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短編小説:「息子の愛しい人」
西暦2071年
私の一人息子の月光(らいと)が、結婚しました。
私は、83歳になる母と一緒に息子の結婚式に参列しました。
私も母も早くに夫に先立たれていて、息子の結婚相手の百花(ももか)さんに、ご両親が揃っている事が、私を少しだけ寂しい思いにさせました。
披露宴会場の親族席から、お友達や同僚の方たちに祝福されて幸せそうに笑う息子と百花さんの笑顔を眺めて、私は自然と頬が緩んでいました。
だけど、ふと、この後に息子が、私に向けて『母への手紙』を読むことを思って、心苦しくなりました。
息子が2歳の時に、私は息子を(昔でいうところの児童養護施設である)マミーズホームに入所させました。
夫を癌で亡くし、経済的にも精神的にも、子育てを1人で行う事が私には出来ませんでした。
マミーズホームに入所すると、退所するまで親子の面会や連絡のやり取りは出来ません。
私自身も高校2年から就職した年まで、マミーズホームに入所していました。
亡くなった父や、母に会えない辛さはありましたが、マミーズホームに入所している間は、生活に関しての不安は全くなく、マミー資格取得者の職員が交代でお世話をしてくれて、出来るだけ一般的な家庭と同じ状況で生活をすることが出来ていましたので、卑屈になる事もありませんでした。
私は、私自身の経験があったので、私が一人で育てるよりも息子が幸せに成長できると考えて、マミーズホームに入所させました。
そして、息子は、3年前にマミーズホームを退所しました。
私がマミーズホームを退所する時は、退所前の母との初めての面会で、母が泣き崩れて、私自身も、どのように接するべきなのか分からずに戸惑ったのを覚えています。
しかしながら、3年前の息子との面会の時には、私は、息子の成長した姿が2歳の時の息子の姿とは違い過ぎて、圧倒されてしまいました。
区役所の担当者と、息子が入所していたマミーズホームのマミー職員と、私と息子の4人での面会だったのですが、私自身がマミー職員として他のマミーズホームで働いている事もあって、そういった面会に慣れてしまっていて、感動の親子の再会というよりも、息子に対して3人のマミー制度担当者との面談のような雰囲気になってしまいました。
そんな中で、息子は緊張することなく飄々(ひょうひょう)としていて、私が息子のそれまでの生活について質問をすると、微笑みながら淡々と答えていました。
私自身も、我が子との久しぶりの再会であるにも拘わらず、さらっとした雰囲気で、そこに居てしまいました。
面会の最後、立ち上がった際に、大きく成長した息子の頭を両手で包んで、
「ありがとう」
と言ったとたんに、私の両目から大粒の涙がポロポロと落ちていきました。
近くで見る息子の顔に、夫と父の面影があったからです。
そして、柔らかだった2歳の時の息子の髪の毛は、今は大人のゴワゴワした髪の硬さになっていました。
(大きくなったんだなぁ)と強く実感すると同時に、長い間、離れていた寂しさが、急に膨れ上がって弾けてしまいました。
息子も少し泣きそうな顔になっていました。
私は、その息子の表情を見ると、意図せずに、
「ごめんね。ごめんね。ごめんね。・・・」
と繰り返し言っていました。あの時の母と同じでした。
息子は、私の肩に手を置いて、
「大丈夫だよ。お母さんは頑張ってきたんでしょ?僕は幸せに育ててもらったから」
と言ってくれました。
その言葉を聴いて、私はよけいに泣いてしまいました。そして、息子が入所していたマミーズホームのマミー職員の方も、大泣きしていました。
その後、2回の面会を重ねて、息子はマミーズホームを退所しました。
退所後は、私がしたのと同じように、母である私の家の近所で息子は暮らし始めました。
私も母の近所で生活をしているので、息子が退所してから、母と息子も再会しました。
母は、息子と初めて再会した時に、息子が父に似ているものだから、驚いて大泣きしました。
母は少しだけ痴呆があるので、息子が父の亡霊ではなく母の孫である事を理解するのに、30分くらい時間がかかりました。
母は、息子が父に似ている事がとても嬉しかったようで、息子の為に毛糸を編んで、マフラーやセーターなどを息子にプレゼントする事が生きがいになったようでした。
毛糸を選ぶ時に、私も一緒に買い物に付き合うのですが、「どんなマフラーがいいかしら?」とか、「どの色が似合うかしら?」とか、「気に入って貰えるかしら?」など、昔の少女漫画の恋する乙女のようでした。
息子は、小学校の教師をしています。教科担任資格の他に、生活・進路指導教諭の資格も大学院で取得しているので、将来的には校長などの管理職も目指しているそうです。
なんでも、マミーズホームに入所している間に、(私も同じでしたが、)マミーズホーム内にある自習型学習塾でアルバイトをして、子供たちに勉強を教えていたそうで。その時に、子供達から「分かり易い」と褒められて、教師を目指したそうです。
