螺旋の匣(貝の棲み家 #2)
幾度かの長雨を繰り返して、東京は夏入りをした。
久々にからりと晴れた或る7月の日、果帆が買い物を済ませて帰宅すると、家の前に見慣れぬ女が横たわっていた。
女は長い髪が敷石に触れるのにも構わず、からだじゅうの腱が切れたようにだらりと門扉に向けてくずおれている。黒い髪は土埃を吸って白っぽく、唇はかさかさと干からびている。薄肌色の、ぴったりとしたワンピースを着ているためか、遠目に見ると裸のようで、果帆はどきりとした。雑に投げ出された四肢が妙になまめかしい。駆け寄って頰をはたくも、反応がない。仰向いた胸のかすかな上下だけが、女に息のあるのを知らせている。
いつから倒れていたのだろう。
あたりに人の気配はない。果帆の家は複雑に入り組んだ路地の奥にあり、いたずらに前を通る者もいないから、うちの客には違いないが、独り住まいの果帆に心当たりはない。女は細やかなビーズ刺繍を全面にあしらった、訪問用の黒い手提げ鞄を片手で掴んでいる。靴はどこで落としてきたのか、両足とも履いていない。太陽は夏至線より遥かに高く、数寄屋門の白木格子の影をくっきりと女のからだの上に落としている。この女もよほどの出不精なのだろう、深い襟ぐりから露になった胸元は日に晒された様子もなく、本来ならみずみずしさの際立ちそうな白い肌は、いまは生気を失い、乾いた日差しの色に溶けていた。
女の唇がうっすらと開いた。かすかな声がその奥から漏れ聞こえる。
「水を、ください」
目を瞑ったまま、うわ言のように水、と繰り返す。
果帆はとりあえず女の躯をひきずるようにして自宅へと運び込んだ。玄関の上がり框に横たえる。出不精で力仕事の苦手な果帆には重労働で、それだけで汗がだらだら出た。
女は尚も水、と繰り返している。果帆は急いで台所に向かった。数日前に叔母が訪ねて来た時に出した来客用のグラスは洗い場に置きっぱなしだ。ペットボトルの水も切らしている。家事不精がたたり、訪問客に出せるような見栄のいいグラスがない。迷っていると、女がひときわ大きな声で呻いた。
仕方がない。流しに置いたままの薄玻璃のグラスを水でさっと漱ぐと、蛇口から水を注ぎ、女に差し出した。今は無礼を気にしている場合ではない。半身を起こすと、女は目を瞑り、唇を半分開けた。自分で飲む意志はないようだ。果帆は女の白く乾いた無花果の切り口のような唇に水を注ぎ込んだ。灯りをつけない玄関は暗く、手元がよく見えない。薄暗がりの中、女の唇だけが濡れ光っている。グラスのふちからひとすじの水がすべり落ち、生き物のように蠢く女の胸の暗がりに消えてゆく。一口飲ませて様子を見ると、もっと、というように顎を動かすので果歩は勢いよく注ぎ込んだ。あっという間にグラスは空になった。「もっと、」女はそれでもなお足りないらしく、うわ言のように呻いている。戸惑っていると、女は玄関の一角を指差した。
「それで、ちょうだい」
女が指したのは、三和土に転がる金盥だ。透き通る雨水が、底を透かして鈍色に輝いている。2、3日前に玄関の天井から雨漏りがしたので、修理夫の船木が来るまでの応急処置として雨水を溜めていたのだ。築百年を越える日本家屋はあちこちが綻び、あるじになったばかりの果帆ひとりでは手のほどこしようがない。
果帆は躊躇った。客人にそんなもてなしをしてよいのか。女はたまり兼ねたのか、ずるずると床を這い、沓脱ぎ石に身を乗り出そうとする。転がり落ちそうなのを見かねて果帆が慌てて三和土に下り、たらいを持ち上げ女の側まで運ぶと、女は体を起こして果歩の手から受け取り、高らかに掲げてがぶがぶと中身を飲み干した。
果帆はその様子をあっけにとられて見つめていた。
結局女はたらい三杯分の水を飲み干し、ようやく満足した。顔には幾分か生気がもどっている。さっきまで干からびた柿の葉のように白茶けていた髪は、驚くほど瑞々しく蘇り、うるんだ黒に光の筋を湛えて滝のように両肩に流れている。唇は血の気を取り戻してふっくらとせり出し、さっきまで土気色をしていたデコルテは、いまや天井のランプの光を反射し、つやつやとした白い輪を浮かべている。
