第21話 やりなさいということ
99年の7月末。どうやら子供を授かったらしいことがわかりました。
トモに起業を夢見、世界をあっと驚かすチャレンジをしたいねと、隙間の時間を見つけては、ビジネスアイデアを議論していた、鬼頭くん、泉くんへは、その話を直接、伝えることにしました。
ある週末、二人が、綱島駅から15分ほど歩いだ先にある、こじんまりとした2LDKのアパートに遊びに来てくれました。家賃は14万円ほどでしたでしょうか。社会人2年目の共働き夫婦にとっては、これでも立派なステップアップでした。
二人は、僕らの妊娠の報告を、嬉しそうに聞いていました。ふと気がつくと、泉くんが僕のノートを勝手に開き、さらさらと、こんな落書きを書き始めたのです。
この時期に僕らが夢想していたのは、リクエストを打ち込むと、答えを返してくれたり、一番近いウェブサイト繋げてくれるというサービスのコンセプトです。
「あとはソフトだ」という最後のひとことが、途方もない僕らの非力さを伝えていますね。
まぁ、発想力だけで言えば、泉くんはジェフ・ベゾス並みだったと言えるかもしれません。アレクサじゃなくて、セバスチャンでしたが。
しかしこの時すでに、僕の心は固まっていたのです。
彼らが帰りかけるとき、素直にこう、伝えました。
鬼頭ちゃん、泉ちゃん、申し訳ないけど、俺、やっぱりコンサルティングの仕事を、続けることにするよ。
生活を脅かすリスクは取れないな。
子供のために、しっかりと今の職場で給料を稼がなきゃ。
お父さんになるんだから、ちゃんとしないと。
後ろ髪は引かれつつも、起業は断念することにしたのです。
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そのたった数日後。8月末。
ねっとりと蒸し暑い、昼下がりの午後、職場の僕の携帯に、奥さんから、突然の電話が入ったのです。
彼女はとても気丈に、経緯を説明してくれました。むしろ、申し訳なさそうだったとも言えます。病院では、あっさり事務的に処置をされ、すでに帰宅したよと、話してくれました。
僕はというと、なぜかすぐ、自宅へは戻りませんでした。
いや、戻れなかったな。
会社を抜け出して、公園に向かいました。ブランコを見つけます。
久しく記憶にないほど、ずいぶんと長い時間、ブランコを漕いでました。
入道雲がとても大きくて、ずっと見ていたことを覚えています。
その晩、ベットに横たわりながら、奥さんは、こんなことを僕に語りかけます。とても優しく。けれども、覚悟を帯びた調子で。
これはね、あなた、
会社をやりなさい
ということよ。
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渋谷の居酒屋、春夏秋冬。
僕のこの話を、じっくりと聞いてくださった、帽子を被らない銭形警部こと、川野さんは、話が終わるやいなや、テーブルをバンっと叩きました。
よぉーっく、わかりました。
この川野の名にかけて、全身全霊で、
社長の会社の売却先探し、手伝わせていただきます。
塾長の名がどれだけ重いのかは、きちんと把握していませんでしたが、とりあえずはどうも、納得してくれた様子だったことと、「あんた」から「社長(アクセントは前)」に、再度昇格したことに、僕はホッとしていました。
そこからの川野さんの動きは、本当に力強く、素早かったです。個人にも、JAICにも、何もメリットないのに。
漂流していたプロトレード 号を再び押し出す、強い風が吹いてきたのです。
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