見出し画像

【生い立ち】人生を諦めていたが配達業のおかげで人間になった(1)

初めまして。おのと申します。自分の思考をまとめる為に綴ります。

私は2019年1月から2023年8月まで約4年半業務委託の配送業を営んでいました。
2024年2月現在29歳男、無職。
一時離職という形でお休みをいただいている状況です。
※2024年6月現在追記 内定をいただき就職をする予定。

業務内容は個人宅配、軽自動車のバンで個人宅や会社に荷物を届ける仕事です。
業務提携先はAmazon、郵便局、ヤマト運輸で私は主にAmazonの商品がメインでした。
結論ですが配送業をやっていて良かったと思っています。

配送業と会社に救われ、現在に至るまでをまとめます。
この章では生まれてから11歳までの幼少期を記録しています。


ざっくりと現在まで

引っ越し転校が多め、かつ両親が不仲で仮面夫婦。
根明だが、常にどこにも居場所がないような感覚で過ごす。

中学卒業と同時に両親が離婚。
学校へ行く理由を見出せず、不登校ひきこもりに。

通信制の高校に編入。
芸術大学を目指す、資金作りにひたすらバイト。

東京藝術大学を3回受験するが掠りともせず。

精神を病み、縁もゆかりもない街に引っ越し。
半引きこもりに。
(夜勤のバイトで最低限のお金を稼ぎ、人付き合いは極力しない生活)

知り合いの紹介で配達業を始める。

金銭的に人並みな生活を送れるようになる。
仕事で体を動かし、日光に浴びるため、心身ともに健康になる。

ある程度のお金と、趣味、ポジティブな心身を手に入れ
初めての就職活動(30歳)。

4社内定をいただく ← 現在

幼少期


私の両親は仮面夫婦でした。家庭内別居と言いますか一緒に住んでいるけどしかたがなく結婚を続けているという状態です。

  • 父 国立大卒、元バンドマン。中小企業の営業職。カラテカ入江さん似

  • 母 専業主婦、父の7つ下で20歳で私を出産。自閉スペクトラム症。女優の水野美紀さん似

  • 妹 私の3つ下でとても女の子らしい明るい性格。かわいい。

少しネガティブな書き方になってしまい誤解があるかもしれませんが、
父も母も家庭を良くしようと、子供をちゃんと育てるべく必死でした。
現在も親子関係は良好です。
問題は父と母の相性は最悪なのに結婚生活を続けていたことです。
普段は仲良く振舞っていますが、夜は遅くまで喧嘩をし怒声を響かせておりました。
おかげで子供ながらに不眠症。
現在私の身長は164センチですがもっと寝れていれば190センチあったかもしれません(笑)
子供は敏感です。
歪な雰囲気を感じる能力は大人よりも備わってると思います。
結局私が中学を卒業すると同時に離婚、最悪な仮面夫婦生活に幕を閉じるわけですが、ダラダラと続けずに早く別れろと思うかもしれません。
結果的に別れた方が正解だったと思います。
今現在の方がお互い幸せに暮らしていますが、
当事の両親にも教育方針や「子供のため」と言った体裁があったのでしょう。

父は27歳で中小化学薬品メーカーに営業マンとして就職をしバリバリと働きます。
それまではパンクバンドのボーカルとして活動をし、母との結婚を機に完全に音楽活動を断ちます。

私は中学校を卒業するまでお金に不自由を感じたことはありませんでした。
誕生日とクリスマスプレゼントを毎年買い与えられ、土日には近くのショッピングセンターに連れて行ってもらい、年に一度は家族旅行をした記憶があります。
子供の頃は当たり前だと思っていた生活ですがこれを維持することがどんなに大変なのか今となってはわかるつもりです。

そして父は重度の喘息持ちでした。毎日深く長い発作を起こし文字通り死にそうになっていました。
営業先で化学薬品工場に行くので薬品で鼻炎になり真夏でも鼻を噛んでいました。
現在もたまに会い食事をしますが、味がするかは鼻のご機嫌次第のようで大体無理して美味しそうにしています。
アルコールアレルギーでお酒が飲めないのに取引先や上司の付き合いでお酒を飲み、茹で蛸状態で家に帰ってきたことも多々ありました。
元お笑い芸人のカラテカ入江さんに似ています。

