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【短編】ピンクの象が窓から(改稿版)
ピンクの象が窓からじいっとこちらを見つめている。私は負けじと彼を見つめ返す。彼はゼラチン質のねばねばした何かでできていて、窓枠(もう何年も、誰も塗り替えていない)にベタベタとくっついて、なかなか離れそうにない。私は手を伸ばし、ノブを押し上げて窓を開け、彼に触ろうと試みる。けれど背の低い私の手は、頭のはるか上のノブまで届かない。私がそうしている合間にも彼は絶え間なく私を見ている。部屋の角のクリスマスツリーに巻きついた豆電球がピカピカと輝いて、彼の半透明の体にその蛍光緑の光が混じる。私は窓を開けるのを諦めて、ピンクと緑の溶け合う、その奇妙な色合いをじっと見つめている。
ジェニファー、とママの呼ぶ声がする。頭に結んだ青いリボンが後ろに引っ張られた気がして、私は振り返る。今日のママの声はざらざらとして、どこにでも引っかかる猫の舌みたい。はやく行ったほうがいいよ、と私の頭の内側でもう一人の私が言う。その声を聞き、私は慌てて象の方をもう一度見て、言う。「待ってて、今あんたにクリスピー・クリーム・ドーナツのホリデー・スプリンクルをあげるから」って。
赤と緑のシマシマに塗られた、1年に一回しか店頭に並ばないクリスマス仕様のギフト・ボックス。その中に並ぶたくさんのドーナツたち。それらを想像した途端、口の中に唾液がいっぱいに広がる。もう一度、ジェニファー!と叫ぶ声が聞こえて、今度はスカートの裾が引っ張られた気がしたので、私は大慌てで居間を出てママの元へと駆けてゆく。ピンクの象はその間もじっと私を見ている。
ママは疲れた表情で洗濯室に立っていた。洗剤の大きなボトルを持ち、片手には洗濯機に入りきらなかった洗濯物を抱えている。足元の洗濯カゴにはまだ大量の洗濯物が山盛りに溢れ、後2~3回は洗濯機を回さないと洗濯は終わりそうにない。ラヴェンダー色の古い壁紙がそこらじゅうめくれ上がっている洗濯室はメキシコ・ダウニーの人工的な花の香りに満ち溢れ、さっき乾燥機から出したばかりの熱を放つ洗濯物たちのおかげで太った猫の胃袋の中みたいにぬくぬくとしている。ママの、黒い線で縁取られた目と炭のかけらみたいに太く塗られた眉毛だけがその中で浮き上がって見える。
「早く子供部屋からあんたの洗濯物を持ってきてちょうだい」
こう言う声の時のママには逆らわないで大人しくしといたほうがいいよ、セーリだから、そうずっと前に教えてくれたのはお姉ちゃんだ。セーリって何、と私が聞いたら、お姉ちゃんは片目をつぶって「あんたがもう少し大きくなったら教えてあげる」と言った。
「秘密を知るにはね、それにふさわしい年齢ってものがあるのよ」ーー灰色のパジャマとギンガムチェックの青いリボンが大のお気に入りだったお姉ちゃんは3年前の夏にワシントンパークの脇の車道で20tトラックの車輪に巻き込まれて死んだ。トラックの車輪がお姉ちゃんの漕いでいた自転車に接触し、お姉ちゃんの体はあっという間に車輪の中に巻き込まれた。私はその瞬間を見ていない。パークのプールでママと一緒に黄色いアヒル型の浮き輪に捕まり遊んでいたから。見たのはずぅっと後になってからだ。意地悪で実況が大好きなユー・チューバーと呼ばれる人種のうちの1人が、パーク横の団地のベランダからスマート・フォンの画面越しにその様子を見ていた。彼はお姉ちゃんの後ろにトラックが近づくのを見ても「危ない」とも叫ばなかった。ただ黙って撮影していた。少なくとも彼がYouTubeにアップした動画の中にそう言う声は含まれていなかった。お姉ちゃんの体が車体に巻き込まれて見えなくなった後に「すげえ」とか「ジーザス」とかいう彼の独り言だけが、自転車の部品が飛び散る鋭い金属音の中に混じって聞こえた。すでに骨を砕かれ、ぐにゃぐにゃになったお姉ちゃんの体を引きずりながらトラックがパークの脇の道を全力で疾走しても、彼はその四角い画面の中にずっとそれを収め続けることに夢中で、警察に通報すらしなかった。点々とお姉ちゃんの破片を地面に落としながら、トラックが黒い点となって画面の奥に消えるまで、その様子をずっとスマートフォンで撮影し続けていた。
