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短編小説:「全て人間が猫の為に生きれば皆が幸福なのかもしれない」

 吾輩は猫である。名前は、そう、『ダイ』。
 生まれた時には、今住んでいる家とは違う人間の家にいて。目が見えないうちは、母猫の体毛の中から匂いと温かさをたより、その周りだけ毛が抜け落ちた乳房と、乳の出る乳首を探し、ひたすらに腹をふくらませていた。目がハッキリと見えないせいで、その頃に面倒をみてくれていた人間の顔を、今のママやパパ、エンジェルの顔のようにハッキリと違いをもって思い出せない。色々と世話になったというのに。顔が薬缶のようにつるっとした不思議な印象しか残っていない。

 因みに、『エンジェル』というのは。今、吾輩が世話になっている家のママとパパの子供で。即ち、人間の子である。今現在では、『天使ちゃん』と呼ばれているが、吾輩は『エンジェル』の方が好きなので、吾輩だけは昔からの呼び名で『エンジェル』と呼んでいる。

 ある日、母猫と5匹の兄弟達と、いつもの箱の中で過ごしていると、今の家のママとパパが現れた。母猫は始め、「誰ヨ、アナタタチ」と警戒していたけれど、パパが母猫を撫でると、すっかり気を許して、「ドウ?ワタシノコドモタチ。カワイイデショ?サワッテモ、イイワヨ」と自分の子供を触る事を許可した。
 暫く、ママとパパは、吾輩たち兄弟をじっくりと見ていた。
 箱の中を動き回るモノ。ぐっすりと眠っているモノ。
 吾輩は、眠らずに、その中で、箱の中を動き回るモノに何度も踏まれていた。
「ふふふ」
とママが笑った。
「ふふふ」
とパパも笑った。
「この子がいい」
とママが言うと、パパも、
「僕もそう思った。この子がいいね」
と言った。
 吾輩の体が急に人間の手に掴まれて、宙に浮いて、箱の外を出て、今まで嗅いだことのない匂いと温かな感触に包まれた。そして、目の前に、ママの顔があった。
「かわいい」
とママが吾輩を見つめて言った。
 その横から覗き込んで、パパも、
「かわいいね」
と言った。
 当時、面倒をみてくれていた薬缶顔の人間が、
「この子は、男の子で。・・・。多分、大きくなるんじゃないかな」
と言った。

 その後、兄弟たちが、1匹ずつ、居なくなっていった。
 5匹いた兄弟も、吾輩ともう一匹だけになっていた。
 そして、吾輩が、他の兄弟のように、この家から居なくなる日が来たのだった。
 その日は、パパだけが吾輩たちの前に現れた。パパと薬缶顔の人間が何かを話していた。記憶に残っている言葉は、「大切にしてください」という言葉だ。その言葉だけは、何故か覚えている。
 薬缶顔の人間が、吾輩を抱き上げて、頬擦りをして、小さな箱の中に吾輩を入れた。
 箱の中には、それまでに感じたことのない気持ちの良い感触のタオルが敷き詰められていた。毛足が柔らかく、まるで母猫のお腹のような感触だった。そして、それと一緒に、母猫の匂いのするゴワゴワしたタオルも入れてあった。だから、気持ちが良かったのだ。
 いつのまにか、吾輩は眠ってしまっていた。

 急に、宙に放り出されたように、ふわっと体が浮き上がって、体が転がって、目が覚めた。
 目の前は真っ暗だ。
 そうだ、吾輩は、箱の中に入れられたのだ。
 箱の外で、‘’パンッ‘’と大きな音がした。
 吾輩は、本能的に恐怖を覚えた。とても、怖かった。
 暫くすると、吾輩が入っている箱の天井が開かれて、外が見えた。外が見えたというよりも、外からエンジェルに覗き込まれて、そのエンジェルの顔が見えた。
 エンジェルは、暫く、箱の外から吾輩を見ていた。
 今思えば、あの時エンジェルは、吾輩をどのように触ってよいのか、分からなかったのだろう。
 分からなかったから、触らなかった。正しい判断である。
 その後、その日は、色々と騒々しい事が起きた。それまで生活していた薬缶顔の人間の家では、静かな生活音と母猫の温もりに包まれていたので、人間には色々な種類があるのだなと吾輩は知った。

 それから、吾輩は、この家で平穏に暮らしている。
 吾輩が知る限りでは、この家は、マンションといわれる建物で、この家の上と下、右と左の隣にも、同じように人間が暮らしている『家』がある。  時々、天井から何かがぶつかる音がしたり、床で寝ていると床を伝って何やら人間の声が聞こえてくることがある。

