蛸とシャンデリア
私が銀座の高級クラブでバイトをしていた時、Kさんというお客さんがいた。
Kさんは、ものっすごく、顔が怖い。スキンヘッドに、剃り上がった眉毛をいつもしかめている。道で会ったら、飛び退くレベルだ。
そんなヤクザみたいな見た目だけど、うちの店に来れるくらいだから、たぶん、堅気だ。
70歳のママが仕切るうちの店は、銀座で40年の老舗だった。そのためか、“お姉さん"もお客さんも年季の入ったツワモノばかり。60代はざらで、80代、90代の引退した政治家や経済界のトップもごろごろいた。二十歳になったばかりの私にとって、もくもくの煙草のけむりと、シャンデリアのぎらぎらの光に包まれたそこは、得体のしれない妖怪たちの巣食う城で、日々冷や汗を流しながら格闘していた。
Kさんはそのうちの一人、65歳のお客さんだった。
Kさんのセクハラは豪快だ。
初めて会った日、まだ店に慣れない私が隣に座ろうとすると、いきなり無言でぐわしっとお尻をひっつかんできた。
私はそのとき、まだまともに男性とお付き合いしたこともないおぼこ娘だったから、ぎゃーっと叫んで飛び退いた。
Kさんは「へっへっへ」と笑うと、
「男にケツさわられてビビるようじゃ、銀座じゃとてもやってけねぇな」と、予め私の敗北を見透かしたような事を言うのだった。
「セクハラのコツはよ!女が席について、会話が始まらないうちに、いきなり手えつっこんでおっぱい揉むんだよ!そうすれば怒られねぇんだよ」と、つるつるの頭を真っ赤にして、ニヤニヤしながら言う。
「女の子はヌーブラしてるじゃん。どうするの?」と聞くと
「ヌーブラの中に、指を入れるんだよ」と言う。
そんな、サイテーのヤツである。
しかしKさんは、見た目と上辺の言動に反して女の子たちには優しく、私がライターの火の長さを見誤ってうっかりKさんの鼻を燃やしそうになったときも、全く怒らず、へらへら笑っていた。
Kさんは何の仕事をしているのか分からないが、うなるほどお金を持っていて、いつも一人で深い時間にふらりと現れた。その横には、この店で3番目にキャリアの長い、50代の“お姉さん”のナツヨさんが、丸太のような身体をソファにみっしりと詰め込んで座っていた。
高そうな着物で簀巻きにされたナツヨさんの胴体は、鬆がなく、むっつりと肉に満ちていて、女の私でも触りたくなるような、ふかふかとした肌をしている。透き通るような白い顔に、真っ赤な唇がちょんと乗っている。
プライドの高いベティー・ブープと、歳を喰ったポパイ。
この2人は20年来の付き合いなのだと、私は白髪頭のママに聞いた。
その時の私は、結婚もしていない男女が20年もどういうわけで連れ添えるのか(しかも、店の女と客という関係で)まったく想像しがたくて、とかく、この世に起こる事は不思議だらけだな、と、目の前で繰り広げられる、時に甘やかで、時に意地汚い男と女の世界を外側からぼーっと眺めつつ、自分はそこに混ざれなくて、必死に水割りを作り続けていた。
そのKさんがいつも出前で頼むのが、銀座「たこ八」のおでんだった。
「たこ八」は夜の店で人気の出前店である。明石焼き風たこ焼きとおでんを、客席まで届けてくれる。泰明小学校の近くに店舗があり、ちょいと飲むのには最適の店だ。
本来はたこ焼きの店だが、Kさんが寒い日に頼むのは、いつだっておでんだった。
ギラギラのシャンデリアの下に、あたたかそうな風呂敷包みが届く。
なよやかなちりめん友仙の風呂敷をほどくと、漆塗りの重箱の中に、ほかほかのおでんの具が、ぎっしり詰まっている。
つやっとした黄金色の汁が、シャンデリアの光をうけてきらきらと震える。その中に、真っ白な湯気を衣装のようにまとって並ぶ、ぷるぷるの具材たち。
Kさんは、テーブルについた女の子にも必ず「食べろ」と言ってくれた。遠慮する私に、ナツヨさんは「いいから」と、いつもの通りの無愛想さで割り箸をよこす。
ふわっふわのはんぺんに歯を立てると、じわあと汁があふれだす。
だしが喉をすべりおちる。こっくりとした鰹ぶしのうまみが、食道に染み込む。