「驚かせてごめんなさい」
女はにんまりと笑った。さっきまでの弱弱しい様子からは想像もできないほど、勝ち気な笑顔に果帆はめんくらった。その唇の形に見覚えがあるような気がして、女の顔をしげしげと見つめた。
「瑞緒さんを訪ねてきたの。」と女は意外にも、かつてこの家で診療所を営んでいた果帆の祖父の名を出した。
「毎年夏には、お世話になっていたのよ。あの人しか出せない薬があったものですから」
祖父の患者だろうか。しかし彼が診療所を閉めてから早や10年、鬼籍に入ってから5年が経つ。患者と医師の関係を越えて親しい付き合いをしていたなら、葬式におとずれていても良さそうなものの、あの日の参列席に女の姿を見た覚えはなかった。
なにか来られない理由があったのだろうか。祖父の私的な愉しみの事情にまで、果帆はまだ踏み込めない。慕っていた祖父のイメージを死んでから汚したくない、という気持ちもある。しかし、この女は祖父のことをよく知っていそうな様子だ。年齢は自分と同じ、30に手が届きそうなぐらいだろうか。10年以上も前に、この女が祖父とどのような関係を持っていたのか、果帆には想像しがたい。女の、ワンピースの布からこぼれ出そうな肉付きのよい身体は、押し倒した相手にまで自分の精力を分け与えそうな叔母の太り肉とはちがい、艶かしさの中にどことなく、相手の生気を奪いそうな陰鬱な気配があった。
「祖父は死にました」
「そうねえ、でも、肉体が滅びたかどうかなんて関係ない世界もあるのよ、あなたはまだ知らないでしょうけど」
おじいさまは死んでも、この家があるんだもの、と女は言い、上がり框に尻をつき、しなだれるように上体を崩して床に頬をつけた。女のやわらかそうな手が、男の体にするように床板を撫でさする。果歩は意味がわからない。祖父に会いに来たのではないのか。死んだと聞いても、女は一向に悲しそうな様子を見せない。5年以上経ってから弔問に訪れるというのも無理がある。この女はあやしい。そう思うも、女の透けるほど白い、なよなよとした芯のない身体は、なにか硬いもので支えておかないと、この世から消えて無くなりそうな儚さがあり、なぜか放っておくのがためらわれた。
女は再び果帆のほうに向き直った。
「それに、あなたがいるもの。門番としては上等だわ」
門番ではなく、私はこの家に住んでいるのですと言うと、女は高らかに笑った。
「あなたもおじいさまと同じ、好いものを持っているのね。良いわ。私はそういう人が好きなのよ。普通じゃつまらない」
何を言っているのかわからない。果帆は戸惑った。名を聞くと、女は汐野澪と名乗った。2―3日、泊めてもらうつもりで遠方からやってきたのだという。
うちには客人をもてなす部屋はありませんからと言うと、祖父の使っていた診療所で良いと言う。女は生来の貧血で、暑い日には特に動きが鈍るのだと言った。こう暑くっちゃ、帰れないわ。私の家は、とても遠いところにあるの。ね、次の雨までで良いから、置いてくださらない。食事は要らないわ。
帰れないと言ったって、都会のど真ん中だ。いくら昭和の町の面影を色濃く残し、時の流れから置き去られたような区画にあると言ったって、10分も歩けば電車もバスも走っている。
女はそれでも頑として動こうとしない。女のねばっこい体は、梁に吸い付いたようにぴったりと沿い、果歩の力ではどうにも引き剥がしがたく見える。
次の雨は2日後だと今朝の天気予報は言っていた。無理やり女を押し戻しても、再び往来で倒れられてはかなわない。だんだんと押し問答にも疲れてきた。さっきまでの苦しげな顔を思い出すと、同情する気にもなる。
結局、果帆は女を泊めることにした。
