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自発性を促す補助線の引き方

アイスランドで、滝が轟々と流れてる中、鎖や注意を促す看板が一切なかったのが衝撃な場所があった。

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突端に何もなかったか定かでないが、少なくともフェンスはなかったし、普通に成人なら下手したら落ちてしまう。だけど環境保護の看板(ゴミは捨てるな、植物取るななど)はあったし、何をすべきか/すべきでないか、共通認識はあると思う。観光客は各々の安全とマナーを守りつつ、しぶきを浴びつつ思い思い写真を撮っていた。ここに多文化が日常なヨーロッパを感じた。個々の意思に任せ、自主性とモラルを適切に発揮する補助線がうまく機能していると感じた。

規制をするのは楽だし、「安全管理している」という担保が得られる。だけど、いくら厳しく伝えても相手によっては習慣の違いなどからサインが正確に受け取れなかったり、行動の不自由さを感じたりすることもある。結果、ルールは破られることがある。

受け取り方は個々の背景によって違うし、それに空気読めないと怒っても仕方ない。伝え手が何を、どこまで最低限同じ認識を持ってほしいか、そして受取り手の自由にゆだねるかをデザインする必要があるな、と相手に何かを頼むときはひしひし感じる。職場や学校のコミュニケーションが特にそうではないか。

伝え手、受け取り手双方の補助線がすっきり引かれる仕掛けはなんだろうと模索する日々。



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