Epilogue エグジットの実際
あまり表には出ない類の話に、なるのかもしれません。
スタートアップが、M&Aでエグジットに至るケースは、日本では一体どのくらいあるのでしょう。
数字はいろいろありますが、大企業が小規模買収を面倒くさがり、小型IPO市場が、いい意味でも悪い意味でも、整備されてしまった日本では、スタートアップのエグジットは、まだまだ少ないです。対象を広めにとっても、年間60-70社といったところでしょうか。
そして、さらに、その「中の人」のリアルな感情がどうだったのか、語られているケースは、とっても少ないですよね。
だとすれば、一つのサンプルとして、当事者が書くことは、少しは意味があるのかもしれないと思いまして、ちょっと独白してみようかなと思います。
僕は19年前、起業から売却までのプロセスを、創業者として体験しました。今年、懲りずに二度目の起業をしましたが、自分の過去にケリをつけたくて、こちらのマガジンに物語をまとめました。
ここでは、ビフォーアフターの、アフター。
つまり、エグジットして、お前どうだったのよ?
という話を少し書いてみます。
Exit
その単語の意味を、辞書で調べてみました。
Exit: 出る。退出する。抜け出す。死ぬ。
昔、安室奈美恵さんが、Body Feels Exitと歌い踊りまくってました。あれも、かの有名な小室英語の一つですが、敢えてネイティブが解釈すると、トイレで排泄したいという意味に解釈されると聞いたことがあります。改めてあの曲を聴くとExitの緊迫感がよく伝わるものです。
スタートアップの世界、特にシリコンバレー的な価値観では、Exitというのは、成功の扉を開け、天国に登ってゆくかのような、多幸感を伴っていますね。アメフトにおける、タッチダウンのようなものでしょうか。
しかし、先に書いたように、Exit=「死ぬ」という訳。それもまた、言い得て妙かもしれません。人の死を、生物としての終焉と捉えるならば、買収は、法人としての、その役割の終焉ですから。
とにかく、企業を売却するという行為を、エグジットと変換するだけで、色々と、味わい深いなと思うわけです。
では、僕の場合はどうだったのか。
プルチックの感情の輪という、ちょうどいいツールがあったので、これを使って分析することにします。
(これ、ただ感情を整理しただけでなく、円の中心から外へ、時間を経て感情が移ろいゆく様を、うまく表現されています。また、対極の感情が向き合って置かれていること。隣り合ったグレーは感情が混じった様を描き出しています。とても美しい図です。)
楽天によるプロトレード社の100%買収の交渉がまとまり、エグジットが決まった直後の10月から、楽天に11月に入社するまで、僕の中にはとても強い感情が、複雑に絡み合い、押し寄せてきていました。
はっきり言って、盛大に混乱していたと、言い切ってよいと思います。
プラスの感情からいくと、「恍惚」。もう少し正確を期すると、放心に近い感情。
この時は、シリコンバレー的な価値観からの、「Exit決めてやったぜー。うぇーい。」という、ささやかな成功からくる、恍惚感は、確かにありました。
それから、給料ゼロの数ヶ月の後に、通帳にまとまったお金が入ってきたことも、恍惚といえばそうでした。(とはいえ、ささやかな郊外のマンションの、頭金くらいにしかならない額でしたが)
プラスの感情は、それだけでした。そして、この恍惚の感情、想像以上に刹那的だったのが誤算です。たぶん、一週間も続かなかったのではないでしょうか。
もし、もう一生遊んで暮らせるだけの額でのエグジットだったら、違っていたでしょうか。いや、一週間の恍惚が、一カ月にかわるくらいで、あまり変わらないように思います。
友達で、エグジットしたあと、二年間、銀座で遊びまくった男がいます。それ自体が、楽しかったのは間違いないものの、裏の心情としては、寂しさを紛らすための行為だったそうです。
その人も、恍惚感は、一瞬だったと、同じことを言っていました。
僕の場合は、その恍惚の感情の外に描かれています、「喜び」のフェーズをすっ飛ばして、さらに外側の「安らぎ」フェーズへと一気に感情が変化しました。
これで、平穏な生活に戻ることができるなぁという、安堵感と開放感でしょうか。
そう考えると、ディールの成功と、お金から得られる興奮なんて、たかが知れていましたね。特にお金に関しては、厄介なものでした。手にしたら、したで、新たな不満と不安を呼び込むものです。
プラスの感情... は、それくらいでした。
では、マイナスの感情は、どうでしょうか。
自分がリードして、実現したエグジットでしたので、図の中心側の、瞬間反応的なマイナス感情(激怒、憎悪、悲嘆、驚愕、恐怖)はなかったのですが、その外側レイヤーのジワッとくる感情は複数、強く混ざりあっていました。
まずは「怒り」。つまり、自分へのがっかり感からくる、怒りです。「苛立ち」とも言えます。どうして、相手が3流VCだろうか、何が何でも調達しておかなかったのか。どこかで逃げてしまったのではないか。リーダーとして、なぜもっと僕は真摯にチームに向き合わなかったのか。等々。
要するに、もっとやれただろ。頑張れただろ。という気持ちからくる、苛立ちが強く尾を引きました。
次に、「嫌悪感」これは、あれだけ嫌だなと感じたサラリーマンに、また戻ってしまうということ。そして、それに対して僕の一部は、安心・安堵と感じてしまっているという事実。
そんな、ヌルい生き方を喜ぶ気持ちが、自分の中の、どこかにあること自体に、嫌悪を感じていました。自己矛盾にもほどがあるぞ、と。
それから、「感傷」。これは、ノスタルジー的な感覚と、過去のイタい頃の自分を見る、辛さと、混ざり合った感じです。
世界を変えてやろうって言っていたね...