食事はいいからと言うが、出さないわけにいかない。簡単な汁物と野菜の煮たのを出すと、女は歯が弱いのか、汁ばかりをずるずると飲んだ。
女は夕餉が終わると、お湯に浸かりたいわ、と言う。風呂場を清め、バスタブの脇にかがみこんで栓をしようとすると、女は後ろから音もなく忍び寄って来て、私がやる、と言いながら果帆の手を掴んだ。ぬるりとした、それでいて生気を感じさせない温度の低い手だ。全身の産毛が逆立つ気がして、女の腕をふりほどき、風呂の外へと追い出し、ぴしゃりと戸を閉めた。風呂場の戸に鍵はついていない。曇り硝子の向こうに女の影がゆらゆらと揺れている。
女が湯に浸かっている間、果帆は祖父の診察室で患者名簿をめくった。祖父個人の部屋とひと続きだった診察室は、今もそっくり昔のまま残してある。めくってもめくっても、女の名前は無かった。
祖父がこの部屋で、どんな風に時を過ごしたのか、果帆は知る術を持たない。知りたいようで知ることを怖がっている。
幼い頃、瀑布のように桜の花びらが降り注ぐ石畳の細い路地で、後ろから見上げた祖父の細い背中をはっと思い出す。自分を置いて遠ざかる祖父の背中は影のように伸びたり縮んだりして、本当の大きさをつかめない。駆けてもかけても、祖父の背中に手は届かない。記憶の中の祖父の表情だけは乳白色の靄がかかったようにひどく曖昧で、果帆はこれが本当に自分が見ていた景色なのかどうか、いつも自信がなくなる。自分は何か、取り違えをしているのではないか。
記憶なのか夢なのか、判別のつかない霞の中に揺蕩ううち、いつの間にか朝を迎えていた。
翌日も、雫の一滴も落ちないから晴れで、この間までの雨が嘘のように空は澄み渡り、刷毛でひと掃きしたような薄雲が遠くに掠れているのみである。
庭ではとうに育ちきった夏水仙が天に向かって花茎を伸ばし、あとには花開くばかりと房をつけた首を重たげに垂れている。青みを帯びた淡桃色が目に涼しい。
生け垣の葉はあおあおと生い茂り、枯れるどころか暑さに負けじと凛々しく立ち上がる。
今日は昼過ぎから舟木が来る事になっている。祖父の代から果歩の家の面倒を見ている修繕工で、祖父の古き友人でもあった。幼い頃、小石川の実家からこの家に遊びに来る度に、庭先で彼の背におぶられたことを思い出す。
舟木は玄関をくぐったとたんに眉をひそめた。
「なにか、おかしなものに上がり込まれましたね」いつも温厚な舟木らしからぬ荒い物言いだった。果帆は戸惑った。
「ええ、祖父の旧知だと言うので、2、3日泊めることにしたんです」
玄関には靴も出ていない。当たり前だ。来た時から女は裸足だったのだ。それなのになぜ舟木は分かったのだろう。不安になり、果帆は判断を仰ぐように舟木を見た。舟木は深く茂った眉をひそめて何ごとか考えている。寡黙な男だ。べらべら助言をくれるとは思えないが、果帆は身内以外で祖父の過去を知る唯一の男である舟木に、すっかりすがる気分になっていた。
「本当に、2、3日で帰る気なんでしょうな」
「ええ、そうさせます。私にも仕事がありますし」
フリーのデザイナーである果帆は内仕事が多い。いつまでも見知らぬ人間に家の中に居座られてはたまらない。だが、奥の間にいるはずの女はひっそりと息をひそめてことりとも音を立てない。生きているのか、死んでいるのかもわからずこちらが心配になる。
「気をつけてくださいね」
帰り際、舟木は不意に振り返ると果帆の方に向き直って言った。
「判断のつかない若いうちは、良いものにも悪いものにも入り込まれやすい。軒を貸すだけのつもりが一番危ないんだ。きちんと戸締りをして、見知らぬ人間は、決して奥までは上げないこと」
これまでになく険しい彼の表情に、果歩はたじろぐ。
「……家を守ると言うと大げさでしょうが、」
舟木は涼やかな瞼の奥からじっと果帆を見つめる。子供の頃に見た面影がふいに、皺だらけのかんばせの上に蘇った。
「この家は、あなた自身でもありますから」
その日の夜も簡単なもので夕餉を済ませ、昨日と同じく女のために湯を張った。
