、私はスーパーで買い物しながら待っているから、スーパーで待ち合わせね」
と言うと、夫は、
「分かった。じゃあ、すぐに行くね。じゃあ、後で」
と言って電話を切った。
私はスマホを鞄に仕舞うと、ローリエをカゴに入れて、はちみつの売り場に向かった。