彼の動画はYouTubeにアップされ、あっという間に複製され、世界中のあらゆる国のあらゆる地域のサーバーに保存され、分裂するアメーバみたいに消しても消しても無限に増殖した。ママはその5分ちょっとの動画を執拗に追いかけ続け、見つけては削除依頼を出し続けた。家事も仕事も放り出し、毎日12時間以上パソコンの前に座り続けるママを誰も咎めなかった。パパはママを慰めにうちに何度も足を運んだけど、ママは別にそれを必要としていなかった。お姉ちゃんが死ぬ前に週に1度あった「パパの日」もおしまいになり、私はたった一人、灰色の中古住宅の中にママと一緒に取り残された。
私は何もすることがない。学校にも行ってないから、宿題も、クラブ活動も、地域のチャリティー運動も何にもない。誰も私のことを気にかけない。だからときどき、ママが見つけそびれたお姉ちゃんの動画をインターネットで探し出してこっそり眺める。何回も何回も何回も。ユー・チューバーは、トラックに巻き込まれる直前のお姉ちゃんの顔をズームで撮っていた。7月のエーデルワイス色の陽の光に笑顔を浸し、目を細めて後ろを振り返るお姉ちゃん。ぼやけた画面の中でお姉ちゃんの笑顔はぐんにゃりと粗い粒子に分解され画面じゅうに分散する。その笑顔は見ている私の心に忍び込む。お姉ちゃんは私の中で永遠に笑顔だ。ピンクのヘルメットをかぶり、金髪をなびかせて走るお姉ちゃん。0:25まで笑顔のお姉ちゃん。確かに生きていたお姉ちゃん。その先のことは知らない。0:25までは現実で、その先の映像は、どこか別の世界の出来事みたいだ。
ともあれ、こんな風にしてお姉ちゃんがいなくなってしまったから、私にセーリについて教えてくれる人はいなくなってしまった。私がセーリと関わることはもしかしたら永遠にないのかもしれない。幼馴染のジョージが「秘密を誰かに教えてもらえないやつは、仲間には入れてもらえない」と言ってたから。
お姉ちゃんが死んで、私の身長はぱったり伸びなくなった。周りの大人たちは「心の傷がもたらすなんとか」が私の成長なんとかを止めている、と言った。冗談じゃない。”なんとか”のせいじゃない。私は私の意志でそうしているのだ。だって、お姉ちゃんの代わりにピンクの象を見る人間がいなくなったら、彼らは一体どうするのだろう?
彼女はしょっちゅう彼らの話をしていた。お姉ちゃんが描いた絵の中で、象たちはパイナップルの木によじのぼり、実を鼻で取ったり、白い砂浜で砂の城を作ったりしていた。私はそれを見て、彼らはどこにいるのかと聞いた。お姉ちゃんは首をかしげ、少し考えた後、カリフォルニアのビーチにいるのだと言った。
「海水浴に行った時、どんなに忘れ物をしないように気をつけてても、みんな、大抵何かを忘れるでしょ、サンオイルとか、サングラスケースとかね。あれは象たちのせいなんだよ」
彼らは観光客の目を盗み、借り物競争をしている。ビーチのチェアの端っこに引っ掛けたスポーツタオルやら、ビーチフラッグやら、浮き輪の空気入れなんかをこっそり盗んでくるの。でも彼らに罪の意識はない。だってこれは遊びだから。 そう、お姉ちゃんは自分が見てきたみたいに話した。
私は不思議に思った。なぜ、彼らはここまで来てくれないのだろう?私たちの住むコロラド州デンバーのエッジ・ウォーターと呼ばれる住宅街にまで。借り物競争なんかより、私たちと遊んだほうがよっぽど楽しいし、私たちは決してあなたたちが出てきても驚かないのに。ママの、クッキーを焼く時の型や、ミキサーの部品を盗まれたらちょっとは困るけど。
