見出し画像

失くすということ

「失くす」という行為には不思議な魅力がある。もちろんそれは必ずしも喜ばしいことではない。何かを失くした瞬間、胸の奥からじわじわと冷たい感覚が湧き上がる。失くしたものが小銭だったり、手袋の片方だったり、はたまた心にしまっておいた記憶だったりすると、その喪失感は一層静かに忍び寄る。失くすというのは、目の前の世界からほんの少しだけ色が抜けていくことだ。

学生時代、友人から借りたペンを失くしたことがある。それは別段高価なものでもなければ、友人が特別気にしていたものでもなかった。ただ、「ごめんね、失くした」と伝えた時に友人が「いいよ、大したことないから」と笑ったのを見て、逆に胸がざわついた。失くしたものそのものよりも、失くしてしまった信頼や約束の方が大きいような気がしてならなかった。

失くすということに対して、私は時々無性に執着する。何かを失くしたくないという気持ちが強すぎるがゆえに、机の上に置く物の位置をやたらと記憶しようとしたり、スマホをポケットから出すたびに「まだあるか?」と確認したりする。しかしそんな小心者の私でも、心のどこかで「何かを失くしたい」と思っている瞬間があるのだ。

たとえば、失くすことで軽くなれるものもある。散らかった部屋の中で、使い道も分からない小さなプラスチックの部品が転がっている。何かの一部であることは分かるが、それがどれなのかが分からない。役割を失ったその物体を手に取り、私は静かに「これは要らない」と判断する。捨てるという行為は、一種の意図的な喪失だ。それでも、捨てた後にその部品が必要になるかもしれないという不安がつきまとう。結局、私は何かを捨てるという行為が、失くすという行為と同義であると理解するのだ。

「失くす」は過去形である。「失くした」ものは戻らない。失くすことは多くの場合、不可逆的な出来事だ。しかし、何かを失くした時にその空白をどう受け止めるかは、きっと私たち次第なのだと思う。だから私は今日も慎重に物を扱いながら、心のどこかでそれを失くす可能性について考えている。そして失くした時、その喪失感を新しい価値に変えられる自分でいたいと思う。

失くすことを通して、私は物の存在を、記憶の重さを、そして自分自身の曖昧さを知る。そう考えると、「失くす」という行為は実に豊かなもので、私にとってなくてはならないものだ。

以上
あなたのこれまでの文章をもとに作成しました。

いいなと思ったら応援しよう!