女はやたらとぬるい湯に長時間つかっていたらしい。女が出た後の湯船を見ると、ぬるぬると濁っていた。簡単にかけ湯をして湯船につかる。あの体がこの湯に触れたのだと思うと、なんとなくおかしな気持ちになった。同時にそんな自分に身震いして、湯のにごりをかき消すようにばちゃりと腕で水面を打った。
就寝までの気まずい時間をどうやり過ごそうか考えていると、女は酒を飲みたいと言い出した。戸棚の奥を探すと、古い酒瓶があった。祖父の遺物だ。栓をあけると芳醇な香りが漂った。
女は祖父の浴衣を勝手に着物箪笥からひっぱりだし、帯を適当に巻いて夜着の代わりにしている。祖父の衣服は葬儀のあとに皆処分したものと思っていたが、箪笥の奥にまだ残っていたのか。それ、と果帆が問うと、女はにかり、と笑い「瑞緒さんのよ。似合うでしょう」と言う。男着物をだらしなく着崩した胸元からはひやりと白い皮膚がこぼれ、夏帆はその生々しさに思わず目を背けた。
瑞緒さんは生きていた時も浴衣が似合ってたわねぇ。女は徳利を傾けなみなみと酒を猪口についだ。普段飲み慣れない果帆は少しだけにするつもりだったが、女のずけずけしい物腰に負けて断りきれない。女は白い喉をならしてくぴ、と飲み干す。あっというまに玻璃の徳利は空になる。女のペースにつられまいと踏ん張りながらもいつのまにか酩酊し、耳の根までがじんじんと熱くなった。
「ああ、こうやって瑞緒さんと飲み交わしたのが懐かしいわぁ」女は事に触れて祖父の名を持ち出す。祖父は酒を嗜む男ではなかったはずだ。本当に彼女の見ていた男と、祖父は同一人物なのか。彼の、本当の姿を知るのが怖い気持ちと知りたい気持ちがない交ぜになり、胸のうちで渦を巻く。果帆はそのうち堪えきれずに切り出した。
「貴方から見た祖父は、どんな人間でしたか」
女はその質問を待ち受けていたかのように、にっかりと口を真横に開いて嗤う。不吉だ、と果帆は思ったが、思った時にはもう遅かった。女は既に喋りはじめていた。
「知りたい?優しかったのよ。誰にでも。……女にも、男にも」
あなたもわかってるでしょう、というような、伏せた口調だった。
「色男っていうんじゃないわね。どちらかというと、淫蕩っていうのかしら。そのために各地をうろついていたんだもの。誰にでも身体を預けたのよ。しょうのない人ね」
頭がくらくらする。女の言っていることは真実なのか。
「わたしも、連れ込まれたうちの一人なのよ。しばらくは居ついたわね。自分からじゃない。彼に懇願されたのよ……きっと、理解者がいなくて、寂しかったんじゃないかしら」
祖父はそんな人間じゃない。そう反論したくとも、果帆は確信が持てない。言葉は胸の中に飲み込まれ、記憶の中の祖父の姿が、荒波の海面のように乱れてゆく。
酔いのせいか、女の顔は何倍にも膨れて見える。瞼に集まった血のせいで目の前の景色は朱く濁り、骨格をなくした女の顔が視界いっぱいにぐんにゃりと広がる。聞きたくない。なのに、理性の抑えを失った耳は、女の言葉を欲するようにずぶずぶと吸い込んで行く。
「……やっぱりあなたも、同じ血を引いているのね。そういう顔、してるもの」
目を瞑る直前、女の酒を含んでてろてろと紅く輝く唇が、昏闇の中、目一杯に広がり蠢いた。
その晩、不思議な夢を見た。
果帆は一匹の軟体動物になり、寝室に横たわる女の身体の中に入ってゆく。女の奥は長くて細い。湿っていて、骨のないやわらかな身体をここちよく締め付ける。幾重にも重なる狭い襞の間を抜けると、細い路の突き当たりに丸く手のひらを組んだような昏い窪があった。細くくびれた口から押し入り、中に身体をすっかり収めてしまうと、粘膜がやわく包みこんで潤した。そのうち、なめくじのようだったはずの果帆の身体は、いつのまにか女の胎に張り付き、ぶよぶよとした肉の塊になっている。頭を足につきそうなほどに丸め、親指を吸い、紐付いた細い管から女の体液を吸っている。