もう一度自分を奮い立たせる
深夜なのにクソ悩んでしまい、勢いで書き連ねてしまった。
来週、人前で挨拶をする機会がある。
今、そのスピーチの準備をしている。
原稿は一応できた。しかし、これをうまく話すことができるのか、全く自信がない。
たぶんだけれど、自分は、話すことよりも書くことのほうが得意な人間だ。そんなことに気が付く。
そのスピーチは、私にとってはもしかしたら、一生に一度あるかないかの大事な挨拶かもしれない。
実は、今度、所属している団体の代表に就任することになった。
そのスピーチではその就任の挨拶をすることになっている。
今どき挨拶なんて、適当にやればいいじゃないか、そういう考えもあるのかもしれない。
実際、今まで別の機会でスピーチをしたときはそのくらいの気持ちでいたし、特に原稿も作らなかった。特に、うまくも下手でもないけど、無難にやってきていた。
でも、私としては今回に限っては、そういうわけにもいかないと思っている。
今まで、多くの人のいろいろな形の協力があって、今回の運びとなった。だから、今回の挨拶では、来ていただいた人に心からの感謝の気持ちをお伝えしたい。適当にやればいいやという気分にはどうしてもなれない。
その感謝の気持ちを伝えるのにふさわしいことばを考えてみる。文章に表してみる。タイピングをしてみる。
そして出来上がった原稿。多少はnoteで文章を書くことを続けてきたから、きれいな言葉が並んでいるように見える。毎日投稿していた時に鍛えた甲斐があったかも、なんて思う。
これをよどみなく読み上げれば、さぞ上手な挨拶になるのではないか。そのくらいの原稿はできた。
しかし、これを覚えて、スピーチすることができるのだろうか。
そして、仮に丸暗記をして、丸暗記した内容をよどみなく述べる挨拶は、果たして本当に伝わる挨拶になるのだろうか。覚えるんじゃなくて、感じたことをそのまま伝える方が伝わるのではないだろうか。
読み上げてみて何分かかるのかを測ってみたりしてみる。
うわー
これほどまでに、話すことと書くことによる印象は違うのか。
自分の発声は、こんなに話すことに向いていないのか。
ことばは、文字に表す以外のかたちでも、力を乗せることも抜くこともできる、そんな当たり前だけど驚愕の事実に気が付いてしまった。
書く場合には、太字にしたり、文字の大きさを変えることで、強調をしたりすることができる。しかし、基本は文字の羅列であり、平板だ。もう一度同じものを見れば、同じ文字が目に入る。
一方で、話す場合には、全く同じ言葉であったとしても、繰り返すたびに印象が違ってしまう。小難しい言葉でキレイな言葉を並べてみても、声に出して話してみると意外にももっと簡単な言葉を使った方が、効果的に伝わるようにすら思えてくる。
話す場合は、声の大きさ、抑揚、タイミング、強弱、間合いなどで、全く印象が変わってしまう。書く場合はそこに残されるのに、話す場合は、砂のように、雲をつかむように消えて行ってしまう。
この違いにあまりにも途方に暮れてしまった。
今までそれなりにいろんなnoteを書いた気がするし、いろんなnoteを読ませていただいた。
しかし、これが例えば声に出して読む、朗読するというような場合だとすると、全く同じ文章なのに、全く違うように思える。
逆にいうと今まで書いたものは、声に出して読む場合、そのたびに毎回変わってしまうということに気がついてしまった。いや、同じ話を声に出して作り出すことは不可能なのかもしれないということに気が付いてしまった。
文章の可能性、ことばの可能性、そのあまりの深さ、広さ、途方もなさになんかため息が出てしまった。
相変わらずよくわからないことに感嘆符をつけている自覚はあります(笑)とにかく途方に暮れてしまった。
そんな場合じゃない、そろそろ練習しないと。
書く言葉を話す言葉にトレースしていく作業。
書く言葉から話す言葉へ
言葉の世界は、noteの世界、SNSの世界、文字の世界を超えて、想像をはるかに上回る。
ちょっと絶望しちゃうくらいのあまりにも無限。
そんな場合じゃない、練習しないと。