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短編小説:「ニャーニャー」

 いつの間にか、眠ってしまっていた。
 お昼ご飯を食べた後に、急に強い眠気がして、ソファーに横になって、そのまま眠ってしまっていた。
「ニャーニャー、ニャーニャー、ニャ~ン?」
 リビングの窓辺で、娘と猫が向かい合って、ニャーニャー言っている。
 僕は、ソファーに横になったまま、その光景を見つめていた。
 そして、ぼんやりと考えた。
(あの『ニャーニャー』は、どんな意味なんだろう?何を話しかけているのだろう?)

 猫の成長は早い。1年で大人になってしまう。
 2年前の娘の誕生日にプレゼントした時には、生後2カ月くらいで、片手に乗る大きさだった。
 『ダイ』と名付けたせいか、ダイは大きくなった。雑種の猫だけど、8キロあるのは大きい方だろう。
 それにしても、ダイは普通のそこら辺にいる猫よりもずっと大きいな。大きくなり過ぎなのではないか?

 娘も、小学校一年生か。
 ダイほど、体の成長が早くないから、まだまだ小さい子供だと思っていたけど。小学一年生か。
 早いな。

 それにしても、猫を飼うには、お金がかかる。
 猫を飼う事を妻と相談していた時に、妻から「猫が病気して予定外の出費が出る事もあるだろうから、家計費から捻出できない」と言われたので、僕の小遣いで猫の面倒をみることになった。
 ダイは雄(オス)だから、不妊手術は『去勢手術』なので、雌猫(めすねこ)よりも手術代は少なかった。だけれども、毎年のワクチン注射、日々のご飯代、トイレの砂代、おもちゃ代。家族旅行の間のペットホテル代。なんだかんだで、年間で何十万もかかっている。
 独身の頃からの趣味の映画鑑賞を結婚してからは・・・。たまに妻に内緒で、一人で映画館に行ってたけれど。娘が生まれてからは1度も行っていない。行けなくなった。いや、行っている場合ではなくなった。家で妻が一人で赤ちゃんの面倒をみるのは、大変だし。「子供の成長は早い」と職場の人達に言われて、娘の成長をしっかりと見ていきたいと思った。
 映画の分のお金で、ダイの面倒をみれると思っていたけど。とんでもない。何倍もかかる。僕の個人貯金のペースがぐっと遅くなった。

 いやいや、ダイにかかるお金なんて、娘にかかるお金に比べたら可愛いものなのかもしれない。
 僕も妻も、子供には、どうしてもピアノを習わしたくて、娘をピアノ教室に通わせているけど。狭い家にピアノを置くスペースがないから、コンパクトサイズの小さな電子ピアノを買った。素人の僕にも分かるくらいに、嘘くさい音を出す。きっと、もう少し大きくなったら、本物のピアノが欲しいと言い出すだろうな。その頃に、何かのはずみで景気が良くなって、僕の給料もグンとアップするとか、そんな事になっていたらいいけど。給料が上がる気配なんて、これっぽっちも無い。

 寧ろ、世の中の不景気や格差を、嫌と言うくらいに肌で感じる。
 この前も、「業績好調の為、従業員を増員しました」と言って、3人ほど増員されたけど。みんな派遣社員だった。直接雇用ではない。しかも、その3人全員が、20歳代の若いコ達で。
 僕は彼らに「みなさん、宜しくお願いします」と笑顔で挨拶をしたものの、内心では(ウチの会社なんかに派遣で来てないで、せめて直接雇用される会社に行った方がいいんじゃないか?)と思っていた。まだ1か月も経っていないから、実際のところは分からないけど。みんな、善いコなんだよな。だから、本当にもったいない。

