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モノカキングダム答え合わせ⑤【まつぼっくりさん】
年が明けたのに、一人だけモノカキングダムの考察が終わりません(笑)
先日行われたモノカキングダム2024。自分の立場を完全に棚に上げて「モノカキングダム過剰考察」なるものを書き、モノカキングダム2024の入選作品の考察を順番にしています。
エントリー作品です。
たまってきたので、マガジンにしました!
楽しみですというコメントをいただけているので、調子に乗って続けられています。ありがとうございます。
「答え合わせ」と題した考察記事ではありますが、これは決して一つの絶対的な正解があるという意味ではありません。
いいと思ったところを言語化してみることで、今後の糧にしてみようという試みです。
どれもすばらしい記事、本来は優劣をつけるようなものではないのかもしれません。というか、つけるべきものではないはずです。ただ、いい記事のいいところを検証することで、共通点が見えてくるような気がします。そういう情報は決して悪いもんじゃあないと思います。
分析をして共通点が見えてくると、もしかしたらあるパターンが見えてくるかもしれません(見えてこないかもしれません)。それが一つ確立すると、文章として独り立ちができるような気もします。
自分なりの形式を一つ確立することで、文章力は一段向上するかもしれない。でも、もし、そうだとしても、同じ形式をひたすら繰り返すというのも至難の業です。読み手に読まれやすい文章、評価されやすい文章の傾向も日々変わるはずです。どこかで殻を破らないといけない。形式を破る個性が必要になる。でも、だからと言って積み上げていって一回確立した形式が一切無駄になるということでは決してないと思います。そうして、スクラップ&ビルドを繰り返しながら、より良いものが書けていったらいいんじゃないかななんて思ったりします。
ラーメン再遊記で、ラーメンハゲこと芹沢が似たようなことを言ってました。
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ラーメンと文章が同じなのかどうかはわかりませんが、この考察で何かしらの形式1.0が見えてくると面白いかななんて思ったりしてます。
なんかいいこと言ったなという気がしてきたので、ダラダラ語るのはこのくらいにして(冒頭のダラダラ語りで言いたいことを言っておくスタイル)、今回は、この文章を取り上げてみたいと思います。
母の最期の愛を、しかと受け止める【まつぼっくりさん】
今回は、まつぼっくりさんのこの作品です!
この作品、テーマがテーマだけに考察してもいいのかな……なんて思ったりもしました。でも、「いいと思ったところを、なるべく素直になるべく具体的に良いと言う」というシンプルなコンセプトに立ち返ってみると、言いたいことはやっぱりたくさんあります(笑)
まつぼっくりさんの文章は、たしか66日ライランのときに、はじめて文章を拝見して、そのときからフォローさせていただいたような気がします(そうじゃなかったらすいません)。
まつぼっくりさんの文章は、文体が確立しているなぁ、という印象があり、誤解を恐れずに大胆に言えば、文体の印象は軽い(ライト)、と思います。この文体が確立している。短文で切っているからなのかな。そこはかとない身近さを感じさせます。
ただ、さらに誤解を恐れずに大胆に言うと、その一方で、内容はちょい重、なことが結構ある気がします(重くない時ももちろんありますが)。少なくとも、今回の作品の内容は重めだと思います。
これって実はすごいことで、重い内容って感情が出ちゃうから、文そのものも重くなってしまいがちだと思うんですよ。でも、重い内容を重い文体で書くっていうのは、ときに読み手にはあまりにもきつすぎてしまうことがある。それだけじゃなく、ストレートな感情をストレートに書くっていうのは、なぜか嘘っぽさを生じさせてしまうことがある。謎なんですけどね。だって嘘か嘘じゃないかなんて本来は文章だけじゃわからないはずじゃないですか。一つ言えるのは、ストレートな感情をストレートに書くというのは、自分の思ったことをありのままに書いているということ、それはそれでいいのかもしれないけれど、一方で、読み手のことは考えていないという印象になりかねない。そうすると読み手も人間ですから、読む側のこと考えてくれてないなって思っちゃうと、ちょっとその文章に対してマイナスなイメージを抱いてしまう可能性があるんじゃないかなと思います。内容とは関係がないところで、そのマイナスなイメージが、内容に対しても疑問符をつかせてしまう、こんな悲劇的なことが起こったらもったいないなぁなんて思ったりします。知らんけど(おい)。
