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短編小説:「IQ」

「上野さん。ちょっといいかな?明日のランチなんだけど、何か予定あるか?」
と言いながら、突然、社長が総務課の部屋に入って来て、まっすぐに僕のデスクに向かって、笑顔で歩いて来た。
 様々なことに余裕のある人というのは、歩き方にも余裕があるものなんだな。社長は年齢のわりに、ゆったりと大きい印象を与える歩き方だ。体つきも背は俺よりも低くて小柄なのにだ。
 しかしながら、顔からの圧が強い人だ。社内報で社長の顔写真を見るたびに、俺は「圧がつえーなぁ」と独り言を言っている。
 それに、総務課のメンバーが、皆、驚いているのが空気に現れていた。皆初めは、驚いて動作が止まっていたが、それぞれが我に返って、社長に会釈をしたり、「お疲れ様です」と声を掛けていた。
 滅多に顔を見ることがない社長が、急に目の前に現れたら、そうなるのは当たり前だ。
 俺は、立ち上がって、社長に、
「お疲れ様です」
と言って深めに会釈をした。そして、
「明日のランチは、特に予定はありません」
と答えた。
 社長は、笑顔で、
「そうか。そりゃあ良かった。明日のランチの時間、12時に社長室に来るように。弁当は持ってくるなよ」
と言うと、真顔になって俺の顔を見た。
 俺は、それが冗談なのか何なのか分からなかったが、とりあえず、
「はい。承知いたしました」
と答えて、社長の様子を観察した。
 すると社長は、満足そうに満面の笑みを浮かべて、
「よし!じゃあ、明日、12時にな」
と言って、部屋を出て行きながら、総務課のメンバーに、
「みんな、ご苦労さん。毎日、ありがとうな」
と言いながら、出て行った。

 社長が部屋から出て行くと、俺はそのままストンと落ちるように椅子に座った。
俺は、色々と考えた。
 何か問題行動があっただろうか?
総務課長になって、まだ2週間だ。俺もまだまだ緊張しているし、慎重に業務を行っている自信がある。だけど、俺が気づいていないだけで、何か大きな失敗をしていたのか?
 ものすごく心配になったから、目の前のデスクに座っている谷さんに、
「谷さん。ちょっといいですか?」
と言って、谷さんを休憩室に連れ出した。

 休憩室には、誰も居なかった。良かったと思った。
 俺は誰もいない事を確認すると、
「谷さん。俺、何か問題行動がありましたか?」
とストレートに訊いた。
 谷さんは、少し考えて、
「いや。僕には問題は思い当たらないな。寧ろ、上野さんが課長になってから、職場の雰囲気はすこぶる良いと思っているよ。流石なだぁ」
と言ってくれた。
 その答えは、俺が求める答えになっていなくて、俺は困った。
「いや。谷さんの気が付かないところで、何か、やらかしたのかもしれない」
と弱音を吐いた。
 すると谷さんは笑って、
「違うよ。きっと、噂に聞く『昇進ウナギ』だよ。きっと」
と言った。

 翌日。
 俺は、緊張しながら、社長室へ向かった。

 仕事で謝罪をする時に着るようにしているダークスーツを着て、それに合わせて暗めの色のネクタイを異常なくらいに気を付けて綺麗目に締めた。
 総務課のメンバーは、俺に「今日は、何か雰囲気が違いますね」とそれぞれが言ってきた。それに対して俺は、「今日はちょっと」と言うしか出来なかった。
 午前中に何度もトイレに行き、その度に、鏡の前でネクタイを直した。
 普段は、会社のトイレで鏡を見る事は、ほとんどしない。他の人が、鏡の前で身なりを整えているのを見かけると(何、色気づいてんだよ)と思っていて、自分がそれをするのが嫌だった。
 谷さんは、俺が緊張しているのに気が付いていて、「大丈夫だよ」と言って優しく笑ってくれていたけど、谷さんが本当の事を知っているわけじゃない。