 そういえば、あの子は元気にしているだろうか?
 中途採用の人員ばかりのウチの会社には珍しい新卒入社の女の子だった。
 ある時、会社の廊下で彼女から声を掛けられた。「ちょっと相談してもいいですか?」
 僕が若かったら、何かを期待してしまうシチュエーションなのだろうけど、50歳目前の僕は、20代のコ達からしたら、ずっと大人で、相談しやすい親とか親戚みたいな存在なのだろう。そう考えると、ちょっぴり残念な気持ちになる。そのコと、どうこうなりたいということではない。自分が、『年寄り』に近いってことが、残念で寂しい気持ちになるんだ。
 それに相談も本当にちょっとの相談で、彼女は廊下に立ち止まって話し始めた。唐突に「私、オタクなんです」と言った。僕は、(え?何の告白?)と内心では少し驚いたけど、「オタク?いいじゃない!これからは、オタクの時代だよ」と彼女に言った。
 僕は本当に、これからはオタクの時代だと考えている。どんな分野にしろ、1つの事に情熱を注ぐことは良い事だ。入り口は小さな1つかもしれないけれど、情熱を注いでいくと、それに関連した事にも視野が広がっていって、今まで知りもしない知ろうとも思っていなかった分野の知識も増えたりする。僕もそうだった。映画から沢山の視野を貰ったからだ。
 彼女は、「私、PC。パソコンのオタクなんです。それで、転職を考えていて・・・。」と言った。
(なるほどな。人事部でもない。管理職でもない僕は、それであれば相談しやすい人物だからな。他の人とベラベラ会話もしないし、他の同僚よりも口が固いと思ってくれているのかな?そういった意味では適任者だったのだろう)と思った。
 僕は、その一瞬の間に、色々と考えた。(食品系の小さな商社であるウチの会社では、PCに関しての業務はあまりない。インターネットの企業ページも外注だし。特別なソフトウェアも必要ない。PC業務として必要だと思うのは、PCのセットアップだったり。PCのトラブルだったり。しかも、単純なトラブルで、少しだけPCに慣れた人だったらトラブルとも思わないようなレベルだったりする。PCオタクの彼女が、楽しんで出来るPC関連業務は無い。しかしながら、ここで僕がそれを言って、若い社員を退職させるというのは、会社的に、どうなんだろう?だけど、彼女の人生において、好きなPC関連の仕事に再就職をするのであれば、早い方がいいだろう。この会社では何の実績も詰めない。会社に良い顔をするのか?彼女の人生を精神的に豊かにするのか?)
 彼女がPCへの情熱とウチの会社ではPC関連の業務が無いという不満を僕に話しているようで彼女自身に言い聞かせているのを聞いて、彼女が最後に「どう思いますか?」という言葉を発した後に、(会社か?彼女の人生か?)の問いの結果を出した。
 僕は会社を裏切るような気持ちになったが、広く社会として見た時に、彼女がウチの会社で疲弊するのは社会的にも違うなと考えた。「ウチの会社だとPC関連の業務は無いからね。僕は、転職はいいと思うよ」と彼女に言った。
 彼女は嬉しそうに「谷さんなら、そう言ってくれると思っていました」と言って、満面の笑顔を僕に見せて、早々に廊下を歩き去っていった。
 それから2カ月も経たないうちに、彼女は退職した。彼女が上司にどのように話をして辞めたのかは一切分からなかったけど、僕が更に管理職から嫌われた雰囲気を感じた。もう、どんなに頑張っても、僕は出世しないだろうな。

 あれ?何でこんなことを考えていたんだっけ?
 そうだ、ピアノの話だ。
 ふとテレビ画面に目をやると、巴里オリンピックの体操女子の映像が流れていた。
(このコ達って、小さい頃から体操教室とかに通っていたり、私立の学校で専門的に体操をしてきたんだろうな?)と頭の中で独り言っぽい事を言った。
 娘が、もう少し大きくなって、「体操をやりたい」とか、何か他の事をやりたいって言い始めたら、僕はさせてあげられるだろうか?勿論、今のままでは経済的に無理だ。ダイだけで、いっぱいいっぱいなのに。

 だけど、ダイを飼って良かった。
 ダイがいるおかげで、トイレ掃除とかブラッシングとか、やらなきゃいけない事も多くなって、時間も体力も消耗しているけど。
 ダイのそういった時間が、気分転換になっているところもある。
 娘の将来の話とか、妻の職場の話とか、僕自身の職場の事とか。ダイがいなかったら、そういった事の不安な部分を考える時間が多くなってしまって、ストレスが溜まっていっただろうな。

 ダイ自身は、幸せなのだろうか?
 相変わらず、ダイと娘は向き合って、ニャーニャー言っているけれど。もう、かれこれ30分位、ニャーニャー言い続けている。娘とダイとで、話は通じているのだろうか?
 娘は、自分の気持ちを僕たちに言葉で伝えることが出来るけど。ダイは言葉で説明する事が出来ない。
 いや、待てよ。娘だって全てを言葉で伝えているわけではないだろう。僕がそうだからだ。僕だって、本心を全て言葉にしていない。寧ろ、僕は話をするのが苦手だ。何かを決定する場面では、自分の中に最良の考えを持っていても黙っていて、他の人の意見を優先させてしまう。それが、僕の考えよりも、劣っていたとしても。
 きっと、多くの人達が、僕と同じなのだろう。そうやって、争いが起きないように収めているのだろう。だけど、それじゃあイケナイことも沢山ある。世の中が悪くなってしまう可能性がある時には、きちんと言葉にしなくちゃ、本当はいけないんだよな。だけど、僕一人が発言したところで、潰されて、始めから無かったことにされてしまうんじゃないかと考えると、発言する事も無駄なように思えて、ついつい、言葉を飲み込んでしまうんだよな。

 ずっとニャーニャー言っているけど、話は通じているのだろうか?
 まあ、この30分間、ダイはずっと黙っていて、ニャーニャー言っている娘を見つめているだけなんだけれども。

 僕は、ソファーに横になったまま、手足を思いっきり伸ばして
「んー」
と言って伸びをした。
 そして、起き上がって、娘とダイのところに行って、僕はダイの頭を撫でて、
「にゃあ」
とダイに言ってみた。
 すると、ダイが僕の目を見て、目を細めて、
「にゃー」
と一声鳴いた。
 僕の言葉は、ダイに通じたみたいだ。
(好きだよ。ありがとうね)
 ダイは、
(分かってるよ)
と言っていた。と僕は思った。

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