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進化の原動力

田舎に住んでいるとよく獣に出くわす事がある。深夜に運転なんかしていると不意にシカやタヌキ、その他諸々の野生動物が飛び出してきて急ブレーキを踏む事がよくある、運が悪ければぶつかってしまうだろう。
目の前を優雅に跳ねていくシカの姿は美しい、胸まである雪をかき分けて進むカモシカには力強いエネルギーを感じる。それらの動物と出会った時、世界は私達人間だけの物では無い事を強く感じる。そして私達はあまりにも人間だけの世界に生きている様に感じるのだ。
さてここから何について思いを馳せようか。
ではこうしよう、いったいいつから何故こんなにも人間と野生動物との隔たりが出来てしまったのだろうか?かつては人間も野生に生きて、本能のまま自然の中で暮していたはずである。
この分野の研究は人類史や脳科学などの専門的な研究者によって今も解明が進んでいる事だろう。私は研究をしている訳でも無いし、専門家でもない、所詮ネットに転がる情報から推測するぐらいしか出来ない。しかし情報もまた人類の叡智の一つである。情報の保存、伝達は人間を進化させた原因の一つであるだろう。

人類は二足歩行により両手を使う事が出来る様になった、そして石器などの道具を使う様になり、脳は発達を続けて400万年だかの年月をかけ現在の人間の様になったのだろう。そう教えられてきた。(ずいぶんと端折ったので気になる方は自分で人類史を調べて下さい)
それなら何で二足歩行になったの?と言う疑問は当然わくだろう。それについては、御先祖様達が森からサバンナのような木のない草原に生活を移す事によって、より周りを見渡し、危険を察知したり食べ物を見つけたりするのに有利だったため二足歩行になったと教えられてきた。
私はこの過程をシミュレーションするゲームをやった事がある、アンセスターズだ。
ゲームの中で私は猿の一族を率いて、森から林、沼に拠点を移しながら食べ物をさがし、未知の恐怖を克服し、サバンナの高温への耐性を獲得し、二足歩行になり、原生人類の祖先へと我が一族を進化させた。
その原動力は何だっただろう?まずはゲームの話、最初の住処に留まって居れば何とか生きてはいける、はず。しかしこれはゲーム、目的がある、進化を促して人類史の最初期を追体験することだ。周りを探索して食料などを探していると、不意にちいさな火球が降ってくる。ゲームとしてのシナリオ、次に進ませるヒントの様な物だろう。勿論気になるのでその火球の落ちた地点に行ってみようとする。そうして様々な困難に対処するうちに石器を使い棒を尖らせ、身を守ったり食料を取ったりしながら、二足歩行へと進化して行く。その体験は完璧では無いにしろ、御先祖様が歩んだ進化の道を追体験しているように感じる事ができる凄く面白いゲームだ。
さて実際には進化の原動力は何だったのだろう?ゲームで感じたのは"好奇心"だ。気になる所に行ってみる。コレは今でも私達が何か新しい事をする時の原動力の一つだろう。
勿論、実際には食料の確保や、より住みやすい環境を求めて移動したのかも知れない。ライアルワトソンの言う水生のサルが二足歩行の原点なんて言うのも面白い。
けれどもやはり私は"好奇心"を推す。タチコマがAIとしての自我を構成したのも"好奇心"が原因だった。(フィクションを根拠にするのは問題あるとは思うけど…)


ともかく、"何だろう"と思って思考を巡らせ想像し創造するのは人間の原動力なのでは無いだろうか?多くの事がネットで調べられる今、あっという間に答えらしき物に辿りつき分かった気になってしまう。自分の経験にならないような短期で浅い体験は、自分を進化させない。ネットにある答えのその先にある自分の体験をしよう。
自ら体験したときにこそ世界に思いを馳せ、さらなる好奇心に火をつけて、進化する事が出来るのではないだろうか。
冒頭の話からしてみるとテーマがずれてしまった、方向としては自然との共生を取り戻すべきではないかと言う話に持って行きたかったのだが…

そもそもこの話のソースがネットやゲームを通しての私の主観であるため説得力はないし矛盾はしているかも知れないが、自らが好奇心を持って調べた事や体験した事を整理してみると、自分を構成する思考が見えてくるのは面白いし、文章に起こすと体験として心に残るだろう。
実は情報の保存と伝達手段、すなわち言葉と突然変異による面白い人類の進化の記事を見て思った事について書こうとしたのだが、ひとまず今回は人間の進化の原動力について考えてみた。言葉についてはまたそのうち。

↓画像にIGN jpの開発者インタビュー記事を貼り付けておきます。二足歩行への進化がいかに難しいかがよく分かります。

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