 吾輩が生きている世界は、恐らく、他の者たちに比べると、凄く狭い世界なのだと思われる。吾輩が生きている世界は、基本的に、この『家』が全てだからだ。
 しかしながら、時々、動物病院に連れて行かれることがある。
 動物病院に到着するまでの間、吾輩はパパの背負っているキャリーバッグの窓から、外を観察する。
 普段は、家の窓から見下ろしている建物が目の前にあったり、見たことのない人間が沢山行き交っていたりする。(家の外は、こうなっているのか)と吾輩はここぞとばかりに観察に勤しむ。
 動物病院の待合室では、嗅いだことのない匂いが沢山して、色々な猫や犬の声が聞こえてくる。そして、色々な人間の声も聞こえてくる。
 診察室に入ると、消毒臭い獣医と、なんだか好ましい雰囲気の看護師が待機している。
 看護師に体を撫でられると、何故か満たされる。それとは反対に、獣医に全身を触られるときは、容赦なく触れるので、嫌な気持ちになる。だけども、この獣医には逆らってはいけない気がして、大人しく吾輩は耐えている。そして、パパが吾輩に触ったタイミングで、パパの手に噛みついて、吾輩の溜まりに溜まったストレスを発散するのだ。大丈夫だ。加減は知っている。パパの皮膚が破れない程度にガブリとやるのだ。

 そうだ、吾輩は昔、小さかった頃に、その動物病院で夜を過ごしたことがあった。
 普段、朝ご飯を貰えるのが、その日は貰えずに、朝早い時間からキャリーバッグに入れられた。
 ママとパパが、何やら緊張しているので、吾輩まで緊張した。(どこに連れて行かれるのだろうか?)
 しかしながら、いつもの動物病院であった。(なんだ、いつもの動物病院ではないか)と思っていたのだが、いつもならママたちと一緒に吾輩も家に帰るのだが、その日は、吾輩は動物病院に置き去りにされた。いつもと違った状況になったが、これからどうなるのか、考えても仕方がないと思い、吾輩は大好きな看護師に身を委ねた。
 看護師は、吾輩を入院室のケージに入れた。そこは、金属で出来た牢屋のような部屋で、家のケージよりも頑丈に出来ていた。床にはバスタオルが敷かれていて、いつもと違うトイレが置かれていた。
 ケージに入れられる時に少し見えたのだが。吾輩の部屋の下には大きなラブラドールレトリバーが大人しくしていた。そして、吾輩の隣の部屋には、ミニチュアダックスフンドが居て、寂しいのか怯えているのか、プルプルと震えていた。
 なんだか緊張感のある入院室であったが、吾輩は、どうにもならないと観念して、大人しく眠ることにした。
 昼頃になって、獣医が吾輩の様子を見に来た。
 その頃には、吾輩は目を覚ましていたので、立ち上がって、獣医に「ヒマダヨ」と話しかけた。
 獣医は、独り言のように、
「元気だね。問題ないね」
と言うと、入院室から出て行った。
 そして暫くして、看護師が吾輩をケージから出して、別の部屋に連れて行った。そこで、注射をされて、それからの記憶が無いのだ。
 吾輩は意識が戻ると、体が思うように動かなかった。起き上がろうとしているのに、上手く起き上がれない。意識がぼーっとしてしまうのだ。ちょうど、そのタイミングで、看護師が吾輩の様子を見に来て、獣医に報告をすると、暫くしてから首に大きな円形の物を巻かれた。吾輩はそれが邪魔であったが、上手く動けなかったので、大人しく、されるがままにさせた。
そして、股間に違和感があった。しかしながら、股間を舐めることが出来なかった。首に大きな円形の物を付けられているので、股間を舐めようとしても、その円形の内側しか舐めることが出来ない。吾輩は、もどかしくて、どうにかなりそうだった。しかしながら、それにも、直ぐに諦めがついて、大人しくすることにした。
 その夜、吾輩の隣の部屋に居た足の短い小さなダックスフンドが、一晩中、独り言を言っていた。
(いやだよ。早く帰りたいよ。ママ~。僕を捨てたの?僕はここの子にはなりたくないよ。ママの子がいいよ~。僕は、どうなってしまうの?)
 弱弱しくピーピーと鼻を鳴らして泣いていた。
 吾輩は考えた。
(頭のいい奴ほど、考えすぎて不安になってしまう)
 ミニチュアダックスフンドに比べて、下の部屋のラブラドールレトリバーは、大人しかった。
 吾輩は考えた。
(更に物分かりのいい奴は、不安を我慢してしまう)
 吾輩は、なるようにしかならないと思っていた。
(もしも、この後に嫌なことがあったら、パパをガブリとやって、ストレス解消してやろう)と考えていた。(もしも、あの家族に、また会えたのなら)
 少しだけ、吾輩が家族に捨てられた可能性も考えていた。
 あの後、ママとパパが動物病院に吾輩を迎えに来た。その時、吾輩は、パパの手をガブリとやった。
 家に帰って、暫くして。首に巻かれた円形の物を外してもらってから、股間を確かめた。以前から気になっていた股間のふくらみがなくなって、中のふくらみが無くなった袋がパフパフしていた。暫くの間は、股間にソワソワする違和感を覚えていたが、そのうちに気にならなくなっていった。

