働いて死ぬか、働かずに死ぬか
資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい。このスローガンは、資本主義リアリズム下の人間が、あらゆる問題を個人に帰結し、問題ごと個人を切除する方法によって無限に資本主義を肯定し、終わりのない緩やかな窒息を甘受するという恐怖的構造を的確に比喩している。個人主義と競争社会の化学反応は、それ以外の組み合わせを想像すらできないほどに的確で、後戻りのできない選択となった。
しかし、このスローガンはあくまで「世界の終わりは訪れない」という前提によって資本主義の不死的な恐怖を表現するものであり、実際に資本主義が世界を終わらせる光景を予言するものではない。したがって、疫病禍のパニックのように本当の終わりが示唆される光景は資本主義リアリズムが内包する幻想的な恐怖の性質を説明するのに向いているとは言えない。もしも資本主義より先に世界の終わりが訪れれば、その時は資本主義が抱えた矛盾の実体は永遠に明かされなくなるだろう。
さて、「実力社会は条件付きの愛情を与える」では金銭が人間が生きることを可能にするという事実が逆流し、金銭のある人間は生きていてよいという心理的な存在保証の役割を果たしていることに触れた。金銭獲得に伴っている種々の”犠牲”は、そのかわり私が生きてよいという状態を説明する。わたしがわたし自身を生きていてよいと信頼する代わりに、金銭はわたしが生きていてもよい存在であると主張する。そのことは同時に、金銭獲得は”犠牲や苦労を伴っていなければならない”という前提を逆に形成する。
疫病下の資本主義は、あらゆる人間活動が生命を阻害するという状況で「不要不急の労働を禁止する」という苦渋の決断を迫られることになった。不要不急の労働とは何か?不要不急とは生命活動の役に立たないものであり、たとえば文化、娯楽、スポーツ、趣味嗜好といった生活を豊かにする業種であり、言ってみればライフラインを除いたほとんど全ての労働のことである。
これまでの自由市場の環境では、ある業種やそれに携わる人間が社会に「必要」であるという事実は自然淘汰の法則によって、つまり「経営として成立するのであれば」それが社会に必要であると事後的に肯定されるものであった。これは先の「金銭のある人間は生きていてよい」というロジックと同じく、存在意義が存在資格によって代弁されるという逆流構造になっている。このロジックは同時に、「社会に必要のない業種・労働者」も定義する、すなわち自由市場では生き残った業種や個人は結果的に「必要だった」のであり、淘汰されたそれは「必要ではなかった」のだと、後付けで説明される―――そのことが、破綻した経営、淘汰された個人がはたして「本当に不要だったか」という議論を放棄し、淘汰システムとしての自由市場を再肯定する。この仕組みは資本主義が「経営の成り立つ限り」環境破壊や搾取、過労などの問題を抱える企業を看過し、なおかつ「成り立たなければ」どれだけ社会に利益をもたらし、長期的には必要不可欠といえる業種であっても縮小ないし放棄することを許し続けてきた。
ウルリヒ・ベックが「リスク社会」で示唆したように、フリーランスや文化・娯楽に属する業種の個人労働者は常にこのロジックで困窮を正当化される(「現実が辛ければ”夢”を見ればいい」参照)運命にある。あなたが困窮するのはその「必要とされない」業種を選んだからだ。しかし、大規模な疫病禍の場合、世界的なショービジネス、国民的スポーツ、その他成功を収めた分野の文化・娯楽が深刻なダメージを受け、破綻にすら至ることが示唆された。このような機会に至って、社会を豊かにするものだったはずの文化は「必要なのか、そうでないのか」という哲学的命題に晒されることになるが、これは個人規模に焦点を当てればこれまでも繰り返されてきたのである。
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平気で生きるということ(β)
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