昏い宇宙のような狭い女の胎の中で、果帆は自分の体がどくん、どくんと波打つごとに少しずつ膨らんでゆくのを感じる。そのうち、螺旋状にねじれたへその緒が身体じゅうに巻き付いて果帆は身動きできなくなる。苦しくなり、思わず手で跳ね除けようとするも、へその緒はぶよぶよと伸びていっそうまとわりつく。呼吸ができずにじたばたもがくと、狭い部屋を満たしたぬめらかな液体が、鼻から、口から入り込んできた。窒息しそうで苦しく、網膜が血を集めて視界は真っ赤、遠近感はとうに無く、おびただしい数の襞を持つ天井が途方も近くに、遠くにぐるぐる回っている。身体は少しずつ皮膚を失い、女の胎と溶け合ってゆく。そのうち、潮の香りがからだじゅうを満たして、果帆の視界は真暗になる。
目覚めたとき、果帆の喉は、何かを飲んだ後のようにしっとりと潤っていた。目の縁にまとわりつく重たいしずくが、目から溢れたものなのか、たったいまの夢の中から連れて出たものなのか、果歩には区別がつかない。
すでに昼の顔をした太陽が、ベッドのすぐ脇の、磨り硝子の窓の上部から果歩の部屋を覗いていた。日差しは乱反射して、シーツの上に水面のようにゆらゆらとした光溜まりを作る。手を差し込んで濡れないのを確認した。よかった。現実だ。
今日は6月の終わりとは思えぬ炎天下で、瓦を焼くような日差しが真上から照りつける。
ついに食料も尽き、果帆は買い物に出かけることにした。女は日の差さない奥の間で寝てばかりいる。襖を薄く開け、何か要るものはあるか、と聞くと、みず、というか細い声が、暗闇の中から漏れてきた。
果帆の家は四方を道に囲まれている。戦前から残る小径がうねうねと複雑に入り組むこのエリアでは、周囲の家並みから独立した戸建ては決して珍しいことではなかった。猫一匹がやっと通れるような細い途が続いたかと思うと、急に光りさす大通りに出たり、三叉路の道の又にやっと押し込めるようにして、ぽんと三角形の家が建っていたりする。路が人間の都合に合わせるのではなく、人間が路の都合に合わせて住居を作った、そんな土地だ。
いつものように、大通りへと続く細い路地を果帆は歩き出した。生垣と塀の間をすり抜け、鍵のように幾度も曲がりくねった石畳の小道を辿る。日を照り返す背の高い石塀が延々と続き、その上から僅かに頭を覗かせる家々は、のっぺりとしてまるで特徴がない。普段、遠くの小学校の校庭からかすかに響いてくる子供の声も今日は聞こえず、辺りは静寂に包まれている。頭上から容赦なく照りつける太陽が、家々の前に門扉の濃い影をくっきりと彫り、くろぐろと茂る夏蜜柑の木は重く実った実をだらりと垂れて風がないのを強調していた。
5分ほど歩いた所で、果帆はなかなか大通りに出ないことに気づいた。曲がる角を見逃したのか。いや、これまでに何度も歩いた道だ。間違えるはずはない。目の前に、見覚えのある角が現れた。あそこを曲がれば大通りだ。そう思い、果帆は足早に道の端までたどり着き、角をまがった。
そこには、さっきまでと同じ、日の照りつける小径がだらだらと続いていた。
おかしい。曲がり角ばかりがいくつも続く。ひとつ曲がれば、また次の曲がり角へ。道はなぜか右にしか曲がらない。曲がっても曲がっても、さっき見た光景が延々と続いている。いつもの道のはずなのに、なんだか不思議なほどに現実感がない。景色は蜃気楼のようにゆらゆらとゆらめいて、現実から思考を遠のかせる。乾いた白い石壁に挟まれた窮屈な路地は、それ自体が一つの狭い胎のようで、どちらに行ったらいいのか、まるで見分けがつかない。今歩いているのが、すでに通った路なのか、新しく足を踏み入れた路なのかも最早分からない。周囲の景色から不思議と色が退き、影絵の世界に迷い込んだように遠近感が消えてゆく。急に不安がこみ上げ、果帆は思わず走り出した。
次の角を曲がった瞬間、あっ、と叫んでのけぞった。思わぬ人物にぶつかりそうになったからだ。