子供部屋から洗濯かごを抱えて戻ってきた私を、ママはタバコをふかしながら待っていた。私がかごを渡すと、ママは細く釣り上げた目で私を見て「もっと早く取って来れないの」と言った。ママはどぎついピーコック・グリーンのエプロンをかけていて、お腹の部分にはクジャクの絵が刺繍されている。たくさんの色の糸で縫い上げられたそのクジャクは、ステッチの間がひどく空いていて、泣いているのか笑っているのかわからないような間抜けな顔をしている。
「いったい、いつまで子供でいるつもりなの。しっかりしなさいよ」
私が返事をする前に、ママは後ろを向いた。ママの体は時々、木でできた操り人形みたいに空中にバラバラに散らばって見える。背中で結ばれた巨大なグリーンのリボンが、ママの、以前より丸く、けど平べったくなったお尻を強調している。
週3回のパート・タイムの時間以外、ママは部屋に閉じこもり、何かを飲んでいるか、飲んでいない時には誰かに電話をしている。ママの足元にはいつも、銀色の缶やら、つるつる光る綺麗な色の瓶やらが転がっている。たくさんの瓶や缶に囲まれ、床に転がって眠るママは小人に囲まれた白雪姫みたいだ。役に立たないカウンセラーのスカーレットが2週間に1回やってきて、ママの体を抱きながら「ジャッキー、もう自分を責めるのはよして。あなたのせいじゃない」と繰り返し言う。けど、それに何の意味もないってことは子供の私でもわかる。ママの中ではそれは永遠に「ママのせい」で、自分が悪いと思っている人間に「あなたは悪くない」と言ったところで何の効果もないことぐらい、みんな知っているもの。すきっぱの前歯からスターバックス・コーヒーの臭い匂いをプンプンさせながら、彼女は私にも抱きついてくる。私にも『なんとかケア』が必要らしいのだ。目に涙を溜めて「ジェニファー、ジェニーが死んだのは、神様の御意志であって、あなたたち家族のせいでは決してないの」と言う彼女を、私はするりとかわして逃げる。自分に必要なものくらい、私にはちゃんと分かってるから。
「ねえ、ママ」私は恐る恐るママに向かって話しかけた。
「ドーナツを食べたいんだけど」ママがもう一度振り返る。クジャクの模様にしわが寄る。「昨日、おじさんたちから届いたでしょ。あれ、もう食べていい?」
ママの顔が、クジャクの同じくらいしわくちゃになった。一瞬、怒られるかも、と身構えたけど、ママははあ、と息を吐くと「いいわよ」と言った。窓から見えるプラタナスの葉と同じくらい、かさかさの声で。
「ただし、自分でやんなさいよ。ママは部屋で寝るから。頭が痛いの」
私はママの背中が寝室のドアの向こうに消えるのを待ってから、廊下の突き当たりの階段を一段、一段ゆっくりと上がり、二階のダイニングに向かった。
お姉ちゃんが死んで、やっと庭に現れはじめた象たちを私は最初庭から追い出していた。追い出すと言っても頭の中で念じるだけだ。「出てってよ、あんたたちを見たがっていたお姉ちゃんは、もうこの世にはいないのに」って。
象たちは悲しそうな顔をして、何か言いたげに鼻をひくつかせ、何度も振り返りながら庭を横切り隣の家の柵の方へと消えて行った。草がぼうぼうと生え放題で、キツネや穴熊がしょっちゅう潜り込む、柵の壊れたうちの庭を。私はピンク色の象の体が、バイオレットブルーの夜の闇に透過され、やがてその中に消えてゆくのを黙って見守った。けれども、彼らは次の日にはまた同じようにやってきて、窓ごしにその二つの目で私をじっと見た。毎日、毎日、毎日。私はやがて彼らを追い出すのを諦めた。
最近、象たちは真夜中に窓から忍び込み、眠っている私の体を鼻で撫でる。どうやって忍び込んでいるのかはわからない。だれかが窓を開けているのかもしれない。
