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何が何だかわからないのよ丼
世の中わけのわからないことだらけである。良かれと思ってしたことが裏目に出て酷い目にあったり、これはイケるぞと思ったことが全然評価されなかったり、逆に全く何の思い入れもないことが物凄い好評を得たり、人様のことに余計な口を挟まなかったことを深く感謝されたり、まさに何が何だかわからないのよ、である。
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オジー・オズボーンに云わせれば、俺に聞くな、知らねぇよ、ってな感じであろうか(「I Don't Know」)。
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ピーター・ガブリエルに云わせれば、覚えてない、記憶にない、って感じであろうか(「I Don't Remember」)。
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植木等に云わせれば、まさしく、何が何だかわからないのよ、である。ここまで読んで、本当に何が何だかと思われていることかと存じます。すみません。本題に入ると云っても大した本題ではないので、まあ気楽に読み進めてください。
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麻婆焼きそばを作っていた。これはなかなか凄いアイディアだと思ってやってみたことが成果を得られなかった。それではと云うことで、王道的に作ってみたらそれもちょっと思惑が外れたのだった。そのうちちゃんとまとめるが、外れる時は外れるのである。イワユル企画倒れ。よくあることだけれども、ショッキングである。半ば放心状態で残った具材を眺めていた。
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残ったタケノコを小さめの賽の目切りにした。小野瀬家では代々麻婆豆腐(丸美屋の中辛)にタケノコを入れていたのである。なので麻婆豆腐を作る時にはタケノコが必ずある。豆腐も同じくらいの大きさに切ってみた。何故か大きさを大体揃えてみた。どこを目指すのか判らないままに挽肉と一緒にタケノコと豆腐を炒めた。さあどうする。軽く塩コショウで味付けをしてみたら、ああ何だかこれで事足りているではないか。これをご飯に載せて食べてみよう。
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題して、何が何だかわからないのよ丼、の完成である。完成形のない途中経過のようなものであろうか。青ネギでも散らせばルックスも良くなったかも知れないが、この得体の知れなさはは失われてしまうかも知れない。なのでこれで良かろう。
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わからないんだ、とか、わからないんだよこの野郎、とかではなく、わからないのよ、とやわらかい云い回しであるのがポイントである。そう云えば麻婆豆腐を作る時にはニンニクも入れたが、ニンニクを入れるとそれはそれで明快に方向性が出てくるので入れなくて良かったかと思う。挽肉(合挽)と豆腐とタケノコだけと云うのがなかなかの据わりの悪さだと自負する。
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ウマウマウー。これが予想以上にウマかったのである。色々やってみて弓折れ矢尽きした結果、この残り物の適当なチャンプルーが(豆腐が入っているからチャンプルーだ)僕の心に沁みたのだった。ここ数年、いやここ数ヶ月、いやここ数日くらいで、自分の嗜好が大幅に変わってきていることを実感している。どんどんと好みがシンプルになっている。と云うか新しいフェイズに入っているような感じがする。今まで美味しいと思えていたものが、ちょっと違う印象であったりするのだ。そりゃ60年も生きてりゃそんなこともあろうかと思う。でも自分の中で記憶に深く刻まれた味や印象は別格で色褪せないものだと思っていた。それが違ってきたのだ。松田聖子に云わせれば、何もかも目覚めてく新しいワタシ、と云った感じだろうか。変な云い回しをすれば憑き物が落ちた感覚でもある。残り時間があとどれ位だなんて風に意識はしないけれど、確実に残り時間を生きている。自分が美しいと思ったもののために生きようと思う。それが何かと問われると明確ではないのだけれど、確実にそれはある。神と云う言葉にも近いだろうか。それよりも畏れなのだろうか。そんなわけで今回は何が何だかわからないのよに終始致しました。そう云えばnoteを始めて4年。これからも小野瀬雅生をどうぞよろしくお願い致します。
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