そんななかでもあえて軽い文体で書くことができるというのは、読み手のことを考えることができる優しさがあるからではないかなと思います。
内容として強く伝えたい中身を持っている、でも、そのまま伝えてしまうのは読み手に重すぎる印象を与えてしまうかもしれない、じゃあどうしたらいいんだろう、そんなことで悩んでいる方は、note界隈では実は多いのではないかと思います。
まつぼっくりさんは、そのような多くのnoteクリエイターの悩みに答えるような文章をいくつも書かれているのではないかなと思っています。
そんなわけですが、意味わからんことをダラダラと書いているlionが一番読み手のことを考えていないだろ、早く中身に入りなさい、という声が聞こえてきそうなので、早速中身に入ってみたいと思います。
書き出し
戻ったとて、その先の未来は何ら変わらない。そうだとしても、私は再び訪れたい過去があります。母と話したあのひと時へ、声を、思いをしかと受け止めに行きたい。いまも強く思ってます。
これは、もう完全にまつぼっくりさんにしかできない出だしだと確信しています(笑)
まず、冒頭の「戻ったとて」、最後の「思ってます」は、完全にまつぼっくりさんの文体です。非常にスッと入ってきます。文体に口語調の特徴を持たせつつ、引っ掛からずに読める。
でもよく読むと、かなり深いことが書いてあります。よく読んでみましょう。「その先の未来が変わらないとしても、戻りたい過去がある」「声を、思いをしかと受け止めに行きたい」「いまも強く思ってます」。
強い。確固たるものを感じます。
出だしから、ジャブに見せかけた強烈な右ストレートなんですよ。そして、冒頭に思いのたけが実は全部書いてある。
こっからは、lionのどうでもいい邪推なのですが、ここで、読み手は2パターンに分かれるのではないかと思います。
一つは、冒頭の強い確固たる意思を最初に感じ取って読み進める人、もう一つは、軽快な文体のままに、そのまま軽快に読み進める人。
私は、実は一回目は、後者の読み方をしてしまいました。そのまま軽快に最後まで読んでしまいました。だから非常に不思議だったのです。お母様が亡くなられるという重い話なのに、ここまで軽快に最後まで読み進められるなんて……そして、もう一度、冒頭を上スクロールして読み直したときに、気が付きました。あ、冒頭にものすごい熱量ですべてが書いてあった……。一気にこの文章が深まって、びっくりしたのを覚えています。
そんないい加減な読み方をするのは、お前だけだ……そういわれてしまったらそれまでなんですが、この冒頭がこの文章全体にとても重要な深みを持たせているということは間違いないと思います。
次
母は数年前に亡くなりました。享年61歳。半年に満たない治療期間でした。
(中略)
「『がんの可能性がある』て言われた」
この一文から、怒涛の日々が始まったのです。
ここの部分、引用をするのもつらかったのですが、引用しないわけにはいかなかった……。
この文章の一番すごいところは、序盤でほぼすべて書いてあることなんです。もうこの先の「ストーリー」はなんとなくイメージができてしまう、というか私たちはここで結末を知ってしまっている。大河ドラマみたいなものです。小出しにするとか、もったいぶる様子が一切なく、序盤でほぼ最大級の熱量で書かれています。
私は、この作品を読む前、モノカキングダムの作品を順番に読み進めてきていたのですが、すでにかなりの作品に心を揺さぶられ続けてきました。そうして読んだこの作品。冒頭を読んで、あ~もうこれあかんやつや……って、しょっぱなから揺さぶられました。
中盤①
母の身に起こってる現実は、今までと全然違う。もはやどんどん乖離してく。ウソ、ウソ、ウソだ。全くもって理解が追いつきません。
(中略)
でもそんなこと言ってる場合じゃない。わたし、しっかりしなきゃ。
(中略)
でもどうやっても、頭が追いつかない。自分がもどかしく、なんてパッパラパーだと、これほど自覚したことはなかった。
(中略)
うだうだ言うとらんと、今こそ歯を食いしばれ。ここでやらなくてどうする。
ここも、やっぱりつらいな……。でも、だからこそ痛いほど伝わってくるということの裏返しだということだと思います。
理解が追い付かない出来事に対して、自分を奮い立たせている、でも、頭が追い付かない、この交錯する心情が交互に描かれることで、押し寄せてくるように痛いほど伝わってくる。