象の鼻は硬くて、ざらっとしていて、細かい針みたいな産毛がびっしり生えている。昼間に見る彼らはピンク色のゼリーみたいなぶよぶよとした見た目なのに、夜に来る彼らは灰色の硬い肉質で、私の体を肩先からつま先まで撫で回す。私はそうされている間、ぼんやりとお父さんの、ざらざらとした髭の感触を思い出す。くすぐったくて、今すぐにでも止めたい感じなのに、どういうわけか、私はそれを止められない。見ている夢を止めたくても止められないのと同じで、私の体は象たちにされるがままになっている。そのうち、頭の中に白いもやがいっぱいになって、次の瞬間私は暗闇に突き落とされる。暗闇の中を落ちてゆく最中、私は私の先を落ちてゆくお姉ちゃんの体を背中で感じる。透明になったお姉ちゃんの体。そのうち私の体はお姉ちゃんの体に追いついて、二人の体は一つになる。お姉ちゃんの体が気体のように私をすっぽりと包み込んだまま、私はお姉ちゃんの目から、いつまでも続く暗闇を見ている。突然、暗闇が尽きて、私ははっと目を開ける。明るい朝日の中では、象たちは決して姿を顕さない。でも、私の体には、象たちに撫で回された感触が、確かに残っている。
今日、なぜ彼らにドーナツをあげようと思ったのか、私にもわからない。けど、今日くらいはそうしてやってもいいような気がしたのだ。なんたってクリスマスだし。
電気のつかないダイニングは夕方前なのにすでに薄暗く、とっぷりと深い闇に浸されてまるでコーヒーの中にいるみたいだ。私は暗闇の中で目を凝らして、昨日おじさんたちから送られてきたドーナツの箱を探す。おじさん、つまりママの弟と、その家族とはもう何年も会ってないけど、こうして毎年、クリスマスにはドーナツを送ってきてくれる。ドーナツの箱はキッチンカウンターの上に置かれていた。赤と緑のシマシマに塗られた、小さな猫くらいの大きさの、長方形の箱。昨日郵便屋さんが届けてくれ、ママが忌々しげにカウンターの上に放り投げた。
私は目一杯に手を伸ばし、ドーナツの箱の端に指を引っ掛けた。ずるずると箱を端に寄せ、やっと手が届いたところで角を掴んでカウンターから降ろそうとする。
そのとき、電話の音が突然鳴り響いた。私はびっくりして思わず箱を取り落とした。中のドーナツたちははじけるように床に散乱した。のたり狂うアフリカの虫みたいに色とりどりの軌跡を残しながら、彼らは遠くへと転がってゆく。しまった。ママはきっとまた機嫌が悪くなる。私は慌てて近くに落ちたドーナツを拾い上げたけど、ドーナツのコーティングは無残にも取れてしまっていて、ごまかすのは難しそうだ。
電話のベルは鳴り続けている。硬い、お腹の底を打ち震わせるような音で。私はママが駆け上がってくるんじゃないかと思ったけど、どうやらその音は、ママの部屋までは届いていないみたいだ。
私は電話機に近づいた。爪先立ちになり、腕を目一杯に伸ばして電話台の上の受話器をとった。電話に出たのは初めてだった。電話を受けるのは、これまでママかお姉ちゃんの役割だったから。
「もしもし」
耳に押し当てたプラスチックの受話器の奥からは、ザラザラとした砂嵐のような音が響いている。やがて、その向こうから懐かしい声が聞こえた。
「ハイ、ジェニファー」
息が止まりそうになった。
「お姉ちゃん?」
ひそひそめいた笑い声が、砂嵐に混じりさざなみのように広がる。
「そうだよ、あんたのお姉ちゃんだ」
耳の奥が熱くなった。思わず受話器を取り落としそうになり、ぎゅっと握り直す。何かの間違いじゃないだろうか。ううん、でも、この声は確かに、私の、お姉ちゃんだ。
「久しぶりだね、ジェニファー。元気だった?」
「なんで」受話器にしがみつきながら、私は声を出した。
「本当に本当のお姉ちゃんなの?」
「信じらんないかな」
お姉ちゃんはくすくすと笑っている。その声は猫の舌のようにあたたかく湿っていて、私の鼓膜を優しく転がす。
「あんたにピンクの象の秘密を教えたお姉ちゃんだ」
驚きと喜びと、あらゆることを聞きたい気持ちが喉で渋滞して、声が上手く出ない。
「どこにいるの、お姉ちゃん」
お姉ちゃんは答えずに、笑い続けている。たまらなく気分が良さそうで、その声を聞いているうちに、私までお腹の底があったかくなってきた。
「死んじゃったんだと思ってた」
「死んだよ」
お姉ちゃんは平然と答えた。
