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短編小説:「クルリンパ」

 さっきは、驚いちゃった。

 幼い娘と一緒に、子猫を撫でながら、美月(みつき)は考えていた。

 夫が娘の誕生日にサプライズをしたいと言っていたけど、よりによって唐揚げを揚げようとしたタイミングで、インターホンが鳴って。それと同時に娘が玄関に走って行っちゃうし、こっちは急いでコンロの火を止めて追いかけて、それで玄関のドアを開けたら、体の大きな宅配便の男の人が足元にしゃがんでいるし、それに驚いていたら、今度は顔の近くでクラッカーを鳴らされるし。
 娘にとってのサプライズって、子猫をプレゼントしただけでも充分にサプライズなのに、何か、他に色々、私にとってのサプライズが多過ぎた。
 あの宅配便の人に、夫はいったい、いくら支払ったんだろう?まあ、夫のお小遣いから出しているけど、結局は家計に影響してくるし。その分、食費にまわせたら良かったとか思っちゃう。

 夫が、ウォークインクローゼットに隠して用意していた子猫用のケージを出してきて、子猫をケージに入れたのを確認したタイミングで、
「ねえ、ご飯が出来るの、もう少し時間がかかるから、エンジェルを見ていてくれる?」
と夫に声を掛けた。
 エンジェルとは、家の中での娘の呼び名だ。赤ちゃんの時からエンジェルと呼んでいて、幼稚園生になった今でも、それが習慣づいて続いてしまっている。
 夫は、嬉しそうに娘を見つめて、
「分かった。いいよ」
と返事を返してくれた。
 夫は娘の傍に座って、娘の頭を優しく撫でた。
 しかし、娘は、そんな夫を完全に無視して、ケージの中の子猫を夢中になって見ている。
 私は唐揚げを揚げながら、その様子を見ていた。
 ちょっとなんだか、夫が気の毒に思えた。

