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短編小説:「サル・ゴリラ・チンパンジー」

‘’サルッ、ゴリラ、チンッパンジ~。サルッ、ゴリラ、チンッパンジ~‘’
 小学校の校庭に大音量で音楽が流れている中で、1人の子供が歌っている声が聞こえる。

 娘の運動会だけど、この曲って、未だに運動会の定番なのね。しかも、応援席の誰か子供が、サル・ゴリラ・チンパンジーって歌ってる。今の子供も、私たちと同じなのね。なんだか、ちょっと面白い。っていうか、この曲の題名って何ていうんだろう?

 ★この曲の題名は、『クワイ河マーチ』です。映画『戦場に架ける橋』のテーマソングです。

「ママ!呼び出しされたから、行ってくるよ」
 冴えないトボケタ顔の夫が言った。夫が出走する親子競技の出番が近づいてきたようだ。
「頑張って来てね」
と私が言うと、夫は嬉しそうに微笑んだ。そして、校庭の端の入場門に小走りに向かっていった。
 明らかに、走らせたら遅いだろうと思われる頼りない走り方だった。

 夫の後ろ姿を見ていたら、ちょっと、がっかりした気分になった。
 周りにいるジャージ姿のお父さん達が、なんだかキラキラして見えて、夫がくすんで見える。

 新型コロナウイルス感染症の影響で、1年生から3年生までと、4年生から6年生までという風に全校生徒を二分割して、日程を分けて運動会が実施されるようになった。
 そのコロナ前までは、全校生徒が一緒になって運動会を行っていたので、全校児童や、その保護者たちで、この校庭が、もっと人だらけだったのかと思うと、コロナの影響も悪くないなと思えた。
 しかしながら、来年は娘が4年生になるから、上の学年の子供たちの運動会の参加になる。他人の子供とはいえ、一年生の小さな子供の可愛らしい姿が見れなくなるのは少し残念な気がする。

(さて、私も撮影スペースに向かわなきゃ)
 競技中の動画や写真を撮影する為の場所が、学校側で用意してあった。自分の子供が走る順番になると、その場所に入って、その特等席で撮影が出来るように準備されていた。
 幅7メートル、奥行き4メートルの四角い枠の中で撮影をする事を示す枠が、地面に紐が張られて作られていた。
 娘と夫の順番が来るまで、その枠の外の近くで、撮影の順番を待っていた。
 
「あらー。美月ちゃん!」
と、背後から声を掛けられた。
 振り返ると、職場の同僚でもある未来(みく)ちゃんだった。
「ああ、未来ちゃん。ぜんぜん会わなかったね。どの辺にいるの?」
と、普段の職場のように何でもない会話を始めた。

 私たちは、いい歳だけど、職場の同僚同士で、「子供の名前や夫の苗字で、○○ちゃんのママとか、○○さんの奥さんとか、そういう風に呼ばれるのは嫌だよね」という話になったことがあって、女子高校生みたいに、お互いを下の名前で呼び合うルールを作っていた。
 それを家で夫に話をした時には、夫は「へー」と言いながら、目の奥で呆れたような空気を出していて、そんな夫に少しイラっとした。

 未来ちゃんが、少し小声になって、
「ああ。涼子さんも見かけたから、きっともうすぐ、ここに来ると思うよ」
と教えてくれた。
「そうなんだ。そうだよね。みんな同じ学年だもんね」
と私は言った。恐らく、私の声は元気を失っていた。