「あんたの知ってるジェニーは死んだ。間違いなくね。私はね、ジェニファー、あのくそユー・チューバーが撮影した動画の中の0:25のお姉ちゃんだ」
「どういう意味」
「つまりさ、私の動画は世界中に拡散されただろ?それによって、元の私とは違う私が生まれたんだ。あれを見たやつらの中に、私は存在する。それは元のジェニーとは違う。でも、そいつらの中では私は本物のジェニーなんだ」
意味がよくわからなかった。やっぱり、これはお姉ちゃんじゃないのかもしれない。誰かがうちの番号を調べて、いたずら電話をかけてきているのかもしれない。
「みんなが私を見るよ。すごくたくさんの人がね。あらゆる人種のあらゆるやつらが私を見る。太ったのも痩せたのも、年取ったのも若いのも、男も女も。やつらの視線のなかに私がいて、やつらの視線が私を作り出してる。動画がコピーされるたびに、私はそれを見たやつの中のジェニーとして分裂し続ける。あの動画がこの世に存在する限り、0:25の私は消えない」
「つまり、お姉ちゃんはお姉ちゃんなの?」
「察しが悪いね」
お姉ちゃんは呆れたような口調で言ったが、語尾は楽しげに持ち上がった。
「とにかく、あんたにとっては、私は紛うことなきあんたのお姉ちゃんだよ」
まだよく分からなかったが、それでも、私はお姉ちゃんと話せることが嬉しかった。
「そこはどんな場所?」
「暗くて、ジメジメしてる。暖かい場所だ。悪くないよ。……毎日、いろんな物が見える。私を見てマスターベーションする男とか。オンラインで動画ウォッチパーティーをするくそみたいなガキとか。私が死んだ瞬間の動画のキャプチャをプリントアウトして、部屋中に貼り付けてるやつとか」
意味のわからない単語もあったけど、私はそれを聞いて気分が悪くなった。
「お姉ちゃん、そこから戻ってきて」
私は言った。
「ママも私も、お姉ちゃんに会いたいよ」
「無理だよ。私は動画の中の0:25のジェニーであって、現実のジェニーじゃない。現実のジェニーはもう死んでる。私は動画の中の現実のジェニーなんだ」
「そうだ」
私は良いことを思いついた。
「ちょっと待ってて。ママを呼んでくる。ママもきっと、お姉ちゃんと話したがってる」
「やめてよ、あんなおばさん」
初めて、お姉ちゃんの声が歪んだ。
「あの人、ずうっとめそめそしてるじゃん、鬱陶しいったらありゃしない」
私はびっくりした。お姉ちゃんがお母さんをあの人、なんて呼ぶところを、私は見たことがなかった。
「私、あの人のこと、大嫌いなんだ。めそめそしてさ、自分のことしか考えてなくて。生きてる時から、好きじゃなかったよ。パパに対してだってさ、自分が一番の被害者みたいに振る舞うんだもん、そりゃパパも出てくに決まってる」
歪んだお姉ちゃんの声は、生きていた時より、幾分ーー何年か分くらい、大人びて聞こえた。知らない人の声のようで、一方で、もしお姉ちゃんが生きていて、ティーンエージャーになったら、本当にこんな感じかも、という気もした。
「……あの人、見栄張りでしょ、私にかわいいカッコさせて、人前に連れてって、カメラマンに撮らせたり、芸能事務所のマネージャーに会わせたりさ、やめてよって感じ。反吐が出そうだった。パパもうんざりしてたよ。それが理由でよく喧嘩してた。離婚の時、パパについて行けばよかったって何度も思った。そしたら死ななかったのにって。あの時、プールから逃げ出して、パークの外に出たのはさ、ママが私に変な水着着せて、写真を撮ろうとしたからなんだよ」
思い出した。お姉ちゃんがプールの更衣室からいなくなる寸前、先に着替えていた私に「先にプールに飛び込め」って耳打ちしたことを。「足のつかないところに飛び込んで、叫んでママを呼べ」って。
「生きてた時のお姉ちゃんは、そんなこと言ってなかった。ママのことすごく好きそうだった」
「ここにいていろんなものを見てるうちに、考えが変わったんだよ。……それに、もう、3年も経つんだし」
お姉ちゃんはふんと鼻を鳴らした。
