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横浜大空襲から79年

何年も書かずにいたが、今年は書こうと思う。1945年(昭和20年)5月29日に横浜大空襲があった。太平洋戦争末期、アメリカ軍によって横浜市中心地域に対して行われた無差別爆撃。9時20分から約1時間に及んだB-29爆撃機 517機・P-51戦闘機 101機による焼夷弾攻撃で、横浜市の3割以上の面積が焼失、8千人から1万人の死者が出た。2024年5月29日でその悲惨な日から79年が経ったことになる。

世界ではまだあちこちで紛争が起き、虐殺が起きている。横浜大空襲も虐殺である。もっと云えば無差別大量殺人である。空襲とかの言葉で取り繕っているが、人殺しである。それが戦争ならなぜ許されるのか。許されるべきではないことである。どんな詭弁を使おうが人が人を殺したら殺人である。いかなる美化も風化も許されない。それだけははっきり云っておきたい。殺人反対。戦争反対である。

横浜市戦没者慰霊碑

横浜の三ツ沢公園(神奈川区三ツ沢西町)にある横浜市戦没者慰霊塔に行ってきた。ここは、太平洋戦争中に建設が進めらていた神奈川県護国神社の場所である。しかし、完成を待たずして横浜大空襲により焼失しそのままになっていたのだそうだ。昭和28年(1953年)に建立され、平成7年(1995年)に改修されている。塔の奥には安置堂があり、西南戦争(1877年に起きた日本国内最後の内戦)から第2次世界大戦までの戦没者2万余柱の御霊が安置されている。由来を記した説明板にはこうある。

(前略)塔は門を象徴しており、向かって左の塔は、高さ十八米で上部を欠いてあり、下部に「昭和二十年」の五文字を浮き出してあります。 これは、今次大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表したものであります。 また、向かって右の塔は高さ二十五米で新生日本が雄々しく、将来にむかって発展する姿を表したものであります。 横浜市

横浜市戦没者慰霊塔説明板より

新生日本は今どうなっているであろう。不戦の誓いを忘れ、新たな戦前に逆戻りしていないだろうか。生活が不安定で窮屈になっていることなどからのやり場のない不満から、その矛先が向いてはいけない方に向いてしまったりはしないだろうか。そんな力は今の日本にはないと云う意見もあるとは思うが、恐れや怒りなどの気持ちを侮ってはいけないと思う。帰ってきたウルトラマンの劇中で伊吹隊長が「日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を持つとどれだけ残忍極まりない行いをすることか(怪獣使いと少年)と呟くシーンがある。僕はこのシーンを良く覚えている。放映日は1971年(昭和46年)11月19日。僕が9歳の誕生日を迎えた直後だった。子供番組にあるまじき悲惨な迫害描写が続き、集団心理の恐ろしさをこれでもかと見せつけられた。ウルトラマンが一瞬ではあるが身勝手な人間に愛想を尽かしたシーンもある。戦争反対。たかが漢字4文字であるが、これすらも大きな声で云いにくい現在。その当時と何も変わっていないか、進歩がないか、却って後退しているのではないかとも思えることもある。中学生の頃に読んだレイ・ブラッドベリの「華氏451度」の世界が今ここに、実際に繰り広げられているような感じもする。人間が自分で考えずに、テレビなどから与えられた情報の中だけで生きる、表面的には平穏な世界。今はまさにそうなのではないか。うまくまとまらないが、不安で不安でたまらない。こんな気持ちが伝わるのかどうか判らないが、とにかく書いてみた。無限の大事業ではあろうが、少しずつ、少しずつでも世界が平和に向かうことを願っている。

平和記念塔

三ツ沢公園の横浜市戦没者慰霊塔のすぐそばに平和記念塔が立っている。塔の裏には「昭和四十四年十月 横浜市遺族会建之」とある。詳細は不明なのだけれども、この塔の上に不思議な造形がある。

不思議な造形

地球を表しているであろう半球を挟んで、二体の得体の知れない造形がその半球の上で手(なのだろうか)を繋いでいるように見える。頬っ被りをした河童ちゃんのようにも見えるが、ウルトラ世代の僕にはどうにも怪獣や宇宙人に見えて仕方がない。赤い頭部の形状がラブクラフトの小説に登場する未知なる古の存在にも思える。そんな風に考えなくとも充分に不思議な造形である。これはこうして未知なるままに存在し続けるのであろうか。全くまとまらないが、今回はこれにて。当時、横浜だけでなく日本のあちこちでこうした悲惨な虐殺があったことを、夏には原爆を投下されたことを、それがたかだか79年前のことであることを、少しでも考えて戴けたらと思う。

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小野瀬雅生
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