 『家』の話に戻ろう。
 リビングと呼ばれる家の中で一番広い部屋に、皆が集まってテレビをよく見ている。時々、テレビを点けっぱなしでママが出掛けるので、吾輩は、留守番をしている間中、ケージの中からテレビを見て、『見聞』を広めている。
 この家の窓の外よりも、ずっと広い世界が、テレビ画面の中にあった。

 吾輩は、『人間とは、実に愚かなものだ』と、テレビを見ていて思うのだ。
 『家』の中だけで生活をしている吾輩が偉そうに言えることではないが。
 猫の喧嘩では、相手を殺すことは無い。
 大抵は、何発か猫パンチをくり出した時点で、どちらが強いか分かるからだ。猫パンチをする前から、相対した初めから分かる場合もある。その為、直ぐに勝負がつくので、弱い方も瀕死の状態になる前に負けを認めて逃げて、少しの怪我だけで済むのだ。互角の場合は、取っ組み合いの喧嘩に発展して、その辺に毛を飛び散らすことになるのだが。
 しかしながら、テレビのニュースでは、人間同士の殺人や、戦争。子孫繁栄に何ら関係のない奪い合い等。人間は無駄な事件ばかりを起こしている。
 人同士の争いは、無駄である。どれもが全て、個人の恨みや欲望から始まっている。
 『社会的動物の代表』のような顔をしておきながら、人間どもが一番社会的ではない殺し合いをしているのだ。

 それに、車による事故によって、人が死ぬことがある。
 猫も、車にひかれて死ぬことがある。
 いっその事、我輩たち猫に合わせて社会を構築すれば、人間も幸せになるのではないかと、吾輩は思うのだ。
 人が移動する為だけであれば、個人の車の利用はしない。乗合バスを使って移動すればいいのだ。そうすれば、事故の確率が下がるだろう。
 又、車のスピードをもっと遅くして、猫が急に飛び出しても、直ぐに停車することが出来れば、猫もひかれないし、それによって、人だってひかれない。
 猫のように、人間も、ゆっくりと時間を過ごせばいいのだ。
 誰のために、人間は急いでいるのか?
 人生に限りがあるからとでも言うのか?
 確かに、命には限りがある。
 しかし、その終わりが、いつくるのかは、誰も知らないではないか。
 それならば、人生をじっくりと味わえばいいではないか。
 何もしていない時間が勿体ない?
 何もしていない時間など無いのだ。
 きっと、何かを考えているだろう。
 その考えている事、思いを巡らしている時間こそが、本当の人生なのではないか?
 動く事が、人生の全てではない。
 ただ歩く、ただ走ることで、何かが生まれることはない。
 考える事で、何かが生まれるのだ。
 ゆっくりすればいいのだ。
 幸福な人生は、安らぎなのではないか?
 猫が家で待っているから、残業をしないで帰ればよいのだ。
 猫が、(寝ヨウ!)と誘うから、早く就寝すればよいのだ。
 猫が、朝になっても(ダマ寝テヨウ!)と誘うから、まだ寝ていればよいのだ。
 猫が、(トイレソウジヲシテ!)と命令するから、猫のトイレの掃除と、そのついでに自らの家の中の掃除をすればよいのだ。
 猫が、直ぐにご飯の味に飽きてしまうから、猫のご飯を工夫する事を考えればいいのだ。
 他に何も考えるな。
 猫の幸せだけを考えろ!
 それをすれば、いつの間にか、猫が大層幸せになっている。
 そんな、猫の幸せそうな様子をみて、人間も幸せになっているのだ。
 誰かと争うとか、考えている暇は無くなるのだ。