IPO目指そうって、言っていたよね...
あの独立前から事業スタートまでの、胸が高なる思い。あれは、どこにいってしまったのだろうかと思います。
最後に、「不安」。買収先の楽天で働くことが果たして幸せなのか。案じていたところはあります。ただ、より本質的には、起業家から、サラリーマンになることで、自分のパフォーマンスが著しく下がってしまうのでは。という、直感的な不安でした。
これは、経験しないとわからないと思いますが、株を持って会社の経営者になると、世界が変わります。多くの経営者仲間が、口を揃えてそう言うので、きっとそうなのでしょう。
どんなに小さな会社でも、代表取締役となると、途端に会える人の種類が変わり、話すことが変わり、活力とアイデアが尽きなくなります。自分の潜在能力が、ガツンと解き放たれるものです。
勘違いを含め、そんな「自分史上ベスト」の自分を一度体験してしまうと、その刺激が忘れられなくて、サラリーマンに戻ることが不安に感じてしまうのです。
総括しましょう。
もし、外から評価するならば、株主に7倍のリターンを出し、新たな価値を認めてくれた楽天市場との事業連携にこぎ着けたのですから、まぁ、世の中では成功と呼ばれるのかもしれません。一定の達成感はありました。
しかし自分の中では、このように、マイナスの感情がドグマのように渦巻いていました。時間が経つにつれて、失望感と、喪失感は、強くなるばかりでした。
僕にとってのエグジット。
それは、確かに、死でした。
起業家としての死。
その男の、一つのアイデンティティの解体。
2000年10月。イケイケで無防備で、野心的な、
成功を夢見る若者というペルソナが、死を迎えたのです。
エグジットしても、それだけでは、幸せにはなれないし、決して楽でもなかったということですから、なんだか、救いのない話しにきこえますね。
では、起業して、エグジットしたことを、僕は後悔したのでしょうか?
ここが人生の面白いところです。
僕にとっては、中途半端に固執せず、しっかりと死ねた事。それは幸いでした。
もし、中途半端な気持ちで、中途半端に資金調達し、だらだらと経営していたら、どうなっていたでしょう。
はたして僕は、人間として、成長できていたかというと、疑問ですし、そもそも、あの時の27歳の自分にとっては、それは幸せなオプションには見えてませんでした。
いろんな意味で学ぶだけ学び、リセットした上で、次のチャレンジに繋げられる権利が得られたのだし、多くの関係者に不義理をすることなく、陽の当たる道を歩き続けられたのですから。
トラウマのようなものは残りましたが、それは、やがて、自分の原体験となり、その後のキャリアを築く上での、バネとなりました。だから、よかったなと。
起業をしたこと自体も、後悔したことはありません。経営している最中では、なんでこんな大変なことやってるのかと、後悔することはありましたが、ことエグジットした後となれば、後悔は一度もありませんでした。
やはり、男として生まれ、一国一城の主になる挑戦をしたことは、結果はともかく、誇りに思うわけです。だから、本気でも、カッコつけでも、たとえ上手く運ばなくても、起業は、無条件で素晴らしいのです。
そして、エグジットも、葛藤は常に伴いますし、いざいろんなものを手放すには、大きな勇気がいるのです。だからこそ、これまた、無条件で素晴らしいと思うのです。
冬があるから、春を迎えられるように、
死は、新たな生を、うみだすのでしょう。
つづく
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