 私は、その涼子さんが苦手だった。
 涼子さんも未来ちゃんと同じく職場の同僚で、意地悪なことをしてくるので、なるべく関わらないようにしている。
 それに、この運動会の前にも、意地悪をされた。
 私は、運動会の為に、数か月前から上司に相談をして、今日を休みにして貰っていた。
 それなのに、一昨日。私が休憩室で一人きりでコーヒーを飲んでいる時に、普段は私に話しかけてこない涼子さんが近づいてきて、「ねえ、お願いがあるんだけどぉ~」とネチョネチョした話し方で話しかけてきた。甘えたような言い方だったけど、威圧感が凄く強い話し方だった。
 私は嫌だったけど、二人きりだから話を聞く他なくて、「なんですか?」と返したら、運動会の日の休みを交換して欲しいと言ってきた。
(え?子供が、同じ小学校で、同じ学年って知っているはずだよね?)と私は思ったけれど、それを言葉にせずに飲み込んだ。だけど、表情には出ていたと思う。
 私は、気を付けて、冷静な声で「悪いんだけど。この日は用事があるからシフト交換は出来ないの。ごめんなさい」と答えた。あえて運動会のことは言わなかった。
 すると、涼子さんが怖い顔になって、チッと舌打ちをして「そう、分かった」と声を荒げて捨てるように言って、休憩室を出て行った。
 私は間違った事をしていないのに、何だが罪悪感を覚えるのは何故なんだろう?すごく嫌な気持ちになった。
 それに、涼子さんは、私が涼子さんの迫力に負けてシフトを交換して、それで、涼子さん自身は子供の運動会に参加して、私が娘の運動会に参加出来ないようにしようと思ったのかな?そこまで、酷いことをしようとしてたのかな?
 そう考えると、本当に涼子さんは、気持ちの悪い人だと思えた。

 だけど、これを未来ちゃん達に話したら、きっと、未来ちゃんは「えええええ!?涼子さん、頭おかしいんじゃないの~!!!!!」と職場の人達に聞こえるように言うのが目に見えていて、それを考えると未来ちゃんや他の仲の良い同僚には言えないと思い、誰にも言わなかった。
 私だって、「頭おかしいんじゃないの?」って思うけど、悪口を言うみたいで罪悪感があるし、それが原因で職場の雰囲気が悪くなるのも嫌だなと思って、言えない。
 だけど、たぶん。私のそういうところも計算して、涼子さんは私に意地悪をしているのかなと思う。

 そんなことを思い出していたら、向こうから涼子さんが歩いてくるのが見えた。
 未来ちゃんの言う、『ドロンジョ様歩き』で、お尻を左右に振りながら、嫌なオーラを纏いながら歩いて来た。
 私の視線で涼子さんに気が付いた未来ちゃんは、
「涼子さ~ん!」
と大きな声で呼んで、仲の良い友達のように涼子さんに笑顔で手を振った。

 私は、未来ちゃんのこういうところが凄いなと、いつも感心してしまう。
 以前、未来ちゃん自身が「涼子さんの事、嫌いなんだよね。だって意地悪じゃない?」と言っていたのに、本人の目の前では、仲良しの同僚のように振る舞っている。
 だけど、未来ちゃんが、涼子さんと一緒に食事に出かけたり、買い物に行ったりすることはない。
 涼子さんが、未来ちゃんを飲み会に誘っているところを見かけたことがあったけど、未来ちゃんは、「あ~。ごっめ~ん。うちの旦那、仕事の帰りが遅いから、子供を一人に出来ないじゃん?飲み会とか無理なんだわ~」と言って断っていた。私には出来ない言い回しだった。
 涼子さんも未来ちゃんには嫌われないようにしているように感じる。未来ちゃんの強さを感じ取っていて、弱い私とは違う対応をしているのかなと思う。

 涼子さんは、私達のところに来ると、
「未来ちゃん達も来たのね」
と、いつもと同じように偉い人のような口調で言った。
 それに対して、
「当たり前じゃな~い。子供の運動会だよ~。来るに決まってるじゃ~ん」
と言いながら、その涼子さんに向けた未来ちゃんの目の奥は冷たかった。
 私は黙って、二人の会話を見ていた。
 未来ちゃんの冷たい感じを察したのか、涼子さんが私を見て言った。
「美月ちゃん。あれからね。鈴木君にシフト代わってもらったの」
 涼子さんの目は、冷たかった。それに対して私は視線を合わせずに、
「ああ。そうなんですか。良かったですね」
と小さな声で答えた。
 その様子を未来ちゃんは何かを読み取るような表情で見ていた。
(いや。未来ちゃん。察しないで!)
と私は願った。

