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百年の紙


 1924年9月29日は、先崎銑十郎が死亡する五日前だった。

 もう長くはない。遺言書を書かなければ。銑十郎は、数枚の藁半紙と万年筆を取り出した。

 「先崎銑十郎の想い、ここに、」

 何かが違う。銑十郎は、紙をくしゃくしゃに丸め、書斎の床に放り投げた。

 五日後、銑十郎は息を引き取った。

 銑十郎の長男先崎勝藏は、父の死に立ち合い、父の遺言どおり、相続をした。葬儀のあと、勝藏は、書斎の床の隅にくしゃくしゃに丸められた紙を発見した。勝藏は、瞳を潤ませながら、紙の皺を伸ばして丁寧にたたみ直し、内ポケットの中にしまった。

 1940年11月24日は、先崎勝藏が死亡する七日前だった。

 死期を悟った勝藏は、長男の先崎貞治に皺を伸ばした跡の残る藁半紙を渡した。その紙には勝藏の筆跡で「勝藏とともに」と記載されていた。

 七日後、勝藏は息を引き取った。

 1944年8月3日、病弱であった貞治のもとに、赤紙が来た。戦時中とはいえ、生まれたばかりの長男先崎龍太郎を残し、戦地に赴く貞治の心中は如何ばかりか。今となっては判らない。

 1945年3月15日、先崎貞治は、戦地であるフィリピンで自らの死期を悟った。貞治は、共に戦地に赴いていた友人の東出徹に、皺くちゃの紙を託した。
 貞治が、戦地から戻ることはなかった。
 帰国した徹は、貞治の妻康子に、皺くちゃで泥や血の付いた藁半紙を渡した。康子は恐る恐る紙を開くと、その紙には貞治の筆跡で「貞治もともに」と記載がされていた。

 1964年9月23日、二十歳となった先崎龍太郎は、のちの妻となる春江と後楽園球場にいた。そこで、龍太郎は、王貞治の55号本塁打を目の当たりにする。龍太郎は、いつも手帳に挟んでいた紙を広げた。

 「なあに、そのきたない紙」と春江。

 「父の形見だ。親父は、俺が生まれてすぐ戦争で死んだ。これはいったい何のための紙だったのか全くわからないんだ」

 龍太郎は、大手商社に入社し、着実に昇進した。あの紙は、名刺入れの中に大切にしまっていた。長男の先崎慎也が生まれたあとも、質素倹約を貫き、いつしか紙の存在を忘れていた。定年後は、生涯の伴侶となった春江とともに、温泉地を巡るのがささやかな楽しみとなった。

 2024年9月24日は、先崎龍太郎が死亡する十日前だった。

 もう長くない。遺言書を書かなければ。しかしどうすれば……
 龍太郎は、思い出したように、使わなくなった名刺入れの中に入れたあの紙を取り出した。A4サイズのコピー用紙と古い万年筆を手に取る。

 「先崎龍太郎の想い、ここに、」

 いや違う。龍太郎は紙をくしゃくしゃに丸め、書斎の机の引き出しに投げ入れた。

 十日後、龍太郎は息を引き取った。

 告別式のあと、龍太郎の長男慎也は、亡き父の書斎の机の一番下の引出を開けた。

 そこには、丁寧に畳まれた古い藁半紙とくしゃくしゃになったA4コピー用紙があった。

(1197字)

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