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短編小説:「ごめんね」
西暦2046年
夫が亡くなった。
癌だった。
若いせいもあって進行が早く、検査で癌が見つかってから、あっという間だった。
夫は、30歳で他界した。
まだまだ一緒に居ると思ってた。
子供の入園や入学を一緒にお祝いできると思ってた。
子供の初恋に2人でソワソワしたりするんだと思ってた。
子供が大きくなったら、一緒に色々なところに旅行するんだと思ってた。
ずっと一緒に居て、ずっと好きだと思ってた。
私たちは、同僚で、同じ病院で働いていた。
夫は、私よりも1年先輩の看護師で、新人だった私が休憩室で泣いていた時に慰めてくれたのが、付き合うきっかけだった。
将来的に結婚を考えてはいたけど、結婚は30歳を過ぎてから、仕事に慣れてからと思っていたのに、妊娠していることが分かって、子供が生まれる前に結婚した。
私が27歳の時だった。
私の母は、精神的な病を抱えているため、子育ての手伝いをお願いする事が出来ない。夫の両親も、遠くに住んでいるので、そちらにも子育てのサポートをお願いする事が出来なかった。
私は2年間の育児休暇を取り、夫も1年間の育児休暇を取って、息子の育児に専念した。
夫は、私の産後の体調を、充分にケアしてくれた。
退院後は、夫が身の回りのことを全てこなして、私は授乳と私の事だけをすればいい環境にしてくれた。そこは、流石、看護師だと思った。
しかしながら、食事の用意や掃除は、看護師には関係がないので、夫が流石な人だったのだ。
私たちが高校生の頃に、学校の授業に『医学』が加えられた。そのせいもあって、2人とも学校の授業で習った知識を思い出しながら、そして、職場の同僚達にアドバイスを受けながら、育児をすることが出来た。大学で小児看護学も学んだけど、看護と育児は全くべつものだった。
夫の育児休暇が終わった後も、夫は家に居る時は、家事育児を率先してやっていた。本当に、良く出来た人だ。そんな夫に育ててくださった夫の両親には感謝だ。
そして、誰よりも、夫に感謝だ。
私にも、息子にも、愛情たっぷりに接してくれた。
看護師として彼が担当した患者さんにも、きっと同じように誠実に対応していたのだと思う。私も息子も、患者さんも、幸せ者なんだと思った。
そして、私が産休を明けて、仕事に復帰した矢先に、夫の健康診断で癌が見つかった。
勤務先の病院では、設備が不足しているということで、専門の病院で治療を受けることになった。勤務先の病院のスタッフは、自分たちが何も出来ない事に歯がゆさを感じて、担当してくださった先生から「ごめんね。力になれなくて」と頭を下げられた。それは、謝罪ではなく、自分の力で治したいという医師の悔しさも感じられた。皆さんが、夫を治したいと強く思ってくださっている事が、ありがたかった。
夫は、はじめのうちは、普通に会話もして、食事もしていたけれど、そのうちに疲れやすくなって、眠る事が多くなった。最後は、食事をとる事も大変になって、どんどん窶れ(やつれ)ていく夫を見るのが、私自身が辛くなっていった。それでも、夫に元気になって欲しかったし、元気になるんだと、希望を持っていた。
そして、最後の方は、希望を持つようにしていた。
夫の葬儀の時に、父が亡くなった時のことを思い出す瞬間があった。
私は、棺桶の窓から、夫の顔を何度も見ていた。息子にも、夫の顔を見せた。
頬がこけて、青白い顔だった。だけど、何故か元気だった頃の夫の顔が重なって見えて、「おはよう。太陽(それいゆ)」といつもの優しい笑顔で私に言って、起き上がって棺桶から出てきて、いつもみたいに伸びをするんじゃないかと思った。
火葬場に行くまでは、夫が傍で眠っているように感じていたのに、火葬場で『お骨(おこつ)』になったら、急に同じ世界に居ないように感じて、それまでよりも悲しみが大きくなった。
お葬式の喪主の挨拶は、私が行った。父の葬儀の時に一言だけ挨拶をしたことを思い出した。
職場の同僚など皆さんが「気丈で、立派だったわね」と声を掛けてくれた。だけど、実際は、不安でしようがない状態だった。
抱き上げた息子の腕を無意識に優しく握っていた。
(細い)と思った。改めて、息子の小ささを感じた。
(この小さな命を1人で守らなくてはいけない)
夫を失った悲しみよりも、これからの将来の不安の方が大きかった。
夫が亡くなって、息子と二人きりの生活が始まった。
私は、育児休暇が明けたばかりの状態から、夫の看護休暇をとるかたちになり、殆ど仕事に復帰できていない状況だった。
息子を1人で育てるのに、保育所などを活用するだけで、大丈夫なのだろうかと思っていた。
夫が、充分な家事育児をこなしていたので、私一人での家事育児と仕事の大変さは、想像しただけで、おかしくなりそうだった。
マミーズホームの利用・・・。
私自身が、マミーズホームに入所して、高校2年から大学、就職1年目まで、お世話になった。
何も不自由は無かった。
寧ろ、快適な生活を過ごしていた。
ただ、母と会えない事や、これからも母とは生活が出来ないという条件はあった。
だけど、入所中に母に会えない事に寂しさを感じていたけれど、今となっては、それだけの事だと思える。今は、母とは一緒に暮らすことは出来ないけど、近所に住んでいるので、一緒に食事をすることが出来る。母と過ごす時間がある。
マミーズホームを利用する事を拒む理由が無い・・・。
息子はどうだろうか?
このまま私と一緒に生活をして、私は仕事で忙しくしていて、一緒にいる時間が少ないだろう。一人で寂しい思いをさせることがあるだろう。
私も、いつかは疲れ果てて、ストレスが大きくなるだろう。
そんな時に、そんな私と一緒に居て、息子は幸せだろうか?
それに、学習塾なども通わせるだけのお金は無い。
再婚?
いや。それは無い。夫程の人は、いない。
絶対に。いない。
私は、決断した。
息子をマミーズホームに入所させることを。
入所当日、マミーズホームのマミー資格を持つ職員と区役所の担当者が家に来た。
私は、息子の荷物を担当者に渡して、
「宜しくお願いします」
と言って、頭を下げた。
息子は、きょとんとして、それを見ていた。
そして、私は、しゃがんで息子に目線を合わせて、
「これからね。お友達がいっぱいいる所に行くんだよ。そこで、皆といっぱい遊んで、いっぱいお勉強ができるんだよ。元気でいてね」
と言って、息子の柔らかい髪を撫でた。
息子は無邪気に、
「いっぱい遊ぶ!」
と、はしゃいで楽しそうに言った。
私は、息子に笑顔を作るのが精いっぱいだった。
区役所の人が、
「じゃあ、おあずかりいたします」
と言った。
マミー職員が、
「おまかせください。大切に育てます」
と私に言うと、今度は息子に、
「それじゃあ。お友達のところに行こうね。いっぱい、遊ぼうね!」
と言って、息子の手を取った。
私は、玄関での見送りで別れた。三人が角を曲がって、姿が見えなくなるまで見送った。そして、姿が見えなくなると、玄関の扉を閉めて、そこでしゃがみこんで、泣いた。
「ごめんね。ごめんね。ごめんね・・・」
気が付くと、ひたすら泣きながら「ごめんね」と言っていた。
マミーズホームの退所前の面会の時に、母が言っていたように。
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