 校庭に流れている音楽がハードロック調の曲に変わった。私が知らない曲だった。きっと、若い先生の選曲なのだろう。放送で、種目について説明をしていた。
 親子リレーであり、はじめに子供が走り、次に保護者がバトンを子供から受け取って走ってゴールを目指すという競技だった。
 一番初めに走る親子が準備を始めた。
 最初に、子供のスタート地点で、子供と保護者が握手をして、その後に保護者はバトンを受け取る場所まで移動する。全員の準備が整ったところで、「ヨーイドン!」となって子供たちが走り出す。

 夫の姿を見つけた。3番目の出走のようだ。娘と手をつないで、何か二人で話している。仲が良いのはいい事だ。

 2番目の競争が終わると、私たちの子供たちが一緒に3番目に走る事に3人とも気が付いた。
 5組のペアが並んでいる中で、娘と夫の隣のレーンに、涼子さんのお子さんと筋肉隆々の大きな体の恐らく涼子さんの配偶者が並んでいる。その隣に未来ちゃんのお子さんと元アイドルという風貌の恐らく未来ちゃんの配偶者が並んでいた。

 涼子さんが、未来ちゃんに言った。
「え?未来ちゃんの旦那さんって格好いいじゃない!」
 未来ちゃんは、まんざらでもない様子でニヤニヤしながら、
「そうなの。うちの旦那。イケメンなの」
と惚気てみせた。そして、未来ちゃんは涼子さんに
「ええ~。けど、涼子さんの旦那さんだって、何か鍛えてるって感じで格好いいじゃない?」
と言った。
 涼子さんも、まんざらではないという様子で、ふっと微笑んで、
「なんかね。ジムに通っていて、インストラクターに言い寄られて困るって言ってたわ」
と、さりげなく自慢を入れてきた。
 そして、未来ちゃんが、私に気遣って、
「美月ちゃんの旦那さんは、優しそう」
と言った。
 そして、それを聞いた涼子さんが、蔑んだように小さく笑って、
「そうね。優しそうね」
と言って私をちらりと見た。
 私は、ハハハハと笑うしかなかった。

 大学生の時、初彼氏が出来た!と、はしゃいでいる友人に彼氏の写真を見せて貰った時に、イケメンじゃなかった場合、「優しそうだね」というのが定型だった。まさに、今のリアクションなのだ。
(そうよ。夫は、イケメンじゃない。格好良くない)
 私はなんだか、悔しい気持ちになった。

 並んでいる三人の父親を見ると、夫はニホンザルみたいに、こじんまりとしていて、あっさりした顔で、体も小さくて。隣の涼子さんの旦那さんは、ゴリラみたいに筋肉隆々で。未来ちゃんの旦那さんは、そうなると格好いいチンパンジーなの?いやいや、チンパンジーは格好良くないでしょう。私の偏見だけど。

 そんなことを考えていたら、撮影の為に手に持ったスマートフォンの画面の中で、夫と娘が握手をして、夫が娘に何かを言って微笑んで娘の頭を撫でた。そして、バトンを渡す場所へ移動した。歩き方が、トボトボしていた。
 隣レーンの涼子さんの旦那さんは、胸を張りすぎなくらいに背筋を伸ばして、大きな体を左右に揺らしながら歩いていた。
 未来ちゃんの旦那さんは、颯爽とジョギングのように駆けていき、1番最初にバトンを受け取る場所に到着すると、ジャックナイフと呼ばれるジャンプを飛んで見せた。高く飛び上がって両足を開き、開いた両足の足首に両手で触れた。応援席の小さな子供たちは、それを見て「キャー!」っと歓声をあげた。保護者達も、どよめいた。未来ちゃんの旦那さんは、すっかり運動会のアイドルになった。