肌理のこまかなちくわぶは、やわらかくて繊細だ。
これまでの人生で食べたことのないくらい、なめらかで味のしみわたった捻りこんにゃく。
厚揚げ豆腐のぷつぷつと粟立つ肌は、適度な弾力で歯を喜ばせる。
Kさんはそれをナツヨさんに「あーん」してもらう。
Kさんはこの時だけ、子供のような顔になる。
たこ八のおでんにはタコ串が入っている。「タコタコ、タコ頭」と言いながらKさんはそれをほおばる。湯気のせいで、Kさんのスキンヘッドは真っ赤に火照っててらてらと光る。共食いですねと言うとKさんはタコをほおばったまま、拳で肩をパンチしてきた。
銀座のお店で出前を取る客は多い。けど、私は高級官僚のお客さんがお祝いで取る豪華な寿司よりも、Kさんの頼む素朴なおでんのほうが、ずっとずっと楽しみだった。
店に勤めて3年が経った頃。
Kさんがガンになった。
半年ぶりに店に来たKさんはひどくやせこけ、髭は真っ白になっていた。
Kさんはそれでも、病気のことなどおくびにも出さず、いつものようにへらず口を叩きながら、ウイスキーグラスを傾ける。ナツヨさんはその横で、まるで何事もないかのように座っている。
いつも通り、たこ八のおでんが運ばれて来た。
「これ喰わなきゃよ、この店に来た気がしねぇよな」とKさんは笑う。「うちはおでん屋じゃないわよ」とナツヨさんは言う。
Kさんが急にいててて、と言って、身体をねじった。腰のあたりをおさえている。ガンが進行して、薬の副作用が出ているんだろうか。
激痛がKさんの身体を蝕んでゆくのが、目に見えて分かった。
顔をゆがめたKさんの頭は真っ赤だ。けれど、Kさんは何事もないかのように、おでん喰わせろ、と言う。
ナツヨさんは、心配するそぶりも見せず、おでんのちくわを一口大に箸で割いて、ふー、ふー、と息を吹きかけ、Kさんの口元に運ぶ。
店のヘルプの、ちょっとだけアタマのたりないAちゃんが「ガン〜!ガンなのにお店に来るなんてすごいですう、私、もし自分がガンになったらたぶんショックで寝たきりになっちゃう」と、場をぶちこわすようなことを言ったけれど、ナツヨさんはAちゃんを、いつもヘルプが粗相をした時にするみたいにぎろっと睨むわけでもなく、黙ってKさんの口元におでんを運び、背中をさすり続けている。
Kさんの顔がよりいっそう険しくなった。
脂汗をながして、ぎゅっと目をつぶる。目尻の皺がいちだんと深くなる。
Aちゃんが、抜きすぎて砂漠の林みたいになった眉根を寄せて「だいじょうぶですかぁ〜?」と言う。
Kさんはそれを無視して、もくもくとナツヨさんが口元に運ぶおでんを食べる。
きっと、Kさんは自分の“痛み”よりも、“痛くてもここに通ってる”ことに注目してほしいのだ。
Kさんのふしくれだった手は、それでもお金持ちのおじいさん特有の、ほかほかとしたピンク色で、桜のでんぶを思わせるような赤い斑が、ところどころに浮き出ている。
私は、なんて声をかけてよいのかわからなくて、Kさんの手をそっとにぎった。
お客さんの手を自分から握るのは、それがはじめてだった。
Kさんは顔をゆがめたまま「おおきに」と言った。
Kさんの大阪弁を聞いたのは、それが最初で最後だった。
今も私は寒い冬には、たこ八ののれんをくぐる。
デートには向かない店だ。なんでこんな店知ってるの、と言われたらなんと答えたらいいかわからないし、男女の会話も似合わない。だから一人で来て、ちょっと飲んで帰る。本来はたこ焼きの店だから、一年中通えるんだけど、ここに来たくなるのは、いつだって冬の日だ。
おでんの湯気が、赤い壁を撫でるように揺れている。
その湯気の向こうに、私はKさんの禿げ頭を探す。
===
たこ八 数寄屋通り店 (たこはち)
http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130103/13007812/
東京都中央区銀座7-2-12
平日:18時~2時 土曜:18時~23時
夜10時以降入店可、夜12時以降入店可
JR新橋駅3分 JR有楽町駅6分 地下鉄銀座駅5分