息子と母と私は、月に一度は、必ず会食をしました。
母は、本当に嬉しそうで、それまで私と2人きりで食事をしていた時よりも、顔の血色が良く、生き生きとしました。
ある時、息子が、「紹介したい人がいて、今日は一緒に連れてきた」と言って、百花さんを会食に連れて来ました。
同じ学校で働いていて、同じ歳とのことでした。
百花さんは、ふんわりと柔らかい印象で、笑顔の可愛らしい女性でした。その印象は、今も変わりありません。息子だけでなく、私達にも気遣いをしてくれます。
母は、百花さんに初めて会った日は、あまり笑いませんでした。
どうやら嫉妬をしていたようです。
だけど、そのうちに、百花さんの気遣いに嫉妬心もとけて、今では息子と同じくらい、百花さんの事が大好きです。4人の会食なのに、まるで私が居ないみたいに、母は、息子と百花さんに夢中でした。ちょっと私がジェラシーでした。
そして、2人は結婚式を迎えました。
「宴もたけなわでございますが・・・」の司会者の声が聞こえました。
いよいよ、息子からの『母への手紙』の朗読が始まってしまいます。
私は母の車椅子を押して、高砂席の脇の少し空いているスペースに係の人に誘導されました。少し離れて、百花さんのご両親も誘導されて来ました。
先に百花さんが、百花さんのご両親へ宛てた手紙を読みました。
百花さんの小さい頃からのご両親とのエピソードが綴られていて、百花さんがご両親と一緒に生活して、ご両親に愛されて成長してきたことが充分に分かる内容でした。
百花さんのご両親は、2人とも泣かれていました。
そして、私も、その手紙の内容を聴いていて、息子と一緒に居てやれなかったことを悔いました。そして、私も泣いていました。
そして、息子からの『母への手紙』の朗読の番になりました。
「お母さん。おばあちゃん。」
ここで、私だけではなく、おばあちゃんである母にも宛てて息子が手紙を書いたことに息子の優しさを感じました。
(マミーズホームで、善い子に育てて頂いた)と感謝しました。
「私が、2人と再会したのは、3年前でしたね。22年ぶりの再会でした。
僕は、マミーズホームで2歳から生活をしていました。」
披露宴会場に小さな響動めき(どよめき)が起こりました。百花さんのご両親は俯いて(うつむいて)、じっとしていました。
「父が亡くなり、母一人での育児は難しいということで、母は苦渋の選択をしました。
私は、ちょっと鈍い子供で、マミーズホームに入所した数日後に、母と会えない事に気が付いて、そこで大泣きをしたそうです。
私は、その母の選択は間違っていないと思っています。
一人で育児をすることで、母が疲れ切ってしまうよりも、母が無理をせずに、元気でいてくれた事の方が私は嬉しく思います。
それに、母は元々看護師の仕事をしていましたが、私がマミーズホームに入所した事をきっかけにして、母はマミー資格を取得して、私が入所しているマミーズホームとは別のホームですが、マミーとして働き続けて、今もマミーとして、沢山の子供達を育てています。
私は、母がマミーとして、別のマミーズホームで働いている事を知っていたので、私のお世話をしてくださっていたマミー職員の方の仕事ぶりを見て、『お母さんも、こんな風にマミーの仕事をしているのかな?』と想像して、誇らしく思っていました。
それに、沢山のマミーや、一緒に生活をしている子供達との生活は、愛情に溢れた楽しい生活でしたので、寂しいと思った事はありませんでした。
マミーズホームを退所する事が決まって、母と再会した時には、始めは、どうしていいのか分からなかったけど、母に抱きしめられた瞬間に『お母さんだ!』と実感しました。22年間という時間が埋められたような気がしました。
私がマミーズホームを退所してから今日までの3年間。おばあちゃんと、お母さんは、22年分の愛を注いてくれたと私は感じています。
これから、私は百花さんと家族になります。
一緒に暮らすことは出来ないけれど、おばあちゃんと、お母さんも。私の大切な家族です。
そして、百花さんのご両親も、私を家族にしてくださって、ありがとうございます。
未熟な2人ではございますが、これからも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。」
披露宴会場から大きな拍手が沸き起こりました。
母はハンカチで涙を拭いました。私は、ずっと泣きっぱなしで聴いていました。
そして、翌年の西暦2072年。
息子夫婦に男の子が生まれました。
母は、ひ孫を抱いて、泣きました。
母の晩年は、息子のおかげで、とても幸せだったと思います。
母は、その年に息を引き取りました。84歳でした。
息子は、母が亡くなった後も、母が息子の為に編んだマフラーを愛用し続けています。
大切な恋人から貰ったマフラーのように。
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