「それでも、ママはお姉ちゃんと話したら、すごく喜ぶと思う」
「そうかもね。でも、もしそうだとしても、今、現実にはあんたしかいないんだよ。あんたとお母さんの2人でどうにかやってくしかない。お母さんはあんたに注意を向けるべきで、私のこと考えて、めそめそしてる場合じゃない。それなのに、あの人ってばさ。ねえ、知ってる?あの人、私の動画を最初は死に物狂いで探して削除してたけど、最近じゃ新しい動画がどこかにアップされてないか、これまで上がってる動画の再生数が増えてないか確認したり、時には新しい動画サイトに自分で動画をアップしてるんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。気持ち悪い」
私はなんだか怖くなった。お姉ちゃんの話を聞き続けるうち、現実がぐんにゃりと歪んで、私の頭の中身まで書き換えられて行きそうな感じがした。
「けど、まあ」お姉ちゃんは言った。
「一人の女の子としては、総じて良い人生だったんじゃないかな。死ぬ前にジョージといろんなことも試せたし。私たち、ティーンエージャーにならないとやっちゃダメって言われたこと、本当はたくさんしてたんだ。ジョージの家の納屋で互いの体を触りあったりとか。なかなか面白かったよ」
おねえちゃんは愉快そうにいった。
「あんたもいつか、あれをするかもね」
「やめてよ」私は小さく叫んだ。「お姉ちゃんはそんなこと言わないよ」
「そうかもね」
お姉ちゃんがーーお姉ちゃんかどうか分からない架空のお姉ちゃんが、電話の向こうで肩をすくめる気配がした。
「いつの間にか、私はあんたのお姉ちゃんとは遠い存在になっちゃったかもしれないね」
「元のお姉ちゃんがいいよ。お姉ちゃん、元に戻ってよ」
「あんたの知ってるお姉ちゃんはもういない。だからね、ジェーン。私の代わりを、もうやろうとしなくていいんだよ。ピンクの象を見る、とかさ」
「そうだ、ピンクの象!」私は叫んだ。
「ピンクの象が庭に来たんだよ、お姉ちゃん」
「知ってるよ、良かったじゃん」
電話の声は笑った。そこだけ、元のお姉ちゃんに戻ったみたいだった。
「ピンクの象はドーナツをあげたら喜ぶと思う?」
「どうかなぁ」
大げさに語尾を引き伸ばして、相手は答えた。
「私が好きなのはシナモンシュガーとグリーン・ティー・リングだけど」
「そっちでもドーナツが食べられるの」
「ときどきね。だから、まあ、悪くないよ」
「私もそっちに行って、お姉ちゃんと交代する。ママは私より、お姉ちゃんにそばにいて欲しいと思う」
私は言った。
「ママは私のこと、好きじゃないから」
いい、ジェニファー、と電話の相手はお姉ちゃんの元の声で言った。
「誰かがあんたをあんたが思うように好きじゃなくても、あんたはあんたでい続けるんだよ。あんたは誰かの代わりじゃないし、ママがあんたを愛さないのはあんたのせいじゃない」
沈黙が流れた。さっきまで耳に入ってこなかった、部屋の時計の音が急に大きくなって左耳に飛び込んできた。
「そろそろいかなきゃ。またどっかのバカが動画を再生し始めたみたいなんだ」
声が急に遠くなった。
「じゃあね、ジェニファー。上手くやんなよ」
「待って、お姉ちゃん、もう戻ってこないの?」
「わからない。いつか戻ってくるかも。…あと、象にドーナツをやるのはいいけど、おじさんたちは、あんたがドーナツを食べた方が、もっと喜ぶと思うよ。あんたのためにあの人たちはドーナツを送ってきたんだからさ」
電話はそこでプツッと切れた。
私はしばらく耳に受話器を押し付けていた。再び、声が聞こえることを期待して。けど、どれだけ待っても、さっきまでの会話を丸ごと打ち消すような、機械的で耳障りなツー、ツーという音と、ざらざらした砂嵐の小さくなった音が、響き続けているだけだった。