「位置について!」
 スターターの先生が言うと、子供たちがスタートの構えをして、真剣な顔で前を見た。
 なんて、可愛いんだろう。
「よーい」
 子供たちに緊張が走る。その先の保護者達は、子供達を見て、みんな微笑んでいる。
「ドン!」
 子供たちが一生懸命に真剣な顔で走っている。残念ながら娘は最下位だけど、一生懸命走る事が大事だから、それでいいの。スマホの画面の中の娘が愛おしい。
 未来ちゃんの旦那さんは、一番にバトンを受け取って、快走している。それを次に涼子さんの旦那さんが追いかけた。
 娘は、ゆっくりながら、丁寧に、上手にバトンを夫に渡すことが出来た。丁寧なところが我が子ながらに偉いと思う。おっちょこちょいの私ではなく、そこは夫に似たのだと思う。ありがとう。夫よ。
 他の保護者よりも、だいぶ遅れて夫が走り出した。遅い。夫よ。
 未来ちゃんの旦那さんの走る姿が格好良くて、いつの間にか私のスマホの画面の中には、未来ちゃんの旦那さんが映っていた。
 ゴール目前のところで、未来ちゃんの旦那さんが飛び上がって豪快に転んだ。両手を伸ばして跳んだ姿が、この前のお休みの日に行った動物園の元気なチンパンジーみたいで、格好悪かった。
 そのすぐ後に涼子さんの旦那さんが、転んだ未来ちゃんの旦那さんのすぐ横を走っていった。その時に、未来ちゃんの旦那さんの腕を涼子さんの旦那さんが蹴飛ばした。二人が何か大きな声で言ったけれど、私たちには聞き取れなかった。
 涼子さんの旦那さんが1番にゴールをして、1番の旗を受け取ると旗を高く持ち上げてアピールした。すると、すぐに起き上がって3位でゴールした未来ちゃんの旦那さんが、係の先生が3位の旗を渡そうとするのを無視して、涼子さんの旦那さんの胸ぐらに掴みかかって、何やら大きな声で文句を言っている。
 未来ちゃんが、
「あちゃー。アイツ、何してんだよ」
と不満そうに眉間に皺を寄せて旦那さんの様子を見ながら呟いた。
 涼子さんは、スンとして、同じく旦那さん達の様子を見ていた。
 先生たちが二人の喧嘩を止めに入っているけど、二人はヒートアップしていて、掴みあって離れない。そして、誰も二人を離せないでいた。
 そこに、
「大人の方は、喧嘩をやめてください。私たち、子供の運動会です」
と、放送係の女の子の可愛らしい声が校庭に響き渡った。
 それで我に返った二人は、同時に手を放して、それぞれに別れて、その場から姿を消した。
 校庭中がザワザワとしていた。
 それを見届けると、未来ちゃんが涼子さんに、
「ごめんね~。ウチの旦那が~」
と言って詫びた。
(いや、明かに、涼子さんの旦那さんが、未来ちゃんの旦那さんを蹴飛ばしたよ)
と私は思ったけど、何も言わなかった。
 涼子さんは、
「いいえ~。じゃあ、私はこれで」
と言って、ドロンジョ様歩きで去って行った。その先には、涼子さんの旦那さんが、バツが悪そうに立っていた。

 未来ちゃんと私は、撮影スペースから離れたところに移動した。
 未来ちゃんの傍に居てあげた方がいいと私は思った。
 未来ちゃんは、うんざりした様子で、
「もう、本当に、アイツ、何なの~!ほんと、ムカつく!!」
と言葉の熱量のわりに小さな声で、怒りを放出していた。
 私は、何も言わずに、ただ未来ちゃんの傍に付き添っていた。
 暫くすると、未来ちゃんの旦那さんがやって来て、未来ちゃんに誤った。
「ごめん。未来」
 未来ちゃんは、旦那さんの肩を大きく腕を振って叩きながら、
「何やってんだよ~。もう~!」
と文句を言った。
 そして、周囲の人たちの視線を感じると、
「じゃあね、美月ちゃん」
と言って、旦那さんの腕を引っ張りながら向こうに行ってしまった。
 私は、その後ろ姿を暫く見守った。

「ママ。大丈夫?」
 背後から夫の声が聞こえた。
 振り返ると、冴えない夫が、トボケタ顔で立っていた。
「うん。未来ちゃんがね・・・」
と言って、夫に苦笑いをして見せた。
 夫は、静かに小さく何度も頷いた。