 先日、こんな事があった。
 吾輩は、いつもの日課として、窓の外を観察している。
 その日も、いつものように、窓から外の世界を見ていた。
 窓に向かって真っすぐに延びる道に、猫がこちらに向かって走っているのが見えた。
 その猫は、茶色のトラ猫で、大人ではあったが、まだ若い様子だった。茶色の毛が、日の光に照らされて黄金に見えて綺麗だった。しなやかな体つきで、走る姿も美しく、吾輩は見とれておった。
 しかし、その走る姿は、途中で止まってしまった。
 横の道から走って来た乗用車に撥ねられたのだ。車はそのまま走り去った。茶虎の猫は倒れて、そのまま動かなくなった。
 すると、気が付くと、吾輩の直ぐ隣に、その茶虎の猫がいるのだ。
 『いる』と言っても、肉体は道路に横たわったままなので、肉体を置いて、魂だけが吾輩のところに来たのだった。肉体が無いので、オーラというか透き通った光が、なんとなく茶虎の猫の形をして発光していた。
 吾輩は、驚いて、
「なぜ、吾輩のところに来たのだね?」
と尋ねてみた。
 すると、茶虎の若い猫の魂は、
「あなたは、吾輩が死ぬところを見ていてくれました。即ち、吾輩が生きていた証明が出来る猫であり、それだから、吾輩は、あなたのところに来たのだと思います」
と答えた。
「ほう。なるほど」
と答えてみたが、吾輩は、正直、よく分からなかった。
 若い茶虎の猫の魂は続けた。
「吾輩が生きた証明として、吾輩の生きてきた話を聴いてください」
と言った。
 吾輩は、これは大切な供養になるだろうと考えて、
「聴きましょう」
と言って承諾した。
 若い茶虎の猫の魂は、語り出した。

 吾輩が生まれたのは、民家の床下でした。家屋の中心辺りの、外からずっと奥の方で母猫が出産して、暫くは、そこで暮らしていました。
 兄弟は、吾輩を入れて4匹いました。
 母猫は、その民家の人間が、吾輩たちの存在に気が付いて、床下を覗き込むようになった事が気になっていたようでした。
 ある日、兄弟の1匹を母猫が咥えて運んでいきました。そして、暫くして母猫が戻ってきました。母猫だけでした。次に、母猫は吾輩の首を咥えました。吾輩は、膝がお腹につくように体を屈めて、母親に大人しく運ばれました。運ばれた先は、公園の茂みの中でした。そこには、さっき母猫に運ばれた兄弟がいました。
 最終的に、そこに運ばれたのは、全部で3匹でした。
 暫くは、母猫と兄弟と一緒に、その茂みの中で暮らしました。その間に、母猫から、『餌場』を教えて貰ったり、人間や犬、大人の雄猫から逃げる事を教えて貰いました。
 吾輩たち兄弟が、自らで餌を見つけることが出来るようになった頃に、母猫がいなくなりました。
 吾輩たち兄弟3匹だけの生活が始まりました。
 暫くすると、その中でも体が小さかった兄弟が、日に日に弱っていきました。そして、弱って動けなくなった時に、吾輩に言ったのです。
「頑張って、生きてね」
と。
 そして、その兄弟は、直ぐに、この世界から消えました。
 暫くは、残った兄弟と2匹で生活をしていましたが。
 ある日、人間の子供に見つかってしまいました。吾輩は、急いで建物の裏に積まれていた廃材の隙間に逃げ込みました。
 しかし、兄弟は、腰を抜かしてしまい、逃げることが出来ずに、その人間の子供に連れて行かれてしまいました。
 吾輩は、1匹になりました。
 暫く、その廃材の隙間で生活をしていました。
 そこの近くに、大人の雄猫が暮らしていて、その猫が良くしてくれました。餌場を教えてくれたり、危険な場所を教えてくれたり、猫の集会にも連れて行ってくれました。
 猫の集会で恋もしました。
 その雌猫を取り合って、他の雄猫と喧嘩もしました。
 吾輩の子供も生まれました。
 毎日、毎日、歩き回って、凍えるような寒さや、雨風にも耐えました。
 頑張って、生きました。