 私たち夫婦は、数か月前から、子猫を飼う事を計画していた。
 コロナ禍(か)の為に、外出もままならない日々が続いてしまった。本来なら昼間の公園で日差しを浴びながら娘を遊ばせる時期でもあった。だけど、新型コロナウイルス感染症で亡くなられる人のニュースを見て、娘を外に出すのが怖かった。
 娘も、家の中で絵本を読んだり、おもちゃを上手に使って遊んで過ごしていたけれど、私と夫と、テレビ画面の中の小さな人達だけとのコミュニケーションでは、精神衛生上よろしくないように思えた。
 新型コロナウイルス感染症の状況も、これからどうなるのか、医者も政治家も、全く予想できないようだった。この状況が長く続くのならと、ペットを飼う事をどちらともなく言い出して、迎えることにした。
 夫も私も、子供の時に猫を飼っていた経験があったし、ハムスターや小鳥などの小さな動物は、幼い娘には難しいと思えて、猫を飼う事にした。
 動物病院や、保護猫施設のホームページで猫の情報を集めるのと同時に、猫の飼育に必要なものを、娘に気付かれないように買い集めて、寝室の奥のウォークインクローゼットに隠し続けた。
 準備は、私よりもずっと夫が頑張っていた。
 それなのに、娘からは感謝されず、寧ろ、無視されている。夫よ。
 夫が気の毒に思えて、娘に提案した。
「エンジェルちゃん。オバアチャマから絵本をいただいたでしょう?パパにも見せてあげたらどう?」
 娘は、壁の上の方をみて、思い出したような表情をして、すくっと立ち上がると、リビングの隅にある本棚に駆け寄り、そこから大きな絵本を取り出して、夫の前に置いて見せた。
 夫は嬉しそうに、笑った。
 娘が、
「パパ。読んで」
とぶっきらぼうに言うと、夫は目を輝かせて表紙の題名を読み上げて、分厚い表紙を捲り、読み聞かせを始めた。
 その絵本は『飛び出す絵本』で、ページを捲ると、良く出来た細工のおかげで本からニョキッと大きく飛び出した。大きなお城や、ゴツゴツした岩山や、宇宙に向かってロケットが、本からニョキッと飛び出した。
 夫は、絵本を捲る時に、
「クルリン」
と言って、絵本の細工がニョキッと飛び出すタイミングに、
「パッ」
と言って、娘を笑わせることに成功していた。
 それを何回か繰り返したところで、娘が思い出した様子で言った。
「猫がクルリンパする本もあるよ」
 娘は、そういうと再び本棚から一冊の絵本を持ち出して、夫の前でページを捲って見せた。
「ほら、猫が、クルリンパするの」
 そこには、放り投げられた猫が、空中で回転して、見事に足から着地する絵が描かれていた。
 夫は、
「本当だねぇ」
と言って、娘に微笑んだ。
 そのタイミングで、
「おまたせしました。ごはんが出来ましたよ」
と私は言いながら、食卓に料理を運んで並べた。
 夫は、私が調理を終えたことを確認したからか、
「ちょっとトイレに行ってくる」
と言って、リビングから出ていった。
 娘は一人で子猫のケージの前で、猫の絵本を読んでいた。
 大人しい。
 私は、そう判断した。
 それが、間違いだった。
 私は、娘が大人しく絵本を読んでいるのをいいことに、娘から目を離して、食事の準備を進めた。
 私が冷蔵庫の方を見て、娘から完全に目を離した時に、‘’カチャ‘’
と金属音が聞こえた。
 見ると、娘が子猫を掴もうとして、ケージの中に腕を伸ばしている光景が目に入ってきた。
(まさか、その子猫を、投げるつもりなの?いくら何でも、本当に小さな子猫だから、大人の猫のようにクルリンパは出来ないし、それにエンジェルがどのくらいの勢いで子猫を投げるのか?時々、びっくりするくらい力が強い時があるから、あんな力で子猫が投げられたら!?)
 私は焦って、
「やめてー!」
と大きな声を出して、片手に皿を持ったまま、娘に駆け寄り、娘の腕を掴んでケージから離した。
 そこに丁度、夫が戻ってきたので、
「あっ、パパちょっと、急いでケージの扉を閉めて!」
と夫にお願いした。
 娘はケージの扉が閉められると諦めた様子で、体中に力が入っていたのが、ふっと緩んだ。
 そして、つまらなそうな声で、
「猫ちゃんもクルリンパ出来ると思ったのに」
としょんぼりと言った。
 私は、娘に、
「猫ちゃんは、まだ、赤ちゃん猫ちゃんだから、クルリンパは出来ないのよ。優しくしてあげないと病気になっちゃうから、優しく、優しく、してあげてね。いいこ、いいこ、してあげてね」
と、さっき大声を出してしまった事をリカバリーするように、優しい声で教えた。
 その時、私の気持ちと体がリンクしたように、ふっと手の力が抜けて、持っていた皿が手から離れた。
 皿の上に載っていたホールケーキが、皿を上にして床へと落下して、グシャッと潰れた。
 一瞬、家族全員が沈黙した。ケーキが床へ落ちる様子を、ただ見ていた。
 沈黙からの大きな振り幅で、ウワ~ンと大声を出して娘が泣いた。
 そして、泣きながら、娘が言った。
「ウワ~。ケーキが、クルリンパした。ケーキが、クルリンパした。ママが、クルリンパさせた」
 私は、不謹慎ながら、娘の言葉に関心してしまった。
(たしかに、ケーキのお皿が半回転して、ケーキ側から綺麗に落ちたから、お皿が床に当たらなかった。だから、生クリームが床に衝突した音だけがした。しかも、『パッ』って音だった。『ベシャ』じゃなかったのよね。たしかに。たしかに『ぱ』だった)
 夫は、私の顔を一瞬見て、私がショックで動けなくなったと判断したようで、とりあえず私を放置して、娘を慰めてくれた。
「ああああ。大丈夫。大丈夫だよ。明日、パパが新しいケーキを買ってあげるから。一緒にケーキ屋さんに行く?エンジェルの好きなケーキを買ってあげるよ」
 娘は、そんな夫の慰めを無視して、ウワ~ンと漫画のような声を上げて泣き続けた。
 私もふと我に返って、高かったケーキを私が無駄にしてしまったことと、娘の大事な誕生日を私が台無しにしてしまったことに、急に悲しさが込み上げてきて、娘と一緒に泣いてしまった。しゃくりあげてきて、それが止められなかった。
 夫は、私まで泣き出したことで、お手上げ状態になってしまい。娘を包み込むように抱きしめながら、もう片方の手で私の頭を撫でてくれた。

 ケージの中の子猫は、私たちの様子を見ながら、耳を後ろに向けて、驚いたように目を見開いて、微動だにしなかった。

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