私は受話器を耳に当てたまま、振り返ってダイニングを見渡した。ダイニングは、先ほどまでと変わらずしんとしていた。何も変わった様子はなかった。ドーナツは相変わらず床に散らばり、床の上にはタイヤの後のように色とりどりのドーナツの転がった跡がうねっている。私はそっと受話器を置くと、散らばったドーナツを拾い集めた。それらを箱に詰めなおし、2つを手に取ると、階段を降りてリビングに向かった。
リビングへ続く廊下の左側にはママの部屋がある。私は廊下を極力鳴らさないようにしながらママの部屋の前を通り過ぎようとした。部屋の中からママの電話をする声が聞こえた。ママは泣いていた。いつものことだった。私はドアの下の隙間から這い出てくるママのすすり泣きの音を避けるようにして、爪先立ちで通り抜けようとした。
「ジェニファーが」
不意に、私の名前がドアの内側から聞こえてきて、私は驚いた。リボンがさっきよりずっとずっと強い力で後ろに引かれる。
「ジェニファーが……」ママは誰かと電話で話しているみたいだった。私を呼んだんじゃなくて、私について誰かと話しているんだ。それでも、驚きは小さくならなかった。お姉ちゃんが死んで以来、ママの口から私の名前が誰かとの会話の間に出てきたのを初めて聞いた。
私はそっと耳をドアに寄せた。ママの、鼻水と混ざった靄のような声が、ドアの内側から響いて来る。さっき鋭く耳に届いた声は、今はもう、甘いバタークリームみたいなぐずぐずとした響きに変わっていて、何を話しているのかはわからない。
私はそっと耳をドアから離した。床のきしみが彼女の嗚咽よりも大きくならないように注意深く床を踏みながら、廊下を歩いた。遠ざかるママの声は、ぼそぼそとした毛糸玉みたいに、すぐに中身のわからないものになった。私はリビングのドアをそっと開け、窓際に行った。さっきと同じで、クリスマスツリーは黄緑色の少し不気味な光を、窓ガラス越しの透明な冷たい夜の上に投げかけていた。ピンクの象の姿は見えなかった。私は窓際に近づき外を見た。庭先にも彼らはいなかった。
「おいで」私は小さな声で言った。そして、あのピンクのゼリー状の象が、鼻を振り回しながら近づいてくるのを待った。じいっと目を凝らし、彼らがその体を揺すりながら寄ってくるのを。けれども窓の外では鉄錆色のサンザシの枝が夕暮れの風を受けて頭を大きく左右に振るだけで、彼らが現れる気配はなかった。私はそのままの姿勢で、ずうっと長いこと長いこと長いこと、外を見つめていた。あまりにも長いこと見つめていたので、目が疲れて、瞬きすると、視点が移り変わった。白い光がちらりと視界の端で瞬いたのでそこに視点を移すと、それは窓の外の何かではなく、窓に映った私の目だった。私の目が、蛍光灯の光を反射してそこに光っていた。それを見た途端、そこを起点にして、だんだん、窓に映る私の顔が、とがったあごの輪郭が、頬の盛り上がりが、冷たい窓ガラスの上に浮かび上がった。
私は窓ガラスに浮かんだ自分の輪郭を人差し指で撫でた。それは、公園でいつも見る同い年の子供たちの顔形より、ずっと小さく、頼りなかった。私は久しぶりに自分の顔を見つめた。ジェニーに似ている点と似ていない点を注意深く探した。今の所、徐々に黒くなる窓ガラスの背景の中で、似ていない点の方が、蛍光灯の光を受けて目立っているように思った。
暗闇が庭をたっぷりとインク瓶のように浸して、窓は黒い一枚の板になった。そこから先を、絶対に見せまい、とするように、窓の裏側から、差し込む光が消え去る最後の一瞬、私は象のかすかな小さな鳴き声を聞いたような気がした。もう一度彼らを見ようとよくよく目を凝らしたけど、彼らの姿は見えなかった。私は椅子から飛び降りて、両手を見た。ドーナツのチョコレートは手の熱で溶けきり指さきを真っ黒にしていた。私は両手に掴んだドーナツを2つ、一気に食べた。
(了)
※この短編は、2021年11月にネコノス文庫から発刊された同人誌「雨は5分後にやんで」文庫版に収録されたものです。
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