 とうとう社長室の前に到着してしまった。
 スマートウォッチで時間を見ると、11時55分だった。
 早くもなく、遅くもなく、丁度良い時間すぎて、そこから逃げ出すことも出来ず、社長室のインターフォンのボタンを押した。
 すると、扉が開き、初めて見る顔の女性が、
「お入りください」
と言って、僕を部屋に通した。
 部屋と言っても前室であり、数人の秘書のデスクが並ぶ秘書のブースと、そこから少し離れたところに、待期する為のソファーがあった。以前、カウンセリングで利用していたメンタルクリニックに似ていると思った。受付があって、待合のソファーが並んでいる、その光景に似ていた。だけど、社長室の方がずっと綺麗で明るかった。
 秘書の人に、ソファーに座って待つように促された。秘書の人達に見られるのが嫌で、ソファーの直ぐ隣に置いてある大きな観葉植物に隠れるようにソファーの端っこに座った。
 座ったとたんに、さっきの女性が社長に確認して直ぐに戻って来て、
「どうぞ。お入りください」
と呼んだ。
 座って、直ぐに立って。そのせいもあって、心拍数が上がったのを感じた。緊張している自分が嫌になった。

 社長が普段仕事をしている社長室ではなく、社長室の隣にある面談室に通された。
 社長室の前室も初めて入ったけど、面談室は、会社の他の部屋と違って、壁に綺麗に塗られた板が張られていて、ログハウスよりもカジュアルではないが、金持ちの別荘を想像させる雰囲気だった。そうなると、社長室がどんな部屋なのか、ちょっと気になった。
 そして、面談室には黒い革製のソファーセットが置かれており、部屋を入ると正面に、老齢の男性が2人並んで座っていた。
 上手(かみて)に会長が座り、その隣に、大股を広げて踏ん反り返るようにだらしなく社長が座っていた。
(会長もいるのか・・・)
 更に緊張が走った。
 そして、2人の目の前のテーブルを見ると、そこには、重箱と箸が三膳分とペットボトルのお茶が並べられていた。
(やっぱり、飯を食うのか?)
 社長が、圧の強い迫力のある顔で、
「おう!上野くん!遅いよ。待ちくたびれたよ。腹ペコだ」
と陽気な酔っ払いのように言った。
 それをなだめるように、
「いや。5分前だから、彼はきちんと時間通りに来たよ」
と会長が言って、そして俺にも、
「気にするな。君は時間通りだから」
と穏やかな口調で言ってくれた。
 そして、会長が穏やかなトーンで、
「まあ、こちらに掛けたまえ」
と言って、俺を二人に向かい合う席に座るように促した。
 俺は、オドオドしていたと思う。
 体が委縮していて、小股で歩き、席に座った。
 席に座ると、正面には、顔の圧が強い社長がいて、俺の顔をマジマジと覗き込んできた。
 俺は、何故、呼び出されたのかが分からない事が気持ち悪くて、早々に二人に質問をした。
「あの、今回の呼び出しは、どのようなことなのでしょうか?」
 二人とも、俺の顔を覗き込んで、頬を緩ませた。二人は優しそうな眼をした。
 社長が言った。
「お祝いだよ。総務課長就任の!」
 俺は、
「はあ」
と言った。
 会長が穏やかな声で説明をしてくれた。
「この会社は、人事部がないだろう?実際に、人事の実権を握っているのは社長と会長の我々なのだが。知っていると思うけど、我々は、グループの他の会社の方を主に見ているから、我々が社員全員について熟知しているわけはない。目立つ人事しか分かっていない。そうなると、実質的には、総務課の課長が、人事権のトップになるわけだが。人事っていうのは恨まれるからね。実際の執行は、我々がするわけだ。だけど、分かっていないのに人事の采配を振る事は出来ない。そこで、総務課長との連携が必要になるから、代々の総務課長が就任する時に、呼び出して、会食をしているのさ。なんでも、社員の中では『昇進ウナギ』と呼んでいるそうだね」
 俺は、
「はあ。私は知らなかったのですが。私が何かミスをして怒られるのではないかと思い、谷さんに相談をしましたら、谷さんに『昇進ウナギ』なのではないか?と言われて、初めて、『昇進ウナギ』というものがあることを知りました」
と正直に答えた。
 会長は、満足そうに微笑んで、
「そうか」
と言った。
 そして、社長が、
「ほら、腹が減ったから、食べよう。せっかくの鰻重が冷めちまうよ」
と言って、重箱の蓋を開けた。
 重箱の中には、重箱のサイズぴったりに、茶色くて照り輝いている『蒲焼』と真っ白い状態で焼かれたウナギらしきものがあった。
 会長に促されて、俺も重箱の蓋を開けた。
(この白いのはなんだ?)
とその白いものを見つめていると、それに気が付いた会長が、
「『ウナギの白焼き』は初めてかい?」
と言った。
 俺は、
「はい」
と答えた。