体が弱いのに身を粉にして家族の為に働く父はスーパーヒーローでした。

母は自分のお母さんを14歳の時に亡くしています。
その死因が原因で現在も心に深く傷を負っています。
そんな繊細な母ですがとても優しく、必死に家事をこなしました。
いつも家はピカピカだし、3食のご飯は全て美味しく、毎日友達を家に呼びましたが笑顔で対応してくれました。
20歳で若く私を産んだ母はママ友コミュニティでかなり努力してくれたのだと思います。

近所の複数のお母さん達に
「〇〇くんのお母さんは何歳なの?」
答える
「え!!すごいねえ!!」(2、3人笑いながら)
こんな心無いやりとりを何回も経験しました。
当時は何も思いませんでしたが今では察せます。
こんなご近所付き合い状況でしたが、私は近所の友達を毎日家に招いて夜遅くまでどんちゃん騒ぎをしていました。

家計のやりくりも上手だったのでしょう、子供が無駄な出費をせびってもそつなく対応していました。
色白で綺麗で母に会う為にうちに訪れる上級生の友達がいました。

美人で優しい母が大好きでした。

1回目の引越し、神奈川から埼玉へ

父の実家がある神奈川県大和市で生まれますが、両親が埼玉県伊奈町にマイホームを購入し小学校入学前に引っ越します。
近所付き合いが盛んで、友達がたくさんいたので寂しかったことを覚えていますが、伊奈町も長閑で良い場所ですぐに馴染みました。
田んぼが多く、カエルやトカゲを追っかけたり、木登りをしたり毎日がアドベンチャーでした。

父曰く、自然が多い場所で子供を育てたいと伊奈町に決めたらしいです。
母曰く、父がそういうから伊奈町に決めたらしいです。

幸せな家族の定義とは

そんな両親は側から見たら幸せに映るでしょう。
埼玉県の伊奈町に一軒家を購入します。田舎ですが子供が育つには良い環境で、実際私も妹も明るく健やかに育ちました。

しかし両親が余所余所しいのは子供からみたら明らかでした。
父は不自然に母を褒め、母は父に愛想笑いをする。
正月は父の実家に行く、母は罰が悪そうにしている。
母は部屋に篭り籠城する。(鍵をかけ突っ張り棒でドアを塞ぐ)
母は体調が悪く寝込んでいる日が多い。
母は突然家出をする。
父の行き過ぎた体罰。
家族4人が集まる時の険悪な雰囲気
父は払拭しようとギャグをする、母は無視をする。
深夜まで続くお互いの怒声
などなど

不自然な環境と完全な上下関係が日常でした。
ですが、今思い返すと幼少期の頃の両親の関係は良好と言えなくても継続可能でした。少しの歯車がずれ家庭はさらに険悪な雰囲気になります。

幼少期から結婚に対してネガティブな印象を強く受け、その気持ちは今でも変わりません。
そして、世の中のお父さんお母さんは様々なものを犠牲にし、結婚生活を継続しているなら、
それ相応の幸せを手にしているのだろうか?疑問に思います。

お金があったら幸せなのか
健康だったら幸せなのか
仲が良かったら幸せなのか
価値観が合えば幸せなのか
余白を共有できれば幸せなのか
子供がいたら幸せなのか
何が満たされていたら幸せなのか
私にはまだわかりません。
よって思考を放棄し結婚そのものに対し否定的です。
ひとつ子供が言える事は親の問題は両成敗だということ。
どちらが良い悪いはありません。
両親どちらの味方でもありません。
そして子供は忘れません。

2回目の引越し、埼玉から愛知へ

私が11歳の夏に愛知県春日井市に引っ越します。
理由は父の名古屋移動。転勤です。
伊奈町には友達がたくさんいたのですごく悲しい思いをしました。
マイホームが埼玉にあるので必ず戻るよと父は私を説得しましたが、
薄々もう戻ることはないとわかっていたし、どこでも友達ができる自負があったのでどうでもいいという思考でした。
しかしそれと同時に人生は力がないと理不尽なことが起こりうるのだと理解しました。
そのきっかけになるのは恋愛でした。
両思いと失恋を経験し、初めての自責思考を感じるきっかけになりました。

片思いの成就と同時の失恋

小学校2年生から好きだった女の子(K)がいました。
Kは親友(Y)のことが好きとのことで、
実際YはKから告白されたと私に報告しましたが興味がなかったようです。
Yは私の前でKはブスだと陰口を言っていたので喧嘩になった記憶があります。