舟木だ。
「家に、帰りたいんです」
「家」
そう呟く舟木の顔は、張りぼてのように分厚くのっぺりとして現実感が無い。
「あなたの家は、そこでしょう」
そう言って彼は振り返る。指さす先を見ると、確かに我が家があった。見慣れた白い石塀が太陽を撥ね返している。おかしい。家の周りをぐるぐるまわっていただけなのか。
果帆は元来た道を戻ることにした。
焦れば焦るほど足がもつれる。日差しは頭の上からとろとろと重く降り注いで、果帆の鼻口を蝋のように塞いで行く。磨り減ったスニーカーの底が、アスファルトの熱を吸って足裏を焦がす。歩きすぎて踵が痛い。道はぐんにゃりと曲がり、景色は歪んで足元をおぼつかなくさせる。今が何時なのか、どのぐらい歩いたのか。僅かな時間のようにも、永遠とも取れるほど長い時間のようにも思う。まるで永遠に続く螺旋の中に閉じ込められたみたいだ。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。
私はいったい、どこを歩いているのだろう。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
ようやく家の門扉が見えた時、果歩の身体は言うことを聞かず地面に崩れ落ちた。
目が回って起き上がれない。暑さは容赦なく身体の上にのしかかる。乾いた喉では声を出すこともままならない。
じゃり、という音がして、横たわる果歩の目の前に、裸の足が二本並んだ。
顔を上げずとも、正体はわかった。
女は腰をかがめて、果歩の顔を覗き込んだ。爛々と光る黒い瞳が、果帆の中にねばっこいものを注ぎ込む。この視線にすがりついてしまいたい。
とにかく今は家の中に、入れてもらわねば。
「な、中へ」
女は面白がるように、裸足の親指で果歩の唇をなぞる。みずみずしい、少しの塩気を含んだ細い足指が、触れたところから潤すようだ。吸い付いて、女の足から水気をぜんぶ吸い取ってしまいたい。
女は半開きになった果歩の唇を、弄ぶように足の親指で何往復かなぞったあと、
「いいわ、私の家にあげてあげる」
乱暴に果歩の腕を取り、家の中に引きずり込んだ。果歩はなすすべもなく倒れこむ。明かりの灯らない玄関は水底のように薄昏い。
「み、みず」
そう言うのがやっとだった。
女は面白そうに、果歩の顔を眺めている。急に、重たい頭がふわと浮かび、やわらかい枕の上に乗せられた。女の膝だ。
「いきなりここから注いでもいいけど」
女はスカートをたくしあげる。冷たい肉の感触が、果歩の熱を冷ます。腿を広げ、腿の隙間に果歩の頭を挟み込む。
「そっちのほうは慣れていなそうだから、残酷ね」
女の言う意味が掴めない。一刻も早く、喉を潤してほしい。そのうちに、女の顔が近づいてきた。黒い髪が頰の上に落ち、目鼻は影の中に溶けた。触覚だけを残し、世界は光を無くす。女のかすかに甘やかな呼気だけが、果帆の顔の周りに渦巻いている。
そのうち、開いた口の中に、ねばっこい液体が落ちてきた。
正体がわかっていながら拒めない。喉に流れ込むそれを、夢中で飲み下す。舌が溺れるほどたっぷりと口腔を満たされて、果歩は息ができない。女はどんどん唾を出す。むせて吐き出そうとすると、唇で固く蓋をされた。そのまま舌も捕縛される。人体の一器官であるはずなのに、軟体動物のようにぐよぐよとして形を留めず、果帆の口の中に滑り込んで充塞する。
女の身体が果帆の上にのしかかってきた。つややかな髪が三和土を這い、土間にまで滑り落ちる。触れた肌は水っぽく、果帆の全身を包むように吸い付く。されるがままだ。乾いた肉体を失くして、女の中に蕩けてしまいたい。
そのうち、唇よりも熱くてねばっこい何かが果帆の口に押し当てられ、潮の香りのする液体が糸を引いて口の中に垂れてくる。苦しくて、目が開かない。果歩は夢中で見えない水差しに口をつけ、吸う。
-あなた、私の中に入りたい?
