「あたたかい混沌」の救いー映画「わたしは光をにぎっている」より
「わたしは光をにぎっている」-再開発で失われゆく風景をセンチメンタルに懐かしむ、というよりは泣いたり笑ったり、いろんな瞬間を過ごしてきた風景が時代に応じて移り変わる一方、出会った人たちが紡いできた言葉がどんな状況でもそれぞれの心に生きていることを実感させた映画だった。
再開発は、現代の顧客志向を突き詰めすぎた結果ともいえる。できるだけコンパクトに、スピーディーな反応を求めすぎて。そして知らず知らず、「私とは違う誰か」としてお互い分断されていき、自分の本当の心や「声なき声」を見失ってしまう。私もそのシステムの一部であり、無意識に巻き込まれている。
一方で、主人公が移り住んできた環境は、「あたたかい混沌」に満ちている。今すぐ結果に結びつかなくても、自身の声なき声から小さなアクションを起こすこと、「自分をしゃんとする」ことが安心してできる場所。もちろん、最初から上手く行くわけもなく、時にはお叱りを受けることもあるが、そんな経験も深く根を張っていく様子が劇中で丁寧に描かれていた。単なる人の繋がり以上の、それぞれの感情があらゆるところで発露される混沌とした世界にいながらも「その人をその人として認める」ことが自然にできていて、観ていてちゃんと深呼吸できていた。形や役割がきまっていないところからの人間のあがき、それに対する誰かの行動みたいなものからとてつもない可能性が開けることを、今年までの数年間いろいろなコミュニティを渡ってきて感じた。未経験だったり、経験があっても環境が全然違ったり、予想図はほとんど描けない。だからこそ、フィルタなしで声なき声に耳を傾けられる。その方が楽しいんじゃないかなあ、と。
「救いのある物語」で求めがちな一攫千金なサクセスストーリーは夢見ること多々あるがそんな上手く実現できるはずもない、というほろ苦さは年月と共に確信を増す。だけど、日常は少しづつ、喜びや悲しみが織り交ざって大きな流れになってAさんの〇〇年の人生になるのであり、急に良くなろうとして変わろうとしなくていいんだよ、てメッセージが私にとっての救いだった。