「これが、吾輩の生きた道です」
と若い茶虎の猫の魂が締めくくった。
 吾輩は、『恋』というものが、よく分からなかったが、ここで吾輩が質問するのは違うと考え、質問を飲み込んだ。
 若い茶虎の猫の魂は、真剣な様子で、吾輩に言った。
「お願いがあります」
 吾輩は、これも供養と考えて、何でも叶えてやりたいと思った。
「いいですよ。聞きましょう」
と吾輩は答えた。
 若い茶虎の猫の魂が言った。
「『お疲れ様』と言っていただけないでしょうか」
 吾輩は、少しだけホッとした。
(『お疲れ様』と言うだけなら、お安い御用だ。しかし、気持ちを込めて、最高の『お疲れ様』を言ってあげたい。上手く言えるだろうか?)
 吾輩は、口の中の唾液をコクリと飲み込んでから、
「お疲れ様」
と若い茶虎の猫の魂に、心を込めて言った。穏やかな響きで、我ながら良い感じに言えたと思った。
 若い茶虎の猫の魂は、ふっと安心した雰囲気になった。
 そして、意図せず、吾輩は、
「よく頑張って生きたね」
と言っていた。まるで、誰かに言わされたようだった。勝手に言葉になっていた。
 若い茶虎の猫の魂は、それを聴くと、目を細めて幸せそうな表情になって、この世界から消えた。

 吾輩も、いつか、この世界から消える。
 最近、ソファーから降りる時などに、胸が苦しくなることがある。
 吾輩が、この世界から消える日が近づいているように感じている。
 しかしながら、猫のプライドなのか。弱っているところを、ママやパパやエンジェルには、見せたくないという気持ちがある。
 胸が苦しい時は、そのまま、そこに横たわって、寝たふりをすることにしている。そうすると、エンジェルが嬉しそうに、「ダイが、落ちてる」と言って、ママに報告するのだ。そして、吾輩が横になっているところに、エンジェルが一緒になって横になって、吾輩の体を優しく撫でてくれるのだ。
 エンジェルに撫でられると、胸の苦しさが和らぐ。そうして、体が落ち着いたら、吾輩は起き上がって、エンジェルに甘えてみせるのだ。そうやって、誤魔化すのだ。

 その日の夜も、吾輩は、ママの枕の上でママが来るのを待った。
 ママは、寝室に来ると、吾輩が居るのを見て、
「またぁ。ダイが枕を占領してる~」
と言って嬉しそうに笑った。
 吾輩は、枕を占領したいのではないのだ。ママの頭にくっついていたいのだ。
 頭をくっつけると、何故だか、体の他の部分よりもずっと近くに感じられるのだ。ママの頭に、吾輩の頭をくっつけるのが、吾輩は大好きなのだ。
 ママの為に、少し体を動かして、ママの頭が枕に乗せられるように場所を作った。ママは、そこに頭を乗せて、吾輩の体を撫でると、
「ダイ。おやすみ」
と言って、部屋の明かりを消した。

 その日の朝は、いつもとは違っていた。
 吾輩の魂が、吾輩の体を置き去りにして宙に浮いていたからだ。吾輩の体を、上から見下ろしていた。ママの枕に、前足と後ろ足を伸ばしたコの字型の体勢で、吾輩の体が横たわっている。
 暫く見ていると、ママが目を覚ました。
 ママは直ぐに違和感を覚えた様子だった。いつもであれば、吾輩は既に起きていて、リビングの窓から外を見ているからだ。それが、ママの枕にいることで、いつもと違う事に気が付いた様子だった。
 ママは、寝たままで、
「ダイ。おはよう」
と言って、吾輩の体を撫でた。吾輩の体は、まるで凍っているかのように、柔軟性がなくなっていた。
 ママは、飛び起きて、吾輩の体を揺すぶった。吾輩の体は硬いままで、揺れるだけだった。
 そして、ママは、直ぐに部屋を飛び出して、パパとエンジェルを起して連れてきた。
 ママは、泣きじゃくって、ベッドの上に座って、吾輩の背中を優しく撫でている。エンジェルは、ベッドの脇から吾輩の顔の前に顔を近づけて、吾輩の頭を撫でた。そして、みるみる泣き顔になって、そのうちに、鼻水をすすりながら泣き出した。
 パパは、2人の様子を見ながら、ただ立っている。
 暫くすると、エンジェルが、
「パパ」
と言って、パパに場所を代わってやった。
 パパは、エンジェルがしたのと同じように、吾輩の頭を撫で続けた。
「ありがとう。ダイ」
と言うと、涙を静かに流していた。

 吾輩は、その様子を見て、(吾輩は、愛されていたな)と思った。
 そして、(大切にされていた)と気が付いた瞬間。
 吾輩は、この世界から消えた。


※引用:『吾輩は猫である』 夏目漱石 著


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