まつぼっくりさん、あなたはすごいです……。ここまで自身を奮い立たせることなんてできるだろうか……。あまりにも受け入れがたい事実じゃないですか。でも、気丈にふるまっている……。この精神に強い圧力がかかり続けている中で振れ幅の大きいメトロノームのように激しく揺れ動いていく感情。
もう一つは、やはりまつぼっくりさんの文体です。この内容であるにもかかわらず、文体は変わらずライトなんですよ。ここでは、だからこそ余計に感情移入ができてしまうと思いました。
身内が亡くなるときって、実際問題、感動的なストーリーになることは少ないと思うんですよね。急にベルサイユのばらみたいになったりはしないじゃないですか。むしろ、「普段通りの肩ひじ張らない中に、生じる違和感」みたいなもの、普段通りにふるまおうとしているのに、どうしてもその違和に意識がいってしまってそこでグルグルグルグルしてしまう。その様子が、痛いほどわかってしまう、そんなふうに描かれているように思いました。
中盤②
私なりの中盤②のスタートはココ。
思えば、母さんには全てお見通しで。
やはり、まつぼっくりさんは、最初にほぼすべて伝えるんですよ。
さっきのグルグル、母は全部お見通しだった。そのことをもったいぶらずに、ほぼすべてドンと書く。
言ってしまえば、序盤からずっとピークなんです。そう読める。ずっと精神的に強圧力がかかった状態で揺れ動く、でも、それに反比例するライトな文体が軽快に読み進めることを可能にしている。恐ろしいバランスだと思います。
序盤からずっとピーク。これってある意味、非常に難しくて、最後までピークで居続けるのってかなり難しいのではないかと思います。もうこれ以上ってないんじゃなかろうか、そんな状態で読み進めていくわけで、それだと後半しりすぼみってこともありうるわけです。
しかしですね。この文章は違ったんです。
この文章には、序盤からほぼすべてが書いてあった。ほぼすべて。そう、ほぼだったんです。
実は、まだ、書いていないことがあったんです。
それが「声」だったのです。
もはや元気だった頃のように喋ることができなかった。でも母は話を続けました。一音、一音に、命を賭すように、力を込めて、わたしへ伝えようとしてくれた。
「でも、これは必要な痛み」
「○○ちゃんも、お父さんも『もう限界』て顔をしてる。だからこれは必要な痛み」
完全にやられました。序盤からピークだと思っていたら、実はまだ上があったんです。そして文章全体で見ても、ここだけが太字。完全にやられました。
この母の「声」の中身……すごいです(ごめんなさい、もういえる言葉が見つかりませんでした)
わたしはかける言葉を持ち合わせず、ただただ泣きました。どんなセリフも違うと思った。
(中略)
この後の未来を生きてる今となっても、わたしは未だ何も思いつかない。母が決死の覚悟で言った思いへ応えられる言葉を、やっぱり持ち合わせてない。
そんなわたしだけど、あの瞬間に戻れるなら戻りたい。ただそばにいて、母の思いをしっかり受け止めたい。一緒にいることで、ちょっとでも恐怖がやわらぐのであれば、ただそばにいたい。
もう何も言えません。ずっと押し寄せてくるのに何も言えない。
この複雑な心情の描写は見事だと思います。
終わらせ方
母が少しでも穏やかに、やわらいだ気持ちから私へ伝えられるように。今のわたしが駆けつけられるものなら、駆けつけたい。強く願うのでした。
何も言えないとしても、駆け付けられるものなら、駆け付けたい。読み手も、しかと受け止めるしかありません。そこに私なんぞがもうこれ以上言える言葉はありません。
何も言えない代わりに、もう一回上スクロールして冒頭を見てみましょうか。
戻ったとて、その先の未来は何ら変わらない。そうだとしても、私は再び訪れたい過去があります。母と話したあのひと時へ、声を、思いをしかと受け止めに行きたい。いまも強く思ってます。
そう、この文章は、最初から全部書いてあったんです。すごくないですか、最初から全部書いてあったんですよ。こんなにストレートに。それに気づいたとき、この冒頭のすごさ、文章全体の深みは一回目に読んだときと明らかに一変しました。
ある意味で最初からK点を超えることが決まっていた文章だったのです。上スクロールして気付かされてしまった。ものすごいものを読ませていただきました。
まつぼっくりさん、好き勝手書かせていただいてすいませんでした。私もしかと受け止めて、この考察を終えたいと思います。
正直この文章、最初は考察としてうまく書けるか自信がなかったのですが、書き出したら止まらない(笑)。結局またクソ長くなってしまいました……
というわけで、何も言えないこの思いを、何も言えないからこそ、せめて私たちはしかと受け止めて、「今日一日を最高の一日に」