 俺は、ウナギが嫌いだった。
 小学生の時に、テレビ番組などで、タレントがウナギを食べる時に、それはそれは大層なものであるかのように、「美味い、美味い」と言って食べているのを見て、(もの凄くウナギって美味しいものなんだ)と憧れを持っていたところがあった。夏の土用の時期は、スーパーマーケットでも、焼き肉と同じくらいに、売り場が華やかだった。ある時、母さんに買い物に付き合わされた俺は、母さんに「ウナギが食べたい」と言ってみた。普段、ねだっても却下され続けていたので、俺は『おねだり』はしなかった。だけど、この時は、何故かねだっていた。しかし、珍しく何故か母さんが「そうね。特売だし、今日は鰻にするか」と言って、特売のシールが貼られたウナギの蒲焼のパックをスーパーのカゴに入れた。
 その晩は、両親と三人でウナギを食べた。
 丼(どんぶり)にご飯を盛り、その上に、ウナギの蒲焼の味付け海苔くらいのサイズのが乗っかっていた。親父の丼には2倍の大きさの蒲焼が乗っていて、母さんの丼には、俺と同じサイズの蒲焼が乗っていた。
 俺は、ウナギが勿体ない気がして、ご飯のウナギのタレが少し染みている部分を最初に食べた。ご飯とタレの合わさった味は美味しかった。
「美味しい!!」
 俺は、大きな声で言って、母さんの顔を見た。
 母さんも嬉しそうにして、
「そんなに美味しいの?」
と言って笑った。
 親父は飯の前から日本酒を飲み始めていて、鰻丼を食べる頃には、酔っ払っていた。上機嫌になりながら俺に、
「俺に感謝せえよ。俺のおかげで鰻が食えるんだぞ!」
と言って、真っ赤な顔をしながら日本酒をグビリと飲んだ。そして、ウナギの身を一口食べると、
「うめぇなぁ」
と言って、又、酒を一口飲んだ。
 親父が美味そうに食べるので、俺もいよいよウナギを食べることにした。
 箸で一口分を切り分けようとしたけど、身の下の方がネチャッとして、グネグネした灰色の皮の部分に厚みがあって、箸で上手く切れなかった。仕方がないから、蒲焼を丸ごと箸で持ち上げて、嚙み切る事にした。
 口に入れると、みたらし団子の周りのタレに似ているけど、それよりは醤油の味の濃い味が広がった。下の歯に皮が当たって、ぬるりとした触感があった。かぷりと嚙みつくと、タレの香りと同時に、泥臭さが鼻に抜けた。
(不味い)
と思った。
 泥臭いし、皮のゼラチン質の感じが気持ち悪くて、あんなに憧れていたウナギが、こんなにも不味い物なのかと俺はショックを受けた。だけど、親父も母さんも「美味い」と言っていって幸せそうな笑顔でウナギを食べている。
 俺は、そんな両親に、「ウナギが不味い」とは言えなかった。
 それから、俺が就職して家を出るまで、数年に1回くらい、家の食卓にウナギの蒲焼が出る事があったけど、俺は泥臭いウナギの味が好きになれなかった。だけど、ウナギが高価な物だという事を知っていたから、文句を言わずに食べた。
 社会人になってから、会社の近くの飲食店街を歩いていると、ウナギの専門店が目に入る事がある。前を通る度に、こんな不味い物に2000円以上の金を払って、よく食うなぁと思っていた。

