贈与のつながり・交換のふるまい「贈与経済2.0 お金を稼がなくても生きていける世界で暮らす」②(荒谷大輔著、翔泳社)
前回の①
前回、資本主義の危険性、贈与経済の問題点に触れた上で、それを乗り越える本書の中の贈与経済2.0のご紹介をし、「きわどい」というきわどい感想を述べました。
今回は、そのことについて、触れてみようと思います。
本書のいう贈与経済2.0は、たぶんこんな感じ。
贈与の際に、ブロックチェーンに「ありがとう」の記録する、それによって、贈与は社会的な関係になり、一人で贈与の負債感を抱え込むことはなくなる。ちなみにブロックチェーンに記録した内容は改ざんや消去はできないようです。
贈与の負債感が緩和されることで、次の贈与を生まれ、「ありがとう」であふれる世界が贈与経済を構成する。すごい雑で間違っていたら恐縮ですが、そんなようなイメージだと思います。
本書のなかにイメージ図があったので、貼ってみます。
この贈与経済2.0の特長として語られていることは、一言でいうならば、「贈与を社会的な記録(ブロックチェーン)に残すこと」だと思います。
贈与を記録に残す
贈与をブロックチェーンに残す。このひと手間を掛けることで、受贈者は、贈与経済の束縛的な側面から解放されると著者はいいます。
これに対し、ここから先は、私の個人的な妄想です(笑)
たしかに、AさんのBさんに対する贈与に対して、Bさんの感謝の気持ちが記録に残されることによって、Bさんの負債感は、社会性を帯び、一つの贈与から引き出される物語に縛られなくなるということができるかもしれません。
ただ、記録をすることで贈与経済の束縛的な側面から解放されるというのがどうしても「きわどい」気がしてきてしまいます。
すなわち、記録をすることは、あいまいな贈与の事実を明確に残すという側面があります。しかも、ブロックチェーンに記録をして改ざんができなくなるということは、一度残した記録はおそらく消すことができない。
そうすると、贈与の記録を残すということは、あいまいな贈与の記憶を明確な記録にするということです。
だとしたら、これはむしろ贈与経済の束縛的な側面を強化することにならないだろうか。
この点について、「忘れられる権利」というのが議論されることがあります。
いいことでも悪いことでも消したい記憶というのはあります。
例えば、元彼女からの贈与に対する感謝の気持ちがブロックチェーンに残されていたとしたら、消したくなることもあると思います(先日の読書会でこんな話もありました)。
ブロックチェーンに残した贈与に対する感謝の記録は、改ざん防止のため消せないとしたら、この記録はいわば「忘れられる権利」を放棄したものとなるのではないかと思います。
また、消せるかどうかを置くとしても、贈与を記録に残すということは、あいまいな記憶をはっきりとした記録にするという側面があると思います。
いつも引用している「読んでいない本について堂々と語る方法」では、書物に関するコミュニケーション空間を<ヴァーチャル図書館>とよび、これはイメージの空間、虚構の空間、遊戯的空間であり、幻想であるから、あいまいさや空白、欠落が許されるといっています。
同書に出てくる教授は、「ハムレット」を読んでいないことを明確にすることで、<ヴァーチャル図書館>を暴力的な空間に変えてしまった。
あいまいな記憶を明確な記録にすることは、時に暴力的な側面を帯びるのではないでしょうか。
だとしたら、贈与の記録には、贈与の束縛を強化する側面があり、それが消せないのだとしたら、ある種の暴力性すら残してしまうことにならないか。
これに対し、そんなことはない、「ありがとう」の記録は、感謝の記録なのであり、暴力性とは無縁である、という向きもあるかもしれません。
ただ、これとよく似たシステムがあると思います。
それがnoteのスキだと思います。
これは、読み手がスキという形で送る、それに対して書き手の感謝のメッセージが発生するということで、感謝が記録に残されるという意味で共通性のあるシステムだと思います。
では、noteのスキには、暴力性がないのか?
この問いに対して、暴力性がないとは言い切れないのではないでしょうか。
どれがどうというのは、さすがに角が立つので言えませんが(笑)
だとしたら、贈与の記録は、個別の贈与が社会性を帯びることで、贈与の束縛を緩和する側面がある一方で、贈与の束縛を強化する側面もあり、場合によっては、ある種の暴力性を帯びる可能性もあるのではないでしょうか。
なので、「きわどい」。
そうすると、この問題はどうとらえるべきなのか?
このことを最後に少し妄想してみたいと思います。
贈与のつながり、交換のふるまい
贈与経済2.0は、贈与経済の問題点をブロックチェーンに記録するという新しい手法で乗り越えようとしているという意味で、面白いですし、「贈与」に対する我々の見方をアップデートしてくれていると思います。
ただ、上記のとおり「きわどい」。
そうすると、ポイントは贈与を記録することというよりは、むしろ、われわれが「贈与」と「交換」の性質をどうとらえ、どうふるまったらいいのかという点にあるのではないだろうか。
突然ですが、私は、誰かとご飯を食べにいったときに奢るのが結構好きです(たいしてお金はもっていませんが)。
それは、使ったお金の価値を高められたような気がするからです。
おじさんのつまらない話に付き合ってもらって、こっちがおごって感謝してもらえた時、例えば、2000円をお店に払ったとしたら、私は、お店で2000円分の食事をするとともに、話に付き合って、さらに感謝ももらえるという意味で、2000円の価値を高められたような気がしてきます。
合っているのかよくわかりませんが、とりあえず、そういう気持ちになると気分はよくなります。
そうすると、こんな疑問が出てきます。「これは、本当に贈与なのか?」
一方で、おごってもらった側は、もらってしまったという負債感を持ち、何かで返さないと思うのかもしれない。そして、実際にあとで何かを返したのだとしたら、それはもはや交換だったのかもしれず、やはり、贈与なのか贈与ではないのかよくわからなくなってきます。
このように「贈与」と「交換」の境界線があいまいです。
そうすると、「贈与」の見え方が本書によって変わってくるのであれば、「交換」の見え方も変わりうるのではないでしょうか。
以前、引っ越しをしたときに、複数の引っ越し屋さんが次々にやってきて見積もりをしてくれたことがありました。
一番安い業者は、一番大手で、営業マンも手馴れていてそつなく、サービスも遜色ない。普通に考えたらこの業者を選ぶと思います。
ただ、二番に安かった業者は、営業マンが新人っぽくてたどたどしかった。こっちががんばれって応援したくなるような感じがあった。
それで、妻と相談して二番目に安かった業者を選択したことがありました。
まぁそれ自体戦略の可能性もありますが(笑)、気分良くお金を支払うことができたわけです。
普通にお金を払って買い物をするときに、単なる商品とお金の交換ではなくそれ以外の価値が伴うのだとしたら、そのお金以上の価値が生まれることがある。
「贈与」の見方を変えることで「贈与」がアップデートされるのであれば、「交換」もまた見方を変えることで、アップデートされるのかもしれません。
そして、大事なのはその「贈与」と「交換」の性質を押さえたうえで、どうつながり、どうふるまうのかということにあるのではないか。
贈与のつながり、交換のふるまい
贈与経済2.0の考え方を参考に資本主義経済の「交換」もアップデートしてみようというのが、私の提案です。
久しぶりに妄想ぶっ飛ばして長くなってしまいました(笑)
今日コンビニでおにぎり買うときに、150円の価値をどうやったら高められるのかを考えてみてもいいかもしれません。
そんなわけで、「今日一日を最高の一日に」