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第11話 センター街の亡霊

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2000年8月。全取締役の給与はゼロになりました。

この給料支払いストップの現実が、持ち前の闘志に火を注いだのか、創業メンバーの佐藤さんが、がぜん動きだします。

おっのぽーん、こうなったら、死ぬ気で営業っすよー。
ガシガシ広告で売上つくるしかないですわよー

彼女は、別に帰国子女でもないのに、言葉遣いとリアクションが日本人離れした長身ビジネスウーマンです。

「ちゃんと俺のことを社長と呼べ」と心の中で思いながらも、言い出せないほどの圧(失礼、熱量)を持つ女傑でした。

僕が起業前に働いていた、コンサルティング会社の一年後輩でしたが、事業志向が強く、営業向きっぽかったので、創業メンバーに誘ったという経緯があります。

ご両親が小売・流通関係のご商売をされていた影響もあったのか、一円でも多く稼ぐ。というメンタリティがすでに強く備わっていたのでしょう。

考える前に、まだ存在しないバナー広告を売りに、飛びだしていきました。

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少しここで、振り返ってみます。
僕はだれしも、ビジネスマンとしてよちよち歩きの頃、育ってきた家庭環境が、その人の考え方や動き方に及ぼす影響は、少なくないと思っています。

僕はといえば、父が名古屋の自動車メーカーに勤める、モーレツ サラリーマン。母は専業主婦という、典型的な昭和の中流家庭に育った男です。

学生時代は、絵を描いたり、ギターを弾いたり、悪だくみとかイタズラを友人と企てたりするのが好きで、どちらかというと、プランナー的な動き方が得意なタイプでした。


もう少し掘り下げますと、オヤジ方の実家は自営業です。大分県の国東半島という、美しいど田舎で、自動車修理工場を経営していました。

まだ自転車しか走ってない、戦後の九州で、「これからはモータリゼーションの時代になるちよ」と、工場を立ち上げた祖父は、凄いビジョナリーだったと思います。

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うちのオヤジは、その修理屋さんの3人兄妹の長男だったのですが、家業を継いでほしいという親の期待に反し、大学を出て、大企業のサラリーマンとなる生き方を選びます。

商売の家が嫌になったのか、もっと立派になりたいと思ったのかは判らないのですが、多分両方でしょう。

多くを語らないタイプで、あまり家にいなかった人でしたが、彼が、自営業とか、商売をする人たちに対して、どこか複雑な感情を持っていることは、折々感じていました。


オフクロ側の実家は、もっとわかりやすくて、祖父は県庁勤めの地方公務員でした。祖先が寺子屋を営んでいた家系で、ファミリー全員、なにかとプライドが高いところがありました。医者や学者がこの世で一番偉いと思っている系の人たちです。

そんな家族で、健やかに育った母親は、能天気な世間知らずさんです。「ど」がつくほどの倹約家で、お金とか、儲けるとかを、あまり好ましくないことのように捉えている人でした。

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話を戻します。

営業マンの俺。ぜんぜん売れませんでした。
というか、売りにいけませんでした。

平凡な中流家庭で、かつ、アンチ金儲けともいえる価値観の影響を受けて育った、僕の頭の中を簡単にすると、「営業=金儲け=悪いこと」という図式がどこかにあったのでしょう。

ヤベェ。負けないように営業しなきゃ
いや、こんなページビューのサイトのバナー、売れるわけない

この二つの声が、アタマの中をグルグル回っていたと思います。拒否されるのが怖かったというよりは、純粋に営業という行為に対して、「自分らしくない」と思っていたのだと思います。ザ・固定概念です。

結果、営業に行くふりをして、ゲーセンでぼんやり時間を潰し、Ferrari350 Challengeという大型筐体のレースゲームで、毎日2千円ほど散財していたと思います。

渋谷の街を亡霊のように、起業家が彷徨っていました。

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しかし、変化は訪れます。自己嫌悪に苛まれ、身動きできなかった僕をよそにして、佐藤さんが(少しオーバーですが)無双モードに入ったのです。

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