 向こうから、全身白いスポーツウェアの年配の女性がこちらに向かって快活に走って来る。
 そして、夫の前に立った。
 その年配女性の左胸には、「校長」と書かれた名札が付いていた。
 そして校長先生が、夫に向かってお礼を言って深々と頭を下げた。
「先ほどは、ありがとうございました。本来なら、教員が駆けつけて、お子さんを保護しなくてはいけないのに。本当に、申し訳ありませんでした」
 夫は、驚き、恐縮した感じで、
「いえいえいえいえいえいえ。とんでもないです。たまたま僕が一番近くにいたので。すべき事をしただけですので」
と言うと、校長先生は、夫の両肩をおもむろに掴んで、
「まあ!立派なお父さんだわ。児童たちに貴方の立派な行動を見せることが出来て、私は、とても嬉しいです!」
と夫を褒め称えた。
 校長先生に両肩を抱えられた夫は、驚いて両眉を上げて目を大きく見開いた。夫の両目はキラキラと輝き、目の奥がとても嬉しそうだった。
 夫のそんな表情を見るのは初めてだった。
(きっと、子供の時、こんな表情をしていたのかな?)
と夫の子供時代を想像した。なんだか可愛かった。
 そして、校長先生は、余韻に浸ることなく、キビキビと動いて、
「じゃあ、私はこれで。仕事に戻らなくてはいけませんのでね!本当に、お父さん。ありがとう!」
とベテランの政治家のように言うと、小走りで去っていった。

 そして順番を待っていたかのように、知らない女性が小さな男の子の手を引きながら来て、夫に話しかけた。
「すみませんでした。本当に、さっきは、ありがとうございました」
 夫は、少し照れた様子で、その女性に、
「いえ。あの。大丈夫ですので。お子さんの方は大丈夫ですか?」
と優しく言った。
 女性は、
「子供は大丈夫です。何ともありませんから。本当にありがとうございました」
と言って、夫に頭を下げた。
 すると、周囲に居合わせた人達から、自然と拍手が起こって、夫を拍手の音が包み込んだ。
 夫は、周囲の人に両手で止めるようにジェスチャーして、
「本当に、みなさん、大丈夫なので。やめてください。恥ずかしいので」
と言って、拍手をやめて貰うように、お願いをした。拍手は、パラパラパラとやんでいった。
 私は何が何だか分からなくて、夫に訊いた。
 すると、夫の代わりに女性が説明をしてくれた。

 夫たちが走っている時に、女性が連れていた就学前の小さな男の子がコースに入ってしまって、それを避けて未来ちゃんの旦那さんがバランスを崩して転んでしまい、その転んだ未来ちゃんの旦那さんを、後から走ってきた涼子さんの旦那さんが蹴飛ばした。その様子に気が付いた夫が、走るのを止めて、男の子を抱えて、コースから出て、女性に男の子を引き渡したという事があったとのこと。

 私が気付かない間に、夫は素敵な事をしていたの?
 私、全く夫を見ていなかった。
 ごめんなさい。
 冴えない夫が、1番格好いいことをしていたのに。

 夫が、女性に優しく、
「ああ。本当に大丈夫ですよ。子供が小さい時って、大変ですもんね。ヒヤヒヤしっぱなしですものね。ウチもそうだったので。もう、気にしないでください」
と言うと、女性は改めて礼を言って去っていった。

 私は、夫が誇らしく思えた。
 夫に微笑むと、夫が恥ずかしそうにした。可愛かった。

「あれ?谷さん?」
 今度は知らない若い男性が、夫に声を掛けてきた。
 夫の知り合いらしかった。
「ああ。どうも。佐々木さんも、こちらの小学校だったんですね?」
と夫が訊ねた。
「そうなんですよ。1年生で。さっきのアレ、見ましたよ。谷さん、お手柄じゃないですか~」
と、その男性が言った。
 そして、その男性が私の存在に気が付くと、夫が私を紹介した。
「ああ。私の妻です」
 その佐々木さんは、私の全身をすっと見ると、
「優しそうな奥様ですね」
と言った。
(あああああああああ)
 私は何とも言えない気持ちになった。だけど、気持ちを持ち直して、
「いつも、夫がお世話になっております」
と、恐らく引きつった笑顔で挨拶をした。

 そして、佐々木さんが立ち去った後に、夫の左腕を両手で掴んで、
「ごめんなさい」
と小さな声で懺悔した。
 夫は、
「はっ?何?」
と言って、戸惑っていた。

サポート頂けると大変ありがたい所存であります。