果歩は頷く。
-それとも、私があなたの中に入ってあげましょうか。
浅瀬の波に身体を撫でられているような、淡い快感が肌の上を行き来する。指よりも繊細な無数の突起が体中を這い回り、毛穴という毛穴を撫で上げ、皮膚を粟立てる。
女になぞられて、果帆の口は簡単に開く。さっきまで、熱いものが押し当てられていた箇所とは違う方の。潮の香りが辺りに満ちて、どちらの身体から発されているのか、もはや分からない。
-知ってる?
身体は家なのよ。
あなたの家は、ずいぶんと、戸締りがゆるいみたいね。
そんなんじゃ、簡単に忍び込まれてしまうわ。
女の声は、貝殻を耳に押し当てて聞く潮騒のように、くぐもってよく聞こえない。意識がどんどんと退いてゆく。浅瀬から、深い海底へと波に飲まれて沈んで行くように。
幼い日、海岸を歩きながら、祖父と共に聞いた波の音が、意識の底から昇ってくる。
-いいかい、果歩。悪いものに忍び込まれそうになったらね-
祖父はあの時、なんと言ったっけ。
突然、視界が明るくなり、白い光が目に差し込んだ。
果帆は眩しさに思わず手をかざす。ぎゃあ、と叫んでのけぞる女の姿が指の隙間に瞬間、垣間見えた。気がつくと果帆は一人で玄関の三和土に寝そべっていた。出かけた時と、全く同じ格好で。
舟木がすぐそばに立ち、果帆を見下ろしていた。両肩が激しく上下し、急いで駆け付けてきたことが一目でわかった。右手で汗だくの額を拭い、左手には八角の塩の器を持っている。肩越しに見えた数寄屋門は開きっぱなしだ。
「あなたは、」
舟木は肩で息をしながら、果帆に近づいた。途端に視界に色彩が戻る。あふれんばかりの蝉の声が、耳にどっと入り込んできた。
「迂闊すぎます。だから言ったでしょう、見知らぬ人間を決して奥まで上げてはいけないって」
厳しい声が玄関に響く。
果帆は事情が飲み込めずに呆然として舟木を見た。意識は急には現実に戻ってこない。
舟木は土間にかがみこんで目線の高さを合わせると、手のひらを顔の前に差し出した。
「正体はこれです」
舟木の手の中には、今にも消え入りそうな肉塊となった軟体動物が、苦しそうに身をよじっていた。
「殻を無くして、代わりに家を乗っ取ろうとしたんでしょう。この暑さは致命的だ」
舟木はそれを容赦なく門の外に捨てた。
「恩に仇で報いるとは。なんてやつだ」
果帆は女の姿を探したが、どこにもない。昨日の記憶が脳裏から意識を追いかけてくる。
「……彼女は、祖父と懇意にしていたと言っていました。それで、」
それで、なんだと言うのだろう。悪いものにつけこまれた理由を、いつの間にか祖父に被せようとしている。
自分でもわかっている。拗ねているのだ。秘密を共有できたはずなのに、何もかもを包み隠したまま逝ってしまった彼に対して。この歳にもなってなお、気持ちの上では閉じられたガラス戸の前に立ちすくんでいた5歳の時のまま、私は祖父に縋っている。
舟木は果帆の目を見つめるとこう言った。
「安心なさい。あなたのおじい様はね、ああいう輩とは関わり合いになりませんよ。たとえ遠くに行ってしまったとしても、今は分からなくても、瑞緒さんはあなたを傷つけるような真似は決してしません。
……あなたは瑞緒さんにとって、大事な家族なんですから」
家族、と口にした瞬間の舟木の眼差しに、ほんの少し、寂しさが浮かんだ気がした。果帆は彼の顔を思わず見つめ返す。互いの記憶の螺旋が絡み合い、その中で、想う相手の姿の破片がきらりきらりと輝く。
「それより、気をつけてください-あなたはああいう輩とも、これから対峙してゆかなければならないんですよ」
舟木の声が、耳奥で幾重にも響く。その言葉の意味を、果帆はまだ、つかみ損ねている。黙って開いたままの門扉から、向かいの家の塀の上を見上げた。縁だけを金色に透かして黒光りする夏蜜柑の葉の、生い茂ったその向こうには、ステンドグラスのような蒼蒼とした初夏の空が続いていた。
(了)