 会長が、『ウナギの白焼き』を勧めてきた。
「『白焼き』をやっている店はあまりないんだよ。わさびを少しだけ乗せて、食べると美味しいよ」
と食べ方を教えてくれた。
 俺は、ウナギを食べること自体に躊躇していたので、無意識に口に運ぶのを避けるために、
「ああ、蕎麦みたいな感じですか?つゆをつけずに、ワサビだけで頂くみたいな」
と言って会話を広げた。
 会長は、
「そうだね。蕎麦と同じだね。君、蕎麦の食べ方が通だね。蕎麦が好きなのかい?」
と続けた。
 俺は、
「ああ、はい。子供の時に食べていた蕎麦は別に好きではなかったのですが、営業の時に営業先の社長さんにお昼をご馳走になった時、美味しい蕎麦屋に連れて行っていただいてから、すっかり蕎麦にはまってしまって」
と言うと、会長は楽しそうに笑って、
「美味い蕎麦は、美味いよね」
と、某国会議員の構文のように言った。
 そして、俺がウナギに箸をつけないのが気になったようで、
「さあ、ほら、遠慮しないで。お食べなさい」
と言って促した。社長は、もくもくと鰻重を食べ進めて半分以上を既に食べていた。
 俺は、意を決して、『白焼き』にワサビを少しだけ乗せて、箸を入れた。
(タレでも誤魔化せないくらいに泥臭いのに、『白焼き』だったら、どれだけ泥臭いんだよ。だけど、会長に勧められたら食べないわけにはいかないし、別にアレルギーとかで死ぬわけではないから、食べるしかない)
 箸は、すっと、白身を突き抜けて、ご飯に箸の先が触れた。
(あれ?皮を剥いであるのか?)
そして、一口分を口に入れた。
(泥臭・・・く・ない)
 口に中に、白身魚の淡白なふわっとした感触が広がり、特に泥臭さも魚臭さも感じなかった。ウナギに強い主張はないものの、焼きの香ばしさと、ワサビが上質のワサビで、ワサビの良い香りと甘みが、ウナギのふわっとした旨味と合わさって、まるで、最高に美味しい蕎麦を食べた時のような幸福感が広がった。
 俺は思わず、
「美味い!!」
と言って、大きく目を見開いて、鰻重を見つめた。
 それを見て、大きな声で、社長が笑った。米粒が社長の口から二粒飛んでテーブルの上に落下した。
 会長は、嬉しそうに目を細めて、言った。
「そんなに美味しいかい?今までの中で、君が一番喜んでくれたよ」
 俺は、恥ずかしくなって、
「ああ、すみません」
と謝った。そして、今度は蒲焼の方を一口食べた。
 白焼きと同様に、箸がすっと突き抜ける。皮が凄く薄いようだった。皮と言うよりも膜という感じだ。
 蒲焼も白焼きと同じように、泥臭さが無い。すっきりとしたタレと白身の淡白な旨味が合わさって、白焼きとは違った美味さが広がった。
 俺は、思わず目を閉じて、消えていくウナギの身と、タレが絡んだ米粒の旨味を味わった。
 泣きそうだ。
 食い物で、泣きそうになるなんて。最高に美味かった蕎麦を食べた時以来だ。
 会長が、
「そんなに美味しいかい?」
と訊いた。
 俺は、口の中の米粒を飲み込んで、会長の目を見て熱く語ってしまった。
「凄く、美味しいです。俺が子供の時に食べたウナギとは、全く別物です。子供の時に食べたウナギが泥臭くて、今までウナギが大嫌いでした。だけど。だけど。このウナギは、めちゃめちゃ美味いです」
と、思わず、自分の事を『俺』と言ってしまっていた。
 会長ではなく、社長が自慢げに、
「そうだろ?このウナギは美味いだろう?おそらく、君が子供の時に食べていたのは、輸入品だろう」
と言った。
 会長が社長の言葉に、
「そうだな。最近は輸入ウナギも質が良くなってきたけど、昔は酷かったからね。皮が厚くて、確かに泥臭かったな」
と加えて言った。
(そうか、俺が食べていたのは、輸入のウナギで、そもそも日本の美味い鰻じゃなかったのか。きっと親父や母さんは日本酒で味が分からなくなっていて、酒を飲まない子供の俺だけが、ダイレクトに泥臭さとかを感じてたのか。)
と妙に納得できた。そして、会社の近くの鰻屋で鰻を食べる事は、変なことではなく、美味い鰻を食べてストレス解消をしているのかと思えた。今まで、臭い鰻を食べる人達と馬鹿にしていたことが申し訳なく思えた。