ある日の下校中、Yは私に突然キスをしてきました。2人で下校していた最中です。
それ以降、1回では終わらず下校中何度もキスをしてきましたが、Yのコミュニケーションは独特だなあと適当な反応をしていました。
私とのキスを自慢げに吹聴していたのでそういうことだったのかもしれません。
Yは男の子なので当時子供の私はよくわかっていませんでした。
実際真意はわかりませんが、もし私のことが好きだったのなら3角関係でしたね。
私はYに対して無意識に酷い対応をとっていたのかもしれません。

ずっとKに片思いしていましたが、
小5の夏休み後半、8月の小学校のプール開放の日。下駄箱でKは私のことを待っていました。
1枚の封筒と共に。
帰ったら読んでねと一言だけ告げそそくさと逃げ帰ってしまいました。
そのとき、Kがどんな表情をしていたのか覚えていません。
いつもと同じ声色で、明るく渡してくれました。
結論この日がKとの最後の思い出になります。
今思うとプール開放なんて参加自由のイベント、登校しない子が多い中よく2人とも参加したなと。
そして手紙を渡すために何日もプール開放に参加していたんだなと。

封筒の中にはアイロンビーズだか木工ボンドで作られた平べったい謎の作品と、2枚の手紙が入っていました。
手紙の内容はほとんど覚えていませんが、
2枚目には本文と題され、
私のことがずっと好きだったことと、愛知県で頑張ってほしいといった旨の内容。
ラブレターでした。
衝撃でした。
Yの事が好きだと思っていたし長年の片思いは両思いだったのだと。

私は幼少期太っていました。
肥満児で運動神経が悪くて、勉強もそこそこ、ルックスも良くない。
でも能天気で明るかった。
当時の私を好いてくれたKのことは一生忘れないと思います。
所詮小学生の恋愛だと思うかもしれませんが、この経験が今でも希望と絶望をくれるのです。
得た希望は、
私はルックスに関係なく好かれるということ。
得た絶望は、
人生(特に子供時代)は理不尽な大きな流れには逆らえないということ。
この時は親の引っ越しというイベント。

人に好意を伝えるのはすごく勇気のいる行動ですよね。たとえ子供だとしてもリスペクトしますし、当時の私にはできませんでした。
この経験から早く行動していれば人生は違っていたのかなあとふと思うこともあります。
思い立ったらすぐ行動すること🟰徳でしかない。
しかし引っ越す直前に渡された好意は結果的に忘れられない経験になっています。

それっきりKには会っておりません。プール開放は私が引っ越す直前の登校日でその日を最後に伊奈町を去ります。
そしてKを含め神奈川県大和市、埼玉県伊奈町、小学校時代の友人で連絡先を知っている人は1人もいません。
今の若い方はSNSが普及し大変なこともあるかもしれませんが、羨ましくも思います。
Facebookやれば連絡取れるじゃん。
自分でも思います。
が、
人に誇れるとは言い難い人生を歩みます。
「そこまで悲観的にならなくてもいいじゃん。」
と、
自分でも思います。
側からみても実際そんなにしんどくないしもっと酷い人生を歩んでいる人もいます。
通信制高校卒業の職歴なし無職、29歳です。
まだまだ頑張れる気力があります。
でも何回も自分のことを、他人のことを裏切ってしまったから。
幼少期の自分と今の自分は変わりすぎてしまったから。
少なくとも迷惑をかけた人がいる以上、
実名で表立って活動したり、昔の友人に連絡をするのは時間がかかるのかなあと思っています。

どうかKさんは健やかに幸せに生きていてほしいと願っております。

伊奈町を去る時の車内でL'Arc~en~Ciel「花葬」を聴き泣きました(笑)
なんて世界は理不尽なのかと(笑)
忘れられない小5の夏。
発症したのでしょう、現在まで続く中二病に。
出会ってしまったのです。強烈なナルシズムに。

Part2は愛知県編です。
・両親の離婚
・不登校ひきこもり
・通信制高校編入
・バイト掛け持ちのバ畜
・夜遊びライブキッズ
・美術大学を目指し予備校通い
・アラサーバンギャの家事手伝い
・高校生卒業
こんな感じで続きます。


いいなと思ったら応援しよう!