 会長が言った。
「わが社の『本丸』も、ウナギの養殖事業を始めようとしていてね。君みたいな若い人が鰻の味を喜んでくれるなら、失敗はしないかな」
と言った。
 『本丸』というのは、グループ会社の中心の会社のことで、ウチの会社はグループ会社の中でも小さな会社であり、元々の別の小さな会社を吸収したものだ。
 俺は、質問をした。
「『本丸』は、養殖とか農業とかにも手を広げていくんですよね?」
 会長が、答えた。
「そうなんだ。これからは、農業などもやっていこうと思っていてね。ほら、『適性適合検査』が始まっただろう?あれの影響で、それぞれに許可される業務が限られるものだから。今まで任せていた業務に実は適性がなかった者というのが出てきてね。例えば、美容室とかで個人経営の技術職の場合は、『適性適合検査』で適性がないとなったら、廃業して他の仕事に就く事になるんだけど、ウチみたいに大きな会社だと、社内に沢山の業務があるものだから、解雇せずに他の適性業務に就けることになるんだよ。そうそう、君の前の総務課長だった小原さんは、今は苦情処理係をやっているんだけど。以前、カウンセラーの人と話をした時に、パワハラ気質の人間の中には、クレーム処理が上手くて、そこで評価されているから解雇しにくいケースがあるって言っていたのを思い出してね。それで、小原さんを直ぐに解雇する事も考えていたんだけど、その前に苦情処理係にしてみたんだよ。そしたら、どうだい?苦情処理が上手くてね。なんだろうね。怖そうな男が謝罪するとクレームを言う側が気持ちよくなるのかね?理由は良く分からないが、お客様からもお褒めのメールとかもきていてね。『適性適合検査』は大したものだよ。」
と言うと、少し考えて、
「そうそう、その話じゃなかった。わが社に限らず、『丙』と『丁』のランクの人が、思うように就職する事が難しいという声が上がっているらしくてね。いずれは、行政直轄の仕事になるのだけども。一旦、一般企業で農業の大型雇用を行って、仕組みを整えて、将来的に国がその事業を買い取るという計画が進んでいるんだよ。それで、わが社にも白羽の矢が立ったというわけだ。他の大企業も同じように動いているんだよ。国が買い取ると言っても、いつになるのか分からないし、大した金額にはならないだろうけど。大企業の役割だな。ノブレス・オブリージュってやつだよ。適性がある者に農業事業を任せて、国の自給自足率を上げるんだ」
と続けた。
 そこに、すっかり鰻重を食べ終えた社長が言った。
「そうそう、本当に『適性適合検査』、さまさまでな。小原に限って言えば、一流じゃないけど、有名大学を卒業しているからって管理職にしてみたけど。してみたら、人格的に問題があったみたいで、複数人の社員から苦情が上がってきてな。だけど、こちらが現場に話を聴くと、若い社員は「酷い」とか言うんだけど、どれも子供の悪口みたいなレベルの事を言うから、こちらとしても判断出来なくてな。それに中堅層に話を聴くと、そいつらは忖度しているみたいで、「特にないです」と言うから、俺たちも何かあるなと思っていても、手出しが出来なかったんだよ。だけど、『適性適合検査』の結果、大卒のくせにIQも低くてな。あっ。これは言っちゃいけない奴だった」
と言って、子供みたいに舌をべぇっと出してお道化て、
「まあ、お前も人事担当だから、ここだけの話にしとけよ」
と言って、俺に他言しないようにと釘を刺した。そして続けた。
「それで、『適性適合検査』の結果で、小原の色々な面が適性ではないという結果が出て、それを理由に、解雇とか降格とかをしやすくなったってわけよ。それまでは、辞めさせたい奴に限って、解雇後に面倒を起しそうだから、解雇できずにいて、それで解雇せずにいたら、そいつらが真面目な社員を攻撃するもんだから、真面目な奴は何も言わずに辞めちまって、本当に悔しい思いをしたこともあったよ。『適性適合検査』万歳だ!」
と言って、笑った。

 会長と社長の話を聴くのは面白かった。
 会社の裏側や、政府の裏側を知るようで、経営者などの上層部しか知らない事が存在する事にワクワクした。

 会長が、言った。
「そう言えば、谷さんは元気かな?」
 俺は、
「はい。元気だと思います。少なくとも私が見る限りでは」
と答えた。
 会長が真剣な表情で言った。
「君は、谷さんを大切にしなくちゃいけないよ」
 俺は、
「はあ」
と返事をした。
 会長は、俺が何かを理解していないと考えたようで、話を続けた。
「君が、本社に戻って課長になったのは、谷さんのおかげでもあるんだよ。小原さんの事を調査している時に、君が小原さんから嫌がらせを受けていた事や、君が仕事に熱心で頼もしい存在だと、谷さんが教えてくれてね。更に調査をしたら、九州営業所でも嫌がらせを受けていたそうじゃないか。そうだ。九州営業所は、所長が代わったよ。春原(すのはら)さんになった。それで、君にセクハラをしていた田中さんは解雇したよ。若い男性社員を飲み会で無理矢理にホテルに誘うとか、とんでもない女性だね。春原さんから報告を受けてね、解雇することが出来たわけだよ。それで、いや、それでってことは無いけれど、春原さんはこの会社で初めての女性所長になったわけだよ」
 俺は、それを聞いて、田中さんの事を思い出して嫌な気持ちにもなったけど、春原さんが所長になった事は嬉しかった。そして、谷さんが助けてくれていたことが、もの凄く嬉しかった。
 それに続いて社長が言った。
「そうそう、うちの会社の人事の黒幕は、谷くんだからね。本人も気が付いていないと思うけど、我々は谷君を信頼していてね。谷君自身は世間話のつもりで我々に話しているけど、谷君の意見を大事にしているんだよ。だから、谷君には君も気をつけろよ」
と言って、にやりと笑ってみせた。
 (それなら)と思って言った。
「それなら、総務課長は、私ではなく、谷さんにすべきだったのではないですか?年齢も、私よりもずっと上ですし。勤続年数も私よりも長いじゃないですか?」
と俺が言うと、会長が少し驚いて、笑って言った。
「君からそんな意見が出るとは。君らしくないじゃないですか。年齢とか、勤続年数とか」
 俺は、そう言われると、俺らしくない事を言ったと自分でも思った。
 社長が言った。
「ああ。谷君は、管理職には向いていないんだよ。人としては優れた人格者なんだけど。アイツは、部下の責任を背負い込みすぎる傾向にあるんじゃないかと思ってな。谷君自身が苦しくなって体を壊すと思うんだ。それに、谷君は、人の上に立つよりも、一歩引いたところから見て、相手が成長するようにと心配りをする才能がズバ抜けているように思うんだ。だから、谷君はそのままで、君を支えて貰う役割を勝手に陰ながら担わせているというわけだ。働きようによっては、役職手当が出ない分、昇給をしてやらなくちゃなとは考えているよ」

 その説明をされて、思い出したことがあった。
 俺が九州への転勤前、総務課に勤務していた時に、小原課長に訳の分からない事を言われて、「自分で考えてやれ」と丸投げされたことがあった。総務課の先輩の何人かに相談したところ、「適当にやれば大丈夫」と言われたが、その適当が分からないし、誰もそのやり方を教えてくれなかった。まあ、誰も分からなかったのだと思う。そんな中で、谷さんだけが、課長が丸投げした業務に正解はなくて、誰もやり方が分からないという事を指摘して、一つのやり方を提案してくれた。そして、「課長に怒られたら、谷さんに言われたって言っていいよ」と言った。その後、やっぱり課長に怒られた。その時に「谷さんに言われました」と言ったら、課長が独り言のように「谷は本当に仕事が出来ないな」と言った。恐らく、谷さんは、そうやって他人の不都合を背負ってしまってきたから、仕事が出来ないというレッテルを貼られているんだなと思った。

 それを社長に話してみると、社長は、
「あああああ。本当に、経営者でもない社員が『適当にやればいい』とか言いなさんなよな。俺たち経営者が言う『適当』は、『それに最適な方法でやる』って事だけど、その辺の社員のいう『適当』は、『適度にサボる』って意味を含むだろう?しかも、世の中にその『適当でいい』って言葉が蔓延しているから、それを言う馬鹿どもは、その言葉に『サボる』って言葉が潜んでいる事自体も気が付いていねぇんだよな。本当に馬鹿だ。馬鹿ばっかり。『適性適合検査』前は、その馬鹿を分かり易く数値化するモノがなかったから、こっちも馬鹿って言えねぇし。雰囲気でしかなかったから、スパッと処分も出来ねぇしで、なんとなく分かっているのに、社内改善が進められないのは、本当に辛かったよな。今は『適性適合検査』の結果で、今まで曖昧だったモノが分かり易くなったから、気持ちがいいねぇ。裁判になっても『検査の結果です』って強い証拠を出せるからな。それに小原がやってたみたいに、虚偽の報告も簡単に虚偽だと証明する事も出来るしな。本当に馬鹿に、いいようにされてたよ。ムカつくな。馬鹿が馬鹿のくせに」
と声を荒げて言った。
 それを聴いていた会長は、顔をゆがめて、社長に向かって言った。
「とし君。ちょっと、社員の前で、馬鹿とか言っちゃいけないよ。それに、『上野君』じゃなくて、『上野さん』だよ。それに、言葉が荒れすぎだよ。気を付けて」
と言うと、俺に、
「ああ。私と社長は、いとこ同士で幼馴染なんだよ」
と説明した。
 俺は、
「いや。私は大丈夫です。今は会社なので、言動に気を付けていますが、私自身も元々は口が悪いので」
と答えると、社長が、上機嫌になって、
「やっぱり、そうだよな。上野には同じ空気を感じていたんだよ。そうか、そうか。これから頑張れよ。何かあったら、直ぐに俺たちに報告するんだぞ」
と言った。
 俺は、思わず笑ってしまって、
「はい。よろしくお願いします」
と笑いながら言った。

 会食を終えて、総務課に戻ると、谷さんが声を掛けてきた。
「大丈夫だっただろう?」
 どうやら、俺の顔がニヤニヤしていたようだった。俺は、
「はい。大丈夫でした。『昇進ウナギ』をご馳走になりました」
と答えた。
 谷さんは、嬉しそうに、
「そうか。良かったね」
と言って、自分の席に戻っていった。

 正直、谷さんに話しかけられて、緊張した。
 なんたって、わが社の黒幕だからな。

